第2話 天才ハッカー少年の死


葉山利奈は翌日早朝、東京都八王子、高尾山中腹にある古めかしい邸宅前にいた。

11月半ばの見上げる高尾山は、突き抜けるような雲ひとつない秋空で、黄に染まり散り始めた葉が高く舞い上がっていた。美並が購入したばかりの新車に便乗することで仮眠をとった利奈は、車から降りると大きく背伸びをした。突然、顔に痛いほどに冷たい山降ろしに舞った落ち葉を浴び、コートの襟元をあげた。

「眠気が飛ぶぐらい寒いわね」

釣り上がった眉が特徴の美並は、眉下の眼を眠そうに擦った。

「いいですよ葉山さんは横で寝てたんですから。ほとんど寝ずで、こんなとこまで来るなんて…」

パトカーに横付けした愛車の白いセダンをゆっくりと降りた。

「そんなに眠いんなら、ここで待ってる?」葉山は口元を上げ訊いた。

「行きまス…行きまスって…ここまで来て、そんな訳ないでしょ…」美並は大きなあくびをし、歩を進めた。


築地署のサイバー犯罪対策室は、コンピュータ犯罪を中心とした犯罪を捜査する特別対策室である。所轄に配置される対策室としては例外で、警察本庁の分室として都内広域捜査を行う。サイバー犯罪対策室は、対策班と捜査班に分かれており、人材不足は否めない。

対策班が、個人や企業から寄せられるサイバー犯罪の相談に当たるのに対し、ハッキングされた相手を特定し、容疑者を断定するのが捜査班の主たる仕事である。

捜査班は、捜査二課から転籍した美並武弘と、「御堂コンサルティング社」の元技術者・ホワイトハッカーとして慣らした経験を持つ、葉山利奈の二人だけが所属する。利奈は警視庁の経験者即戦力採用で一発採用した実力を持つ。


昨夜、築地署でのDOS攻撃を深夜二時までかかって対処した二人にとって、別件での呼出はいい迷惑だった。まだ、《エニグマ》の捜査は始まりもしていなかった。

科特研の強力を得て、葉山利奈が有り得ないログを見つけ解析に回した。

ログは、山川システムズという丸の内にある十名程度のネットワークセキュリティの会社のものだった。セキュリティ会社だったのが幸運で、直ぐにログ紹介をかけ、《外部ハッキング》を受けていることが露呈された。朝から捜査二課が出張って、情報収拾に向かっている。犯人は山川システムズの個人情報を引き出し、警視庁築地署に侵入。ネットループを起こすDOS攻撃ウィルスを送り、ログリストと呼ばれるアクセス履歴を削除・改竄しシステムから離脱していた。

葉山利奈は、御堂コンサルティングの元上司であり社長である志賀に相談し、協力を願った。


茶褐色にくすんだ大きな木門の前に出来た野次馬を横目に、規制線を越える。人が一人通れる程開かれ覗く庭に人影が見えた。葉山利奈の小顔が引きつる。幅広な肩で猫背、黒いジャンバーがみえた。鷲鼻をなぞるような仕草を見せて、こちらに気がついた。

築地署捜査一課の八重樫警部だ。

「やっぱり、居ましたね。朝早いからいないかもと思いましたが…」美並が残念そうにぼやく。

「参ったなぁ…」葉山が苦手とする八重樫が、門の木枠に手をついて二人に白い歯を見せ、嬉しそうに笑う。

「おうおう、葉山か!今日は志賀はいないのか!」

反らした視線をもう一度向ける。

「社長は忙しいんで、いつも現場に一緒に来るわけじゃないんで…」葉山は会社を辞めてはいるが、志賀をまだ社長と呼んでいる。

「そうか、残念だな」

「社長に用件でもあるんですか?」

「知能犯がヌルいから、お前たちみたいな、何しているか分からないのが幅をきかせることになるんだからな」八重樫は、サイバー対策室には不審がっている。《捜査二課や科特研が機能を果たしていない》が持論で、話が長くなると二人をけなし始め、最終的には元締めの志賀を《うさんくさい奴》と締めくくる。

