第3話 ジャンの焼いたマフィン
「……風邪?」
「いやぁね、昨日暖炉の前でうたた寝をしたのがよくなかったのかしら」
「気をつけてね。先生に来てもらおうか?」
「大丈夫よ。先生も忙しいでしょう。なにかあったら〈鳥〉を飛ばすわ」
肺がよくないココの家には、イルザークが造った伝令用の〈鳥〉が控えている。
普段は木彫りの飾りものとして窓際にちょこんと置いてあるけれど、ココが魔力を籠めればたちまち飛び立って、イルザークのもとへ異変を知らせるという仕組みだ。ココが実際これを飛ばしてきたことはないが、同じものを持っているメイベルや町医者は、急患が出たとき応援を請うために利用することがある。
「薬の在庫はちゃんとある? 肺のお薬はこの間、持ってきたけど」
「ええ。冬の前に持ってきてもらった解熱や咳止めの薬がまだあるから、しばらくは大丈夫。そんなに気にしないで」
確かにココの零した咳は最初の一つだけだった。
きっと彼女はその気になればリディアに不調を悟らせないよう振舞うだろう。かといって、多忙なイルザークが頻繁に往診すると遠慮して気に病む。そういう性格のひとだと解っているからこそ、イルザークはわざわざリディアに薬を持たせてこまめに訪問させるのだ。
(一応、帰ったら先生に報告しておこう……)
いつの間にかケーキもお茶も空になっていた。
渡すタイミングを逃し続けた、昨日一日の煩悶と引きこもりの成果である春用セーターを帰り際にプレゼントして、リディアはココの家を辞去した。
本当は日が暮れるまでココの家に匿ってもらおうと算段をつけていたのだが、話の内容や彼女の不調があって居辛くなってしまった。
オクには、王都のほうではやりのカフェや、図書館のようなものはない。時間を潰すとすれば町の中央にある泉の広場か、学校近くの公園くらいだ。
春になったばかりでまだ肌寒いけれど、天海の水面で少しやわらいでいる陽射しは穏やかで心地いい。パン屋でなにか買って、公園で日向ぼっこにしよう。
通い慣れたお店の、緑のドアを押し開けると、カランカランと乾いたベルの音が鳴った。
小麦や、お砂糖や、バターの甘いにおいがする。店の奥から出てきたおかみさんが「あら、リディア」と破顔した。
「いらっしゃい。今日は一人なのね」
「うん、そう。公園でお昼にしようと思うの」
「いいわねぇ。そういえば今日、ジャンの焼いたマフィンがあるのよ。いい宵待鳥の卵がたくさん入ってねぇ」
「へえぇ! じゃあそれください!」
うっかり購入して店を出てから気づいたが、この間アデルに対してひどいことを言ったジャンのことはまだ怒っているのだった。
このオクでは珍しく、生まれつき魔力の保有量が高かったジャンは「田舎のパン屋なんか継ぐかよ」といつも文句を言っていたが、パンを焼くこと自体は好きらしかった。
昔から自分の食べたいメニューを開発したり、近所のちいさな子たちにせがまれてギャーギャー騒ぎながら焼いてあげたりしていた。そうして焼いてあげたパンを食べるひとたちの笑顔を見ては、いつも釣り上げている目元をちょっと緩める。
リディアのうしろでもぐもぐしつつ忌憚ない意見を述べるアデルには、「うるせえ」だの「黙れ食うな」だの激しい暴言を吐きつつも、次までには指摘された部分が改善されていた気がする。
そういえばそんなジャンも、《学院》への入学が決まったと話していた。
《王立バルバディア魔法学院》は全寮制だ。ジャンももちろん、オクを出て王都へ旅立つことになる。学院を卒業して、いかなる進路を択ぶにせよ、おそらくオクに戻ることはないだろう。
もしかしたらジャンの焼いたマフィンもこれが最後なのかもしれない。
アデルへの憎まれ口にリディアが怒って言い返して、たまにひどく傷つきもしたけれど、次までにはお互いけろっとして、また会って。この六年間、当たり前のように顔を合わせていたジャンと、もうすぐ会えなくなる。
(ああ、確かに、生きてお別れを言えるのならば、きちんと言ったほうがいいのだろうな……)
辿りついた公園のベンチに腰かけて、ジャンの焼いたマフィンを齧った。
天高く、白い波濤の織りなす雲海がどこまでも続く。陽射しが天海のなかで揺れて、拡散し、きらきらと海の動きにあわせてゆらめいた。空気中の魔素に乗って泳ぐ飛び魚が虹色の群れをつくって、北へと渡っている。
「ありゃぁ南でなんかあったな」
「うわっ、びっくりした!」
ひとつも気配を感じさせず隣に顔を出したのは髭面の男だった。
「びっくりさせたか。悪い悪い」
悪びれず白い歯を見せて笑うと、彼はリディアの横に腰かける。
オクの町に、三年前に移住してきたばかりのザジだ。
もともとは魔法騎士として王都で勤めていたが、事故で左腕を失って退役し、いまはオクの小学校で簡単な魔法を教えている。リディアとアデルはイルザークに弟子入りしているため学校には通っていないが、師の薬を彼のところに届けていることもあって顔見知りだった。
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