第十五話「理事長の背中」
翌日、県警本部刑事部捜査第一課の参考人応接室のソファーに浅く腰掛ける北乃花理事長の額には大粒の汗が浮かんでいた。全盛期に百五十キロの巨体を誇った基礎代謝の大きさによるものか、突きつけられた狛犬の証言なるものに焦りを隠せないでいるのか。
今村は目の前に座る北乃花理事長の顔を、鋭い視線で観察しながら
「狛ヶ峰が八百長に手を染めていることを協会幹部としてご存知だったかどうか」
と迫った。
理事長は額の汗をハンカチで拭いながら
「故意による無気力相撲は過去の一時期に発生した問題に過ぎない。名古屋場所で狛ヶ峰から連山或いは霧乃山に対して八百長の打診があったかどうかは把握していない」
とする見解を述べるのがやっとであった。
そんな北乃花に対して今村は、一枚のメモを広げながら言った。
「場所前、理事長は優勝候補の名に狛ヶ峰を挙げてらっしゃった。それに対するファンからのコメント一覧です」
今村が示したのは、インターネット上の大相撲掲示板の書き込みから抜粋したものであった。
メモには
「狛ヶ峰優勝? ないない」
「注射打たなきゃ今さら狛が優勝なんてできないでしょ」
「今場所もガチは五番前後かな」
と、狛ヶ峰優勝に否定的なコメントがズラリと並んでいた。
「まず聞きますけど、注射って、なんです?」
今村は北乃花理事長に訊いた。
無論捜査の過程で角界の隠語についてある程度知っていた今村であり、注射というのが八百長相撲を指すことについて知らなかったわけではない。今村は公然と使われている隠語の意味を訊ねた行為に対し、理事長がどういった反応を示すかを見極めようとしたのである。
北乃花は
「過去の一時期に発生した故意による無気力相撲の中で使われていた、八百長相撲を意味する言葉ですね」
とこたえた。
飽くまでそのスタンスを貫き通すつもりらしい。
では、とばかりに今村がたたみかける。
「この『ガチ』ってのはどういう意味でしょうね」
無論ガチの意味についても知らずに訊いている今村ではない。
八百長を意味する「注射」の語源については、諸説あるうち
「打てばすぐ効くから」
というのが有力であったが確証はない。
それと比較すれば「注射」の対義語たる「ガチ」すなわち「ガチンコ」の語源は明白である。
立合の際に頭からぶつかる擬音を語源としているのであろう。
「これも同様に、過去の一時期に発生した故意による無気力相撲の中で使われていた、真剣勝負を指す隠語です」
北乃花理事長の回答は先ほどと同様であった。
そんな理事長に対して、今村は大袈裟な仕草で溜息を吐いてみせた。
「はぁ~。それで良いんですかね理事長?」
「……」
今村の意図を読みかねて言葉を返すことが出来ない北乃花。
「実はね……」
今村は額一杯に汗を浮かべる北乃花理事長を殊更いたぶるようにもったいぶって言った。
「狛犬が全部教えてくれましたよ」
「教えてくれたって、何を……」
「注射相撲の話ですよ」
「だからそれは……」
「過去の一時期に発生した故意による無気力相撲を指す隠語。またそうやって逃げを打つつもりでしょう。結構です。是非そうしなさい。
うちはうちで、決められたとおりにやりますから」
「どういう意味でしょうか」
「そちらが八百長の有無を把握しているかどうかに関わらず、狛犬が供述した犯行動機を広報するということです。
世間が一番知りたがってることですからねえ」
北乃花の目がみるみるひん剥かれていく。
「そんな……一方的な!」
「一方的? いやだなあ。じゃあ予告もなくいきなり広報して欲しかったんですか? こちらとしては温情裁定のつもりでしたけど、そんな言い方をされるんならこちらは今からでも広報文を報道各社に流したって良いんですよ?
理事長。安心して下さい。
我々はなにも、広報文を流すか流さないかであなた方と取引するつもりなど少しもありません。広報はもうするんです。これは決定事項なんです。
我々がこれを流せばあなた方はどうなりますか? きっと記者会見ってやつをしなけりゃいけなくなるでしょう。なので私がこうやって理事長にお話ししている内容は、理事長を問い詰めて困らそうとかそういう話ではなく、むしろ逆で、少しでもあなた方に時間的猶予を与えて、準備をしてもらおうという恩情から来てるんですよ。そこの所を履き違えてもらっては困ります。
『注射相撲とは過去の一時期に発生した故意による無気力相撲を指す隠語』。大いに結構。記者会見ではその線でせいぜい励まれるがよろしい」
今村の言ったとおりで、愛知県警としてはこの場で広報するかしないかをネタに北乃花理事長を
「八百長があることは認めますので広報は勘弁して下さい」
などという取引に持ち込まれる方が捜査としてはマイナスであった。
しかしそれにしても今村の言い方は必要以上に北乃花理事長をいたぶるものであった。
北乃花は、現役時代にどんな負け方をしても見せなかったような、打ちひしがれた後ろ姿で県警本部をあとにした。
同席していた捜査第一課長補佐は
「切れ味鋭かったねえ今村班長。俺の方が背筋が凍っちゃったよ。
あの理事長のこと、嫌いなの?」
と問うほどだった。
今村は目を伏せてなにもこたえなかった。
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