美並が八重樫と視線が合い、丁寧に頭を下げた。

「八重樫警部、おはようございます!」

ご機嫌とりの挨拶で美並が深々と頭を下げる。

「あぁ、美並かぁ、お前も早く足洗えよ」

「はい、そのうちに、捜査二課へ戻ります!」美並が何度も腰を折る。

利奈は口を尖らせ、八重樫に見え見えの嫌そうな顔を見せた。

「被害者が、リストの人物って本当ですか?」

八重樫の呼出は、葉山利奈が作ったリストが原因だ。

「あぁ、警視庁からの依頼で、貴様が作った《ハッカー予見リスト》のトップに名前が載ってる少年だ。一応連絡しただけや…こっちに顔出すとは思わへんかったけどな」

呼んでおいて、その言い草は無いだろうと葉山が口尖らせる。

八重樫の腕を、くいっと胸に引き寄せ《来い》という態度を示した。

二人は門を潜る。美並が眠そうに続く。

そこには日本庭園が広がっていた。何もなかったように、葉山利奈が切り出す。

「…死亡したんですか…」

「あぁ、で、昨日大変だったそうだが、《エニグマ》の情報を志賀に渡したのは、何時だ?」八重樫が葉山に訊く。

「3時過ぎです」と美並が後ろから応えた。

「志賀に渡したら即解決か、解せん。サイバー対策室って言っても志賀の力に頼らないと何も出来ないのか」八重樫のいつもの言い草だ。

葉山にとっては即断即決、最善を尽くすために志賀に相談したのに、その揚げ足を取られるのは、悔しい限りである。ふて腐れ黙った。

解決遅延による二次被害発生が怖かった。犯人断定は出来ていないが、社長は、直ぐに原因を断定し処置を指示してくれた。全く凄い人物である。


盛田馨、男性、19歳、《天才少年ハッカー》だ。呼称の由来は、去年11月に東京幕張で行われたJNSカンファレンス主催のハッキングコンペテイション部門で、高校生でありながら社会人に混じって三年連続優勝という快挙を成し遂げたからである。葉山が作成した《ハッカー予見リスト》とは、強力なハッカーと成りうる可能性ある人物のリストアップである。彼はそのリストのトップランクにある。大学に入っても、大手企業に予告ハッキングを行い、ネットワークセキュリティの脆弱性を暴き、システムの保全性を露呈させシステム設計を提案し、億を稼いでいる。欧米では当たり前の、いわゆるVMA(vulnerability management Aproach※脆弱性アプローチ)を専門にやっているフリーランスである。良心的なハッカーの部類であり、海外では当たり前のセキュリティ専門家と分類され犯罪扱いされない。

一概に彼をブラックハッカーと分類出来ない。

彼の手口はあくまでVMAであり、予告ハッキングを行って行動する。ハンドル名を《HECTOR-FREE=ヘクターフリー》と名乗っていた。


豪邸とも呼べる盛田邸本宅前まで続く庭を突き進むと煤の匂いが鼻をつきだした。二三連打ちされた飛び石を無視して進む。立派な松の木をゆっくりと周りこむと、半焼宅が視界に飛び込んだ。黒く所々焼け焦げた外壁の隙間から燃え尽きた柱が覗く。手前がよく燃えており、山手奥側は原型を留めている。夥しい標板置かれ葉山が目を凝らす。

「火事ですか、もしかして焼死?」

八重樫が両手をポケットに入れたまま、首を縦に振った。

「標板は、灯油缶があった場所だ。延焼状況から、灯油缶二本以上が使われていると消防が言ってる。灯油缶から、成田馨の指紋と掌紋が見つかった」

振り返って本宅を指差す。

「本宅は、エアコンも電気暖房もない。暖をとるのに灯油を使ってる。おそらく散乱してた灯油缶は本宅にあったものだ。この離れはエアコンが付いてて、灯油を使う暖房器具は延焼後からも見つかってない」

「灯油缶は盛田馨が自分で持ってきたのですか?本宅にあるものを触っただけでしょう」

八重樫は続ける。

「事件当時、この敷地内にはあと二人いた。盛田馨の妹、小学生6年生の成田楓、家政婦の新庄多恵、70過ぎの女性、二人とも当時は本宅で寝ていた。満タンの灯油缶を持ち運ぶことは、この二人には無理だろう」

