第二十一話「蘇る大横綱」
「綱の威厳はどこに」
「狛ヶ峰、防戦一方」
狛ヶ峰のデビュー戦を報じる各紙はこぞってその試合を酷評していた。どれも狛ヶ峰の豪快なフィニッシュホールドを期待していたものであるが、そういったものはなく不完全燃焼に終わり、かえって一方的なやられっぷりだけが印象に残った、とする評価であった。
「社長、芳しくないぜ」
長崎浩二は京スポを手にしながら言った。大般若興行の新たな商品である狛ヶ峰の試合が酷評されたことで、焦りを感じているのだ。
「見てくれ社長。横綱ってばずっと後ろ受け身の練習ばっかやってんだ」
酷評を受けた試合後の練習風景である。
見れば狛ヶ峰は、汗だくになりながら独り後ろ受け身の練習をひたすらに繰り返しているではないか。無数に繰り返す後ろ受け身だが、見事にバシッと決まるものが一度としてない。
後ろに倒れ込む恐怖心に勝てず、まず尻から落ち、次いで背中から着地する受け身を何度も繰り返しているのだ。
ババン! ババン!
道場には狛ヶ峰が一度受け身を取るたびに響く、二度の衝撃音がもう何十回も響いていた。これでは怪我を回避するための受け身で、かえって怪我をしてしまいかねなかった。
「極悪坊の言ったとおりだよ受け身なんか必要ねぇよ。あんな受け身じゃ横綱いつか怪我しちまうよ。社長から教えてやってくれよ」
長崎の言い分は理解できないものではなかった。
世間が狛ヶ峰に求めているのは豪快な勝ちっぷりであった。ファンの多くから憎まれるほどに強かった大相撲時代を彷彿とさせるような豪快な技に勝ちっぷり。それに対して
「狛ヶ峰負けろ!」
という野次を飛ばすのが世間一般の狛ヶ峰に求めるいわば「土俵態度」であった。
だが当の狛ヶ峰はそのような声などどこ吹く風、阿吽の呼吸で大般若孝から挑戦を受けて見せた稀代のエンターテイナーとしての自己マネジメントも今は影を潜め、一体誰のためかは知らぬ、ただ黙々と受け身の練習を繰り返す姿は不可解そのものだった。
「しまいに売り物にならなくなるぜ」
狛ヶ峰の行く末を危惧する長崎浩二の声に対して、大般若孝はひと言
「黙って見てな」
とこたえるだけだったという。
既に何度目かの試合に出場し、幾許かのキャリアを積んだ狛ヶ峰だ。今日は初めてのシングルマッチ。極悪坊との一戦だ。体格的に狛ヶ峰に見合う相手である。
普段は反大般若孝陣営として共闘する二人であるが、シングルでどの程度の試合が出来るか見極める目的で組まれた試合であった。万が一の事態が発生しても、極悪坊であれば収束できるという安心感もマッチメイク側にはあった。
試合はいつもの極悪坊の流れである。パワーで勝る狛ヶ峰に、反則攻撃のオンパレードで反撃の隙を与えない。狛ヶ峰の額にナックルを叩き込み、パイプ椅子で殴打する。それに対して狛ヶ峰の受け身はやはりぎこちなく、一度攻撃を受けるたびに
ババン!
と二度響く受け身を取って目の肥えた観客の失笑を買っている。
タッグマッチであればどのような形であれフォローに入ることが出来る長崎浩二であったが、シングルマッチであればそれもままならぬ。リング上の極悪坊に全てを任せるか、狛ヶ峰本人に何とかしてもらわなければならない。
事実、リング上では狛ヶ峰の危険な受け身を心配した極悪坊が、喉輪落としなど得意のムーブメントを封じて凶器攻撃を多用する単調な試合となりつつあった。観客は盛り上がりもせず、声援は単発である。さすがの極悪坊も焦りを禁じ得ない。
「社長、こりゃ当分ダメだ」
長崎が諦めのような言葉を発したその時だ。
極悪坊がこの日何度目か知れぬ、パイプ椅子攻撃を繰り出した。パイプ椅子が狛ヶ峰の脳天を捉え、場外で俯せにダウンする狛ヶ峰。
ぱらぱらと飛ぶ声援だったが、次に狛ヶ峰が顔を上げたとき、観客からこの試合で初めてまとまった声援が上がった。狛ヶ峰の額が割れて、流血しているのだ。
「今日、カット言ってたっけ?」
長崎が困惑する。
カットとは、額などを剃刀で切って流血試合を演じることである。通常はレフェリーなどにカットしてもらうことが多い。魅せるためとはいえセルフカットはやはり怖いものだ。ちなみにセルフカットとは読んで字の如く、自分で自分の額を切ることである。
見ればレフェリーと狛ヶ峰の位置関係から、狛ヶ峰の流血がセルフカットであることは明らかだった。
「やりやがった!」
長崎が狂喜して叫ぶ。
「うおーッ!!」
顔を血で真っ赤に染めた狛ヶ峰が咆哮する。そして目が覚めた如く、激しい張り手を極悪坊の胸に見舞って怒濤のように追い詰めていく。
これまでのやられっぷりが嘘のような反撃だ。
これに伴って観客のボルテージも今日一番に盛り上がる。狛ヶ峰が繰り出すわざといえば張り手ばかり、チョップが飛び出したら良いところだというのに、である。
そして極悪坊をリング上に戻した狛ヶ峰。
パワーボムの体勢に極悪坊を捉え、担ぎ上げた。さしも巨大の極悪坊も、天下の横綱狛ヶ峰に担ぎ上げられては、その溜めの一瞬に恐怖の色を湛え、なされるがままだ。
そして、パワーボム一閃。
落下の衝撃が会場の床を伝わってリングサイドの席を揺らす。
レフェリーがすかさずカウントに入り三つ。
ゴングが鳴り響き、狛ヶ峰の右手が高々と挙げられた。
「どうやら、なにか掴んだらしいぜ」
リング上の狛ヶ峰と、バックヤードから試合を眺めていた大般若孝は、期せずして同じセリフを吐いていたのであった。
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