第二節 崩れゆく日常

第8話 騒がしい朝

 五月八日――午前七時


 窓から差し込む朝の日差しと、スズメの鳴き声――

 いつもと変わらぬ朝がやってきた。

「う、うーん」

 眠い目をこすりながら、凛はけたたましく鳴る目覚まし時計を止める。

「あと三〇分……」

 と、二度寝しようとした瞬間――

 もにょん。と、柔らかい感触を右手に感じ、凛は動きを止めた。

「なんだ?」

 掛布団をめくってみる。

「すぅ……すぅ……んぅ……凛さん……」

 そこには静かに寝息を立てる綺華がいた。

 そして、肝心要の凛の手はというと、彼女の胸の上に置かれていた。


「うおおっ!?」

 叫び、驚きのあまりベッドから転落する。

 いやいやいや、前提からしておかしい。朝起きたら、美少女が隣で寝息を立てていた。これなんてエロゲ?

 だが、騒いだところで状況は変わらない。冷静になるのだ、冷静に。後頭部にズキズキした痛みを感じながらも、自分にそう言い聞かせる。

 まず、昨晩の行動を遡ってみよう。刺客に襲われた後、風呂に入っていたら綺華に襲われた。そして、寝床に就こうとしたら綺華に襲われた。


「そういえば、途中からの記憶がない……!」

 おそらく、気絶したのだろう。我ながら貧弱なものだ。

 そして、先程まで触れていたモノ――あれは間違いない。綺華の胸だ。

「気付かなかったとはいえ、僕はなんてことを……」

 頭を抱えうなだれる。知らなかったとはいえ、女性の胸を揉んだのだ。つまり、セクハラしたのだ。

 これはれっきとした犯罪――そんな罪の意識がこみ上げてくる中、同時にある感情が湧き上がってきた。


「綺華の胸、柔らかかったな――って! 何考えてるんだ、僕はッ!」

 もっと触りたかった、そんな不埒な感情を叩き出すように、壁に頭を打ち付ける。

 だが、凛とて思春期の悩める男子高校生。その程度では胸の奥底からこみあげるリビドーを抑える事はできない。


 胸――直接的な表現をすると、おっぱい。それは全男子の垂涎の的だ。天国ヴァルハラ、それが今目の前にある。手を伸ばせば届く範囲にそれがあるのだ。

 ここでそれを諦めるという答え、それはナンセンスだ。目の前の楽園をみすみす逃す必要があるだろうか。いや、ない。

 なら、腕を伸ばそうではないか! そしてその手中に新世界を掴む!