「両親はいないのですか?」

「母親は数年前に亡くなっている。父親は、大阪に出張中だ。息子の死を訊いて、新幹線でこっちに向かっている。二人の子供は、家政婦の新庄が見ていたということだ」

「この家を見てて、分かりますよ。天才ハッカーは やっぱり金持ちでないと生まれないんでしょうね」美並が関心するように盛田の自宅を見回した。

「関係ない」葉山が冷たい眼で美並をけなした。

「自殺の線もあるんだが、いくつか、腑に落ちないところがある」

八重樫が鋭い眼で葉山を見た。

「腑に落ちないですか…」

八重樫が「ほら、中へ入れ。いくぞ」と延焼後の建物に足を踏み入れた。

二人は、少々ビクつきながら八重樫の後に続いた。

微かな濡れた木材と煤を吸った水の匂いが鼻を刺激する。焼け落ちたドア部分は、黒い煤だらけのコンクリがむき出しになっている。それを飛び越え、燃えカスになった離れに入った。室内は二十畳以上の一部屋造りになっており、間仕切りが二か所あった。手前のこちら側がよく燃えており、真ん中部分、一番奥は無傷に見える。中央に制服警官が青いビニールシート脇に静かに陣取っている。

「冷てぇ!」美並が突然叫ぶ。

天井が焼け抜け落ちている部分から水滴が首筋に直撃したようだ。

鎮火したのは数時間前だが、未だくすぶりがあってもおかしくないように見える。消防が大量の水を撒いて火を消したのが分かる。

八重樫が警官に目配せし青いビニールを捲り上げた。葉山は目を細めた。

真っ黒に焼け焦げた亡骸が現れた。いたるところ皮膚が剥けて凝固した血液か体液が泡のようになって固まって痛々しい。葉山と美並は思わず手を合わせた。

「深夜0時、外で揺らめく明かりが気になって、本宅に寝ている盛田楓が目を覚ました。盛田楓が一階に寝ている新庄多江を呼び、消防が来た。4時36分に鎮火。焼け跡から死体がでた」

「それが、盛田馨だったと…」

「血液とDNA鑑定はこれからや、監察医の到着が遅くてな…だが、ほぼ間違いないだろう」

涙目で葉山はじっと、盛田馨と言われた死体をみた。体を曲げている。手が胴体の前で交差している。足を屈伸するように体に寄せている。

「何か抱え込んでる?」

腕の中をじっと覗き込んだ。

「ノートパソコン?」

くの字に曲げた黒い腕に押さえつけられた金属の枠、プラスチックが溶けて固まり腕に纏わりついている。傍目には分からないが、間違いなくノートパソコンを抱えていた。

「よく分かったな。俺が一時間見て気付いたのに、直ぐ見つけるとは…」

八重樫は唖然とした顔で葉山をみた。

「机にもデスクトップパソコンがあった。だが、それは灯油を目一杯かけられ、よく燃えている。それに引き替え、抱きかかえたノートパソコンは、一部が変形してるが、ほぼ原型を保っているんだ。机のパソコンは炭になるまで燃やして、抱きかかえたノートパソコンは大事に守っている。ふうに見えないか」

