第8話 お日さまのような女の子

 森のなかの小径を歩いているうちに、引いていないほうの左脚が疲労を訴え始めたので、アデルは道の脇で朽ちかけている倒木に腰かけて休憩することにした。

 買ったパンだけが入った軽い薬箱を脇に下ろし、膝に頬杖をつく。

 六年前、森に住まう魔物に咬み千切られた右の脹脛は、左に較べると少し痩せていた。抉れた肉がなかなか戻らなかったことと、引きずる癖がついたせいで筋肉がつかないことと、両方が影響している。

 その右脚をぼんやりと見下ろしていると、これを見るたびほんの少し目を伏せる片割れの少女の、哀れな横顔が脳裡にちらついた。


 リディアはお日さまのような女の子だ。

 さらさらの栗色の髪の毛に、透き通るペールグリーンの瞳、彼女自身はあまりいい思い出がないだろうその容姿は、こちらの世界では当たり前のもの。もともとの朗らかな気性に加えて、愛嬌たっぷりの笑顔、子猫のような声、くるくると変化する裏表のない表情。リディアのことが苦手な人はオクの町にはいない。

 ジャンだって、そうだ。

 そんなリディアのそばに、愛想がよくなくて、右脚を引いていて一人じゃまともにお使いもできない、それでいてジャンよりも力の強い魔術を使えて、〈妖精の目〉を持ち、ほんの少し存在が精霊寄りのアデルが常にいる。ジャンが自分を厭う気持ちは、ほんの少しだがわかる気がした。

 リディアとアデルが二人でいるときにだけ、彼の罵詈雑言は激しくなる。

 あんなもの好きの裏返し以外のなにものでもないのだ。昔から。


 しかし、――しかしである。

 当のリディアは筋金入りの鈍感娘、なまじっかアデルがずっと隣にいたせいで「異性を異性として意識する」という意識自体が欠如した天然記念物、ついでにちょっとおばかなところもあって――そこがまた可愛いのだが――、ジャンの気持ちなどこれっぽっちも感づいていないしこれから先も気づく見込みがない。

 最近アデルはジャンが不憫で仕方がなかった。


「……そうか、ジャンはバルバディアに入学するのか……」


 正式名称を《王立バルバディア魔法学院》というその機関には、一定の魔力を有する子ども、もしくはすでに魔法使いに師事しており師から入学を推薦された子どもが、更なる研鑽を目指して集う。

 アデルは一度だけ、シュリカから入学を打診されたことがあった。

 あまり周知されていないが、《学院》では魔術の研究にも力を注いでいる。アデルほどの魔術の使い手であればきっと入学できるだろう。イルザークからはきっと言い出さないだろうが、その気があるのなら学園に話を通してみるが、いかに。大体そんな感じの話だったがアデルはその場で断った。


「まあ、関係ない話か……」

「なにがだ?」


 ひょこ、と顔を覗かせたのは、捻じれたツノを持つしろがねのオオカミ。

 アデルとリディアの背後から気配を消して近づくのが趣味な森のヌシだ。座った状態でもアデルの背丈ほどの巨躯であるのに、彼がその気になれば気配も足音も一切がひそめられてしまう。

 その接近を察知するコツが、実は一つだけあるのだが、リディアはいつになってもびっくりしている。


「オルガ……」

「ひとりか。足が痛むのか」

「すこしね。だから休憩ちゅう」

「乗るか」


 オルガの瞳が細まった。人間くさい微笑みだ。


「いいの?」

「よい」


 薬箱の背負い紐のところを咥えたオルガが、跨りやすいように身を屈めてくれた。不自由を抱えた体はそれでも苦労したが、ふっと地面から押されるような感覚がして、気づけばオオカミの背中に収まっていた。

 オルガは大地と影を操る種族だ。きっとなんらかの手助けをしてくれたのだろう。


「ありがとう、オルガ」

「なんの」


 リディアやジャンと同じように歩いたり走ったりできない脚を、恨めしく思ったことがないと言えば嘘になる。

 だがこれは罰だ。

 リディアを巻き込んだ自分への、罰。


 アデルが落っこちないようにゆっくりと歩くオルガの、すこし硬い銀色の毛、その下でなめらかに働く筋肉や骨の震動を感じながら、細く長く唇から息を吐き出した。

 視界の端に、黒い影が、蠢いている。

 錆びた刃のようなにやけ顔の仮面をつけた、アデルの腰あたりまでの大きさの影だ。意思があるのかは定かではない。だがここ数日、ベルトリカの森のなかでよく見かける。

 先日はついにイルザークの家の敷地内に侵入し、畑ではあろうことかリディアの肩に触れようとしたものだから、頭に血が昇ってついしてしまった。


「オルガ」


 低い一声にオルガが動きを止める。

 アデルが睨む森のなかの一角に鼻先を向けると、目と目の間に獰猛な皺を刻んだ。


「……去ね……!」


 オルガが唸り声とともに魔力の一閃を放つ。もともとたいして強い力を持つものでもないので、その一撃で黒い影もにやけ顔の仮面も霧散した。

 周囲を注意深く見渡して、おかしな気配が消えたことを確認すると、オルガの首元をぽんぽんと叩く。


「……あれ、なんなの。最近よくうろうろしてるけど」

「知らぬ魔力だ。……だが、よくないな」


 アデルよりもよほど長く生きている森のヌシですら知らないことがあるのか。

 いまのところ実害があるわけではないが、あのにやけ顔は見ていていい気がしない。


「イルザークはなんと」

「先生は、放っておけって。魔力を吸って際限なく湧いてくる類いの使い魔だから、気にしたり祓ったりするだけ魔力の無駄だって言うんだけど」

「ふん。まあアデルらに害あるものであればあれも黙ってはおらぬだろう」

「そうかなぁ……」


 オルガは不機嫌そうに鼻を鳴らして、またゆっくりと歩きだす。

 その背に揺られながら、アデルは先程メイベルが教えてくれた話を思い出していた。


「……オルガは、魔王を知っている?」

「ああ。知っているぞ」

「見たことある?」

「うむ、遠目から一度。普通の魔法使いと変わらぬように見えたがな」


 魔王、というからには人間離れした姿かたちを思い描いていたのだが、そうでもないようだ。それとも四足歩行のオルガから見れば二足歩行は全て人間と同じに見えるのだろうか。

 復活したという、魔王第一麾下の《黒き魔法使い》。

 なにをどう黒と称するのかは解らないが、魔王のほうは、言い伝えによると黒い髪に黒い眼をしているという――そう、ちょうどアデルやイルザークのように。


「ぼく、先生が魔王だって言われてもびっくりしないな」

「イルザークが魔王か……。ふふ。違うぞ」

「だよね。二十年前に封印されたんだもの、時系列が合わない」


 余程おかしかったのか、オルガの体がくつくつと笑みに揺れている。

 莫迦な想像をしている自覚はあったので、アデルは彼の頭の上にぱたりと上半身を預けると、目を閉じてちょっとだけ顔をほころばせた。

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