第103話 ただそれだけなのに
特別教室棟の外階段――の陰。薄く雪が降り積もってゆく中、階段の陰はかすかに暗い。校舎の壁に寄りかかり、山田は彼を囲む三つの影を半目で睨む。
「……なんでついてきた?」
「わかってないなぁ」
影の一つ、ソフトショートの黒髪が冬の風に揺れた。ニヤニヤと笑いながら両手を広げ、御門は言い放つ。
「親友が敵のところに行くんだよ? 僕も何もしないわけにはいかないじゃん」
「……北条くんがまた間違えようっていうなら、薫も黙ってられないよ」
色素薄めの茶髪がさらさらと揺れ、ピンクリボンのバレッタが目を惹く。丸っこい瞳を瞬かせ、桃園は胸の前で両手を握りしめる。
「薫だって……これ以上、辛い目に遭う人を増やしたくないもん」
「……ごめん、スターライト……放っておけなくて……」
申し訳なさげに縮こまったまま、焦げ茶色の癖っ毛が俯く。だけど切れ長の黒目は岩のような光を宿していて、森永は意を決したように口を開く。
「……北条くんのことは、ぼくも止めたい。……だから……その、ごめん」
「……」
三人の瞳を一つ一つ見つめ、山田は派手に息を吐いた。どいつもこいつもひどく真剣な顔をしていて、そう簡単には退きそうになくて。首筋を掻きつつ、言い放つ。
「……馬鹿ばっかりだな」
「何言ってんのさ。一番馬鹿なの山田じゃん」
「違いない」
あっさりと認め、山田はポケットから小型のトランシーバーを取り出す。御門と桃園が昴小路と突貫交渉し、凄まじい舌戦とじゃんけん三本勝負の末に借り受けたものだ(幸か不幸か、犬飼はこのことを知らない)。トランシーバーのスイッチを入れ、音量を絞る。北条が待っているのはおそらく四階――そちらに聞こえないギリギリの音量で、環境音が流れ出した。四人は声を潜め、ただ神風の言葉を待つ。
◇
「……案外早かったな。神風爽馬」
外階段を登りきると、狭いスペースに一人の少年が寄りかかっていた。背中で一括りにされた黒髪が二月の風に揺れ、茶色の瞳が細かい針のような光を宿す。静かに雪が降り積もってゆく中、神風は唇を引き結び、ブレザーのポケットに手を当てた。ミュートモードにしたトランシーバーの感触を確かめ、口を開く。
「……話って、なんだい?」
「単刀直入に言うぞ。今すぐスターライトと別れろ」
その声は剣を振り回した軌跡のように響いた。茶色の瞳に包丁のような鈍い光が宿る。神風は目を逸らしたい衝動を無理やり飲み下し、拳をそっと開いた。茶色い瞳に宿る鈍い光を、正面から見つめ返す。
「……それは無理だよ」
「は?」
「ボクはスターライトを愛してる……そして、スターライトもボクを好きになってくれたんだ。愛してくれてるんだ。それを裏切ることなんて、ボクにはできない」
言い切ると、北条の口元が歪んだ。魔法が解けた魔女のように、判決が覆された裁判官のように。揺れる瞳で神風の真っ直ぐな視線を睨み、北条は静かに喉を震わせる。
「……裏切る、だと? どの口が言ってる? スターライトはおれのことが好きに決まってる……あいつが他のやつを愛するだなんて、好きになるだなんて、あっちゃいけないんだ。あいつを好きなのはおれだけでいい……あいつが好きなのはおれだけでいい。スターライトはおれを愛してるに決まってるのに」
「……それ、スターライトに聞いたのかい?」
端的な指摘に、北条はギリ、と両の歯を食いしばった。その全身が細かく震えだし、泣き黒子の傍で瞳が徐々に赤味を帯びてゆく。血の色をした瞳で神風を睨み――北条は、思わず言葉を失った。
「……ッ……」
――神風の瞳はただ、静かに降る霧雨のような光を宿していて。どれだけその瞳の中を探し回っても、それ以外の感情は見つからなくて。遠い足音が近づいてくる。神風は凪いだ海のように、静かに語りかける。
「……辛かったんだね」
「……は?」