葉山は眼を細めた。

死体の前方の窓の下にテーブルがある。そのテーブルの上に溶けたコンピュータのパーツか一体化し、ひしゃげた黒い煤の塊がある。

「なるほど、これがデスクトップの残骸ですね…」美並が覗き込む。

「デスクは燃やして、ノートは燃えないように守る」

葉山は頬に手をあて考える。

「見られたくなかったのは、ハッキングの履歴データか。ノートパソコンに、そのデータが入っているのかな」

葉山は遺体をもう一度覗き込む。

「八重樫さん、この燃え残ったノートパソコンは、こっちで調査させてもらいますね」葉山が訊く。

八重樫が首を振る。

「残念だが、大事な証拠物件の一つだ。科特研で調査する」

「ちょっと待って下さいよ。そんなところに持って行かれている間にデータが消えたらどうするんですか、こっちで見させてください」葉山が声をあげる。

「駄目だ」

八重樫は、いつもに増して葉山の意見を遮った。

「この状態でデータが復元できるかは、非常に重要だと思います。科特研よりうちで、やります。会社に持ち込んで調べます」

葉山が八重樫に詰め寄る。

「それだ、だから、渡せないんだ」

「え、どういうことですか?」

「腑に落ちない理由だからだ。会社って、あの志賀卓巳に見せるんだろう!」八重樫が鼻を擦った。

「署内にある施設より、会社の機材を使ったほうが復元の可能性が高いんですよ」

八重樫は口を閉めた。

「実は、この成田邸に昨日来た奴がいる」

八重樫が葉山の顔色を見て、一枚の写真を取り出し葉山に渡した。写真を受け取った葉山は、抜けた天井から差し込む光で写真を見て、口を大き驚いた。

写真の人物は、肩上まで伸びた長髪。印象的な四角い黒縁眼鏡、くたびれた馴染みの紺のスーツ、紛れもない志賀卓巳だった。何度確認しても志賀卓巳本人だった。

「この写真の映っている場所、どこだと思う?」八重樫の嫌らしそう目つきで葉山は胸が苦しくなりながら、睨み返した。

「これは本宅の妹の部屋だ」

「社長が事件前夜、ここに来たっていうんですか?彼が犯人だっていうんですか、そんな馬鹿な話ありませんよ」葉山の肩が怒りで震えた。

「おまえ達が知らないだけだ。志賀は、盛田馨が死ぬ直前にここに来ていた。」八重樫が鷲鼻をがりがりと擦る。

「あの噂は本当なんじゃないのか?」八重樫は鋭い眼を葉山に向けた。

「止めてくださいよ。社長がこれまで、どれだけ警察の協力をしてきたと思ってるんですか、そんな酷いこと言える立場じゃないでしょう」

「いや、志賀はハッカーたる犯人に接触しハッキングをさせ、自分がそれを解決する。自作自演のホワイトハッカーだという噂だ。本当じゃないのか?」

葉山があまりの悔しさに歯軋りして見せた。

「顧客が理解出来ない技術的な難問を言い出し高額な報酬を手に入れている。志賀の提示金額を渋ると、ハッキングに遭うという噂だ。奴自信がハッカーと組んで仕事をしている。犯人に金を渡してハッキングさせる。そして、自分はそれを防御してコンサル料を貰う。たとえば、この成田馨が、それをばらそうとしたら口を塞がないとイケない。自作自演の詐欺行為の末路という考えが浮かぶ。成田馨が他殺だと分かれば、志賀卓巳は重要参考人になる」

葉山は大きく首を振った。

「最低!そんなことある訳ないでしょう」

八重樫が含み笑いを浮かべた。

「ひとつ言い忘れたことがある。灯油缶には、盛田馨の指紋以外に手袋の型も残ってる。そして、おそらく、その手袋と思われるものが盛田邸裏の林から見つかっている。手袋の中から指紋は出るぞ」

「志賀は協力者です。社長が殺人を起こすなど考えられません。写真の件は私のほうから訊きます。何か重要なことで、ここに来ていたんですよ」葉山は泣きそうな気分だった。

八重樫は、真剣な表情で諭すように口を開いた。

「葉山、そろそろ心も警察官になったらどうだ。事件を特別な感情で見るな。疑わしきものは、身内でも疑え!志賀が事件に協力的だから、お前の元上司だからといって、犯罪に関わらない善人者だと決めつけるのは間違いだ。個人的に肩入れするのは止めろ。警察官に成れないなら、今の仕事を止めるべきだ」

八重樫が腕組みして葉山を見下ろした。

「七年前の《エニグマ》事件も結局、犯人は御堂コンサルティングの一員だったんですよね」美並が滅多に口にしない話を口にした。

「俺はずっと、あの《エニグマ》事件から、志賀を怪しいと思っているんだ。成田馨が生きていれば、もっといろいろ出たかもしれないのに…、残念だ」

葉山は何も言えずに押し黙った。気分が悪くなり、直ぐにこの場を離れたい衝動に駆られた。眼を反らした瞬間、足が滑り近くの柱に手をついた。木材と木材の合わせ目が擦れ大きな軋む音を上げた。

「おい、おい、うっかり触わるな。これ以上、ここにいても何もない。危ないから、出ろ、出ろ!」

一同は、一目散に外にでた。

葉山の表情は優れなかった。盛田馨の死。志賀を容疑者扱いする八重樫。悔しい気持ちで胸が熱くなった。

門を出て、車に向かう葉山に美並が声をかける。

「葉山警部、志賀の奴を捕まえるつもりなんですよ。いつも言ってる恨み節は、本気だってことですよ」

葉山がまるで鬼の形相で美並を睨む。

「あなたも疑ってるの!どれだけ、教えてもらったというの!社長がそんな事するわけ無いでしょう。事件捜査をどれだけ依頼してきたの!私たちが依頼した事件は全て、社長の仕業だって言うの?」

そんなことも分からないのかと、葉山は心底、美並に腹を立てた。

「なるほど。そりゃそうですね」

「当たり前よ!」

二人は、現場を後にすると、無口のまま、築地署へ車を飛ばした。

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