「す、少しだけなら……」

 強引に結論付け、凛はゆっくりと腕を伸ばす。

 が、その手は目標まで五センチというところで止められてしまった。他ならぬ、綺華の手で。


「凛さん、何してるんですか?」

「綺華!? ごめん、これはそういうのじゃなくて――」

 予想外の事態に頭が真っ白になる中、慌てて弁明しようとするが、そこで言葉が途切れる。

 綺華の手により強引にベッドの中へ引きずり込まれてしまったから。


「んもぅ……凛さんたらぁ。そうしたいなら、最初から言ってもらえれば私、なんでもいたしましたのにぃ……」

 そう、トロンとした瞳で綺華が囁く。

「駄目だコイツ、完全に寝ぼけている」

 冷静に言うが、その実、心拍数はうなぎのぼりだ。まずい、このままでは昨晩の二の舞になってしまう。とにかく脱出しなくてはならない。

「だから、私を満足させて下さい」

 そう言い、綺華が下腹部あたりに乗ってくる。いわゆるマウントポジション、またの名を騎乗位。


「ちょっ!? 綺華!? そういうのはまだ早いというか」

「早い? 私は一〇〇〇年待ちました。もう我慢の限界です。だから、いいでしょう?」

 そう言った綺華の貌は実に艶やかで、言葉が出なくなる程美しかった。そして凛は静かに悟った。

 これが妖狐の本当の姿なのだと――

 事実、妖狐は人間の男を騙し、その精気を吸うという。

 だが、凛は忘れていた。彼女の柔和な性格にほだされ、その事実をすっぱりと忘れていたのだ。


「さあ、凛さん。私に貴方の全てを見せてください」

 普段の気さくな様子ではなく、オトナっぽい色気を持った綺華。髪を払うその仕草にさえも、ドキリとし、思わず生唾を飲み下す。

「凛、朝からうるさいわよ!」

 そんな折、扉が開き雪羅せらが入ってきた。

「ななな、何してるのよ! 綺華ちゃん!」

 が、この光景を目の当たりにするなり、慌ただしい所作で綺華を引きはがした。

「何って、夫婦の契りを交わそうとしただけですけど?」

「夫婦って、凛は今年一七よ!? 最低でもあと一年は待ってもらわないと駄目よ!」

 違う、そうじゃない。

 姉の言葉に心中で抗議する。


「なんなんですか! 性欲の赴くままに暮らして何が悪いというのですか!?」

「それが法律! この国の決まり! 『性欲には、勝てなかったよ……』じゃあ、済まないの!」

「法律がなんですか! 愛があれば歳の差なんて関係ないんです!」

「『郷に入らば、郷に従え』よ! 人間の男は一八になるまで結婚できないの! 貴女も分別着いた大人でしょ!?」

「妖狐にとって一五〇〇歳はまだ子供です! あっ、でも、結婚はできますよ?」

 そんなレベルの低い言い争いを前に、凛は急速に冷めていくのを感じていた。



「――という事があったんだ」

 教室にて。凛は後ろの席に座る夏音に今朝の出来事を零していた。

「なんか……色々大変ね。その綺華とかいう、従妹さん」

「ほんとだよ……」

 夏音の言葉に首肯し、ため息を吐く。

 ちなみに、綺華の事は従妹という事にしてある。わざわざ妖狐だと言う必要もないし、従妹にしておけば都合がいいだろうと思ったからだ。

「ほら、お前ら座れー。朝のホームルームを始めるぞー」

 チャイムと共に担任が教室へと入ってくる。


「と、その前に、今日からこのクラスに新しい仲間が増えるぞ」

 その言葉にクラス内の生徒が騒めき立つ。

「まさか転校生か!?」「可愛い女の子だったらいいなぁ」「バカね、イケメンに決まってるでしょ」

 などと、クラスの連中はまぁ、呑気なものだ。


「転校生ね……この時期になんて妙ね」

「確かに。連休明けの昨日だったら分かるけど、ド平日の今日とか、ちょっと変だな……」

 夏音の言葉に頷く。親の仕事の都合などと言われてしまえばそれまでだが。

「入って来ていいぞ」

 担任の言葉と共に、扉が開き、一人の少女が入った来た。

 陽光を反射させ、キラキラと輝く金髪。静かな印象を受ける翠の瞳。そして、制服の上からでも分かる豊満なバスト。

 正に絶世の美女がそこにはいた。

「初めまして。狐雨こさめ 綺華と申します。田舎育ちのため、知らない事も多いとは思いますが、どうぞよろしくお願い致します」

 そう、綺華はこちらを見つめ、笑顔で言って見せた。


「ねぇねぇ、凛、今あの子綺華って言ったわよね? まさか……」

「ああ、その通りだよ……この学校に編入してくるとは思わなかった……」

 首肯し、項垂れる。

 なんてこった。あのテンションの対応を学校でも行わなくてはならないなんて。

 凛は机に突っ伏し、大きなため息を吐く。

「先生、狐雨こさめさんの席ってどこですか?」

 そう尋ねたのはクラス委員の牧田だった。

「あ、ご心配なく。私、もう席は決めておりますので」

「いや、狐雨こさめ、席を決めるのは――」

「雨村 凛さんの隣です!」

 担任の言葉を遮り、綺華は高らかに宣言した。


「終わった……グッパイ、僕の平穏な学園生活……」

 元より夏音と関わっていた時点で平穏とは程遠かったのだが。

「雨村って、あの雨村か?」「小野宮さんの婿って噂の?」「ああ見えて肉食なのね」

 ヒソヒソとクラスメイト達の会話が耳に入ってくる。

「何を隠そう、私は凛さんと未来を誓い合った仲なのです!」

 言下、クラスメイト達の視線が凛へ向けられた。

「あ、凛さん。そんな所に居たんですねーえへへ、今日から一緒にお勉強頑張りましょうね……!」

 向日葵のような笑みを浮かべ、大仰な身振りでこちらへ手を振る綺華。

 そんな笑顔を見ていたら、誰一人として追求する事はできなかった。


「りーん? 後でちゃんと、せ・つ・め・い・しなさいよね」

 ただ一人、夏音を除いて。

「分かったから、シャーペンで背中ツンツンするのやめてもらえませんか、夏音さん。地味にそれ、痛いから……」

 背後から感じる殺意ともとれる気。

 あまりの恐怖に、凛は後ろを振り向く事ができなかった。

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