第7話 この手をとってはいけない

 たった数日前にアデルと歩いた大通りは、死の気配にも似た静寂が満ちていた。

 通り過ぎる家々のひとつずつに、よく見知ったオクの民が住んでいるはずなのに、まるで外の者一切を拒絶するかのように頑なな意思を感じる。どこの扉にもキイラギの魔除けがかけてあったから、もしかしたらリディアの肌を刺すこの拒絶は、魔力なのかもしれない。

 人がいないのをいいことに扉の魔除けを見ながら走っていたリディアは、進路を塞ぐようにして立つ人影に気づかなかった。

 頭から突っ込み、尻餅をついて、見上げた先には一人の男が立っている。


「ごめんなさい、よそ見を……」


 反射で詫びたリディアははっと息を呑んだ。



 男は、闇よりもなお濃い色のローブを纏っていた。



「やあ……イルザークどののお弟子さんじゃないか」


 顔まですっぽりとかぶったフードのせいで容貌は見えないが、声は若い。

 彼はリディアの傍にしゃがみこむと、いかにも親切な男を装うように手を差し伸べてきた。ローブの袖から僅かに覗くその手は蒼白く、対照的に爪だけが、どす黒く染まっているのが印象的だった。

 ちがう。

 瞼が強張るのを感じた。

 イルザークの、魔法薬や材料で染まってしまった優しい爪の色とは明らかに違う。


 指にまで浸食した黒い罅割れ。これは壊疽だ。人間の体は冥界では生きていけない。満ち満ちた瘴気が内側から体を破壊する。

 この指は、邪悪なる魔力を無理やりその身に宿した反動。

 ──この手をとってはいけない。


 咄嗟に横に転がった瞬間、男の手から黒い炎が爆発的に燃え上がり、リディアの髪の毛の先を焦がした。


「ひゃ……!」

「だめじゃないか、こんなときに家の外に出ちゃあ。せっかく殺しに行こうと思っていたのに」


 いま、なにか物凄く物騒なことを言われたような。

 具体的には殺害予告をされたような。

 リディアが顔を引き攣らせている目の前で、ゆらり、と幽鬼のように立ち上がった男が見下ろしてくる。先程リディアが間一髪避けた黒い炎は男の右手からなお燃え盛り、不吉な殺意を示していた。


「《黒き》……!」


 最後までつぶやくことはできなかった。

 男の放った炎を避けたが、スカートの裾がまた焦げる。布を燃やしても広がらないということは、これは神や精霊の力を借りた炎ではなく、この魔法使い自身が有する魔力を炎状に作り替えたものなのだ。


 通常、人間は魔素を体内に蓄積し自らの魔力とする。

 本来あるべき魔法と人との姿は、その魔力を神々や精霊に献上することで少しだけその力を借りるというものだ。魔力のないアデルは、隣人たちの好む植物や鉱物を魔力の代わりに献上する。魔法とは人間の力ではない、隣人たちの力なのだ。


 だが魔法教会から〈魔法使い〉以上の階級を付与される魔法使いたちは、もう一段階、上の能力が必要とされる。

 それが、自らの魔力そのものを変質させて使う魔法。

 例えばシュリカの変身魔法。魔物であるオルガの使う大地と影の魔法。討伐隊に出発したイルザークの空間転移。隣人たちの加護や助力を必要としない代わりに膨大な量の魔力が必要だが、はるかに魔法の効力や範囲が自由になる。

 燃え広がらない贋物の黒い炎。これもまたその類い。


「ちょこまかよく避けるなぁ。さすが餓鬼はすばしっこい」

「こ、ここここれでもドッジボールで避けるのは得意だったんだから!」


 ローブの男が、自らの影のなかに溶けて消えた。──高位魔法の影渡りだ。

 反射的に背後を振り返ったリディアの頸めがけて、影から這い出た男の蒼白い手が突き出される。

 避けようとする意思に反して、体に刻まれた記憶が、少女のちいさな体に鎖をかけた。


 ──あんたがそんな変な髪の色だから。おかしな目をしているから。おかあさんはなんにも悪くないのに。


 男の指先に黒い炎が灯る。

 いけない。死ぬ。

 いままでで一番急速に近づいてきた死の神の足音を掻き消すように、そのとき、聞き慣れた怒声が響き渡った。


「炎の神ラウラよ、加護を賜えかし!!」


 ごっ、と熱風を伴う炎が目の前の男を呑みこんだ。

 おおきな目を零れそうなほど見開いたリディアの肩を掴んだジャンが続けざまに罵倒してくる。


「なにボケッとしてんだ間抜け!」


 窮地を救ってくれたジャンの容赦ない罵声に、リディアの体はようやく動いた。二人揃って弾かれたように走りだし、一瞬でジャンの魔法を喰って鎮火してしまったローブの男から離れる。


「ジャンなんで!?」

「ココばぁンとこにメシ届けに行く途中でおまえを見かけたんだよ! どうなってんだ、なんだあの不審者は!」

「多分、《黒き魔法使い》!」

「ハア!?」


 がぁっと噛みつかんばかりの勢いでジャンが訊きかえしてきたが、あの男が何者か訊きたいのはリディアも同じだ。

 後ろを振り返ったジャンが舌打ちをする。ココの〈鳥〉を受けてから走りっぱなしで足腰も限界が近いリディアの、お腹のあたりに肩を当てて勢いよく担ぎ上げた。


「ひええええ」

「るっせェ黙ってろ!! 裏道通って森に逃げるぞ!」

「ああああそうだジャン魔力貸して! おばぁちゃんが倒れてるの、とにかくメイベルさんに報せなきゃ、あとウォール医師せんせいも」

「ンな場合かよあほかてめえ!!」


 担がれて背後を見たことでジャンの懸念がわかった。あの男はまた姿を消していたのだ。このまま真っ直ぐに大通りを戻っていれば先回りされてしまう。

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