「愛されないと、愛してもらえないと……生きていけないくらい、辛かったんだね」
その声は水溜りに雫が落ちるように響いた。北条の瞳が揺れる、湖面に映る月のように。血走った瞳を見開いたまま、北条は剣を振り回すように言い放つ。
「同情ならやめろよ……お前に、スターライトに愛されたお前に、おれの気持ちなんてわかるわけない!」
「……っ」
子供が泣きじゃくるような声に、神風の喉が締めつけられた。北条の瞳は血走っていて、助けすらも諦めた冤罪被害者のようで。言葉を失う彼に、北条は捨てられた子供のようにがむしゃらに叫びを叩きつける。
「……本当はわかってたんだ、スターライトはおれのことを愛してくれないだなんてことはッ! だけど、だけど、諦めきれなかった……唯一、おれに対等に接してくれたスターライトのことが……! なんで、なんでスターライトは振り向いてくれなかったんだ……おれは本当に、スターライトのことが好きなのに……スターライトのこと、愛してるのに……」
わなわなと震える肩、振り乱された黒い髪。妖艶な魅力を持った北条嶺介はそこにはおらず、ただ飢えて傷ついた少年の叫び声だけが響いた。彼が味わった辛さ、苦しみ、絶望、そんなものは想像することすらもできなくて、神風はただ震える拳を握りしめる。
◇
「愛されないと、幸せになれない……それなら、どうしておれは誰にも愛されなかったんだッ! どうして、おれじゃなかったんだッ! どうして……!」
神風の茶色の瞳が殴られたかのように揺れていて、冬の風がひどく冷たくて。思わず顔を覆い、北条は泣きじゃくるように叫びを叩きつける。その脳裏でフィルムが巡るように過去の光景が巡ってゆき、北条は血を吐くように、ただ絶叫した。
『あんたなんて産まなきゃよかったわ』
――それは、彼のもっとも古い記憶。端的な言葉は、しかし物心ついたばかりの彼の心を深く抉った。それはまるで死神が鎌を振り下ろすように、ギロチンの刃を落とすように。涙すらも出なくて、叫ぶことすらできなくて、幼い彼はただ立ち尽くしていた。
『子供さえいなければ、あんな女とは別れるのに』
家には常に二組の男女がいて、それでも父と母は互いに見向きもしなかった。彼らの愛は互いの間違ったパートナーにだけ注がれていて、北条を抱きしめてくれる者は誰一人としていなかった。……いつからだろう、男女が愛し合うと不幸になるだなんて思い始めたのは。それでもカルガモの雛のように男女を見つめ、その愛し合う様を見せつけられて。
『あいつ、また新しい男と付き合ってるらしいぜー』
小学校の高学年になった頃には、既に恋人がいた。だけど男と女の間の愛には吐き気を覚え、男ばかりと関わるようになって。ブロック菓子を噛み砕くように愛を告げて、ゼリー飲料を握り潰すように捨てた。……そうでもしないと、やっていられなくて。気付いた時には彼に寄りつく者はいなくなって、結局彼は、ひとりぼっちで。
『……北条っていうのか。とりあえず、よろしく』
ひどく静謐で、儚げな横顔。何気なく吐かれた言葉は、ひとりぼっちの北条には蜘蛛の糸のように思えた。縋らずにはいられなくて、だけど触れるにはあまりにも尊くて、足踏みをしている時間は、あまりにも長かった。
……愛を告げても、邪魔者を落としても、振り向いてくれなかった彼。どんなに手を伸ばしても、届くことは決してなくて、北条の心は今も血を流し続けている。
「どうして、どうして、おれを愛してくれなかったんだ……なんで……? 愛されたかった、ただそれだけなのに……どうしてお前は……!」
血を吐くように、手首を切るように、北条は叫ぶ、ただ嘆く。白い雪は残酷に降り続いて、二月の風はただ冷たくて。
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