第2話 大賢者の慧眼

 そっと隣のアデルを窺うと、彼はやや目を伏せて長い睫毛を震わせていたが、リディアの視線に気づいてぱちりと瞬いた。

 口元を綻ばせる。

 考えることは同じだねと、そう言っているようだった。

 リディアは卓子の下でアデルの手を握った。すこし体温の低い華奢な指が、きゅ、と握り返してくる。


「……でも、先生はどうして魔王のところを追放されたのかな」

「バレちまったのさ。魔王を封印しようとしていたことが」

「ずっと封印しようとしていたのに、先生は魔王の傍にいたということ?」


 素朴な疑問に頭を悩ませるリディアに、ザジが苦笑した。


「そういう事情は、おまえたちのほうがよく解るんじゃあないかな」

「ザジ。――余計なことを喋るな」


 三人の視線が居間の入り口に向く。

 壁に寄りかかったイルザークが、腕組みをして立っていた。


「相変わらず影が薄いぜ、イル先生」

「昔のおまえなら気づいた。衰えたな、ザイロジウス」

「耳が痛てぇ……」


 イルザークはこの家にいる間、ほとんどの時間をココの枕もとで過ごしている。何か異変があればすぐに対処できるよう、睡眠さえ最低限の仮眠で済ませているようだった。

 その彼が出てきたということは、ココの容態は安定したのか。揃ってイルザークを見つめた弟子二人の視線に、師はかぶりを振ることで答える。


「……二人は魔法を使えないのでしたね」


 鳥がイルザークに顔を向けた。


「只人だからな」

「しかしザイロジウスの報告によると、駆けつけたときには自称・《黒き魔法使い》の姿はなかったと。子どもたち三人で木の檻に閉じ込めて、それをエレイルが破壊したのでしたね。どのように彼を捕らえたのです?」


 師の視線がアデルに注がれる。例によって、例え鳥の姿をしていても見知らぬ大人であるゴラーナに対して人見知りを発揮していたアデルだが、眉を顰めてぼそぼそと喋りだした。


「オルガの影渡りで背後をとったので、春ベリーの粉末で眠らせたあと、樹の精霊にお願いをしました」


「成る程」こっくりとうなずいた鳥は次にザジを仰ぐ。


「ジャンという少年は確か《バルバディア》に入学が決まっているのでしたね」

「まあな。生まれたときから魔力はあったが、センスもいい。ちょっと教えたら魔力の変質まで一足飛びに身につけたぞ。……それでもアデルの〈妖精の目〉には敵わないと、本人は不満みたいだが」

「それはそれで将来が楽しみですね。ところでアデルくん、《バルバディア》で魔術を磨く気はありませんか?」


 あまりにも軽い調子で提案されたものだから、リディアもアデルも一瞬ぽかんとした。

 特に驚いた様子を見せないイルザークとザジは事前に聞かされていたのだろう。先に我に返ったのは、似たようなことを以前シュリカから持ち掛けられたことのあるアデルのほうだった。


「……すこし、考えさせてください」


 一拍遅れてリディアの思考が追いついた。

 この地から離れることも視野に入れたアデルの返答に、無言で瞬きを繰り返した。


「いずれは力が必要になるときもくるでしょう。イルザークどのの弟子であり続けるなら尚更です」

「わかっています。魔王を殺す方法を探している先生とともにいれば、今回のような事態も起きるでしょう。そのときぼくたちは、自分の身を自分で守らなければならない」


「そうですね」ゴラーナの双眸が弓なりにほほ笑む。「そして、大切なものも」

 アデルのその答えが、リディアは寂しくもあり嬉しくもあった。

 彼なら《学院》に入学できる。その実力がある。きっと素敵な魔法使いになる。だから、何度失敗しても魔術の練習をやめられなかった。魔法薬の調合に挑戦しなければならなかった。もしも彼とともに《学院》への入学を許可されるようになれば、アデルだってさすがにオクを出られるだろうと。

 彼の枷になっていると感じていた。

 だけどアデルもまた、その気になればリディアのことなんて構わず歩みだしてしまえるのだ。

 たったそれだけのことが、いままでずっと、二人には難しかった。


「できるだけ早めに先生を通してお返事します」

「お待ちしています。……さてザイロジウス、次はジャンくんのお見舞いに行こうか」

「へーへー」


 すっかり足として使われているザジが適当な相槌を打ちながら立ち上がる。

 リディアたちも席を立ち、玄関先まで見送った。


「んじゃ、また来るわ」


 オクで顔を合わせたときと同じ態度で、ザジはひらりと右手を振った。

 あまりにもいつも通りに去っていこうとする後ろ姿に、リディアはわけのわからない焦燥に駆られて、空を泳ぐザジの左袖を咄嗟に掴む。不思議そうにぱちぱちと瞬いたザジは振り返ってちいさな頭を見下ろした。


「どうした、リディア」

「あ……、うん、なんでもない。またね、ザジ」


 ザジ、と呼んだ自分の声は驚くほど白々しかった。

 誰か別の人の名前を呼んだようにすら思える。


 オクに移住してきた、隻腕の元魔法騎士のザジ先生。ついこの間までそれ以外の何者でもなかったザジが、いまや英雄のザイロジウスになってしまった。

 オクのザジと、ベルトリカのリディアだったふたりの関係は、魔王を封印した英雄一行のザイロジウスと、かつて魔王第一麾下だったイルザークの弟子リディアに変化したのだ。もう二度と、その正体を知るより以前の二人ではいられない。


 ザジはその逡巡を察してか否か、面白そうに目をきらめかせながら、リディアの頭をぐしゃぐしゃに撫でまわす。


「またな。リディア、アデル」


 ついでとばかりにアデルの頭も鳥の巣状態にしてから、ザジは去っていった。


 なんとなくその後姿をいつまでも目で追っていたリディアは、襟首を引っ張られたことでイルザークの存在を思い出す。よく見るとイルザークは両手で弟子二人の襟を掴んでいた。

 たたらを踏みながら「先生っ?」とついていくと、イルザークは魔法でドアを開けて、二人をぺいっと放り投げる。勢いあまってリディアは転んだ。アデルはうまいこと体勢を立て直し、驚いたように師を見上げる。

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