第90話 お前に恋愛感情とかないし

「……」

 部屋の扉を後ろ手に閉め、神風はかすかに揺れる瞳で山田を見つめた。窓の向こうは薄く曇りはじめていて、昼間にしては部屋は少し暗い。墓参りの直後から、彼はいつも以上に静かな気がする。その横顔は相変わらず涼しげだけれど、そこには拭いがたい影がべったりと貼りついているようで。一度深呼吸をして、彼に一歩歩み寄る。

「……スターライト」

 呼びかけて、言葉に詰まる。伏せた視線を、言葉を探すように彷徨わせる。彼はきっと、神風には心配をかけまいとしていて……それでも彼の辛そうな顔なんて、見たくはなくて。山田はふとそんな彼に向き直り、口を開いた。

「……お前には、話しておこうと思う」

「……話?」

「北条嶺介と、森永佑貴のこと」


『おれは、お前を手に入れるためならんだからな』

 ――いつかに聞いた声が耳元に蘇る。蛇が舌なめずりをするような声が脳を冒す。修学旅行以来、しばらく彼からの接触はなかったけれど、それでも不気味なその笑顔は、許せないと告げたその口元は、神風の脳裏に焦げついて離れない。できるだけ気にしないように、気にしないようにしていたけれど……それでも噛み跡のように消えないままで。


『そぉおおだ! 森永だ、森永クン!』

 柿原の叫びに顔を上げた山田。きめ細やかな横顔には鳥肌が立っていて、テンプル越しの瞳は確かに揺れていて。神風は彼のことを知らないけれど、恐らく彼と山田の間には何かがあったのだろう。そのくらい、手に取るようにわかる。だってあの時の山田の横顔は、まるでヒビが入ったガラスのようで――。


 何気なくカーペットに腰を下ろす山田に寄り添うように、神風はその隣に座る。あえて促すことはせず、ただ彼の横顔を見つめて……長い沈黙の末、山田は伏せていた視線を上げた。

「森永と北条とは、普通に一緒の公立中学に通ってた。クラスそこそこ多かったし、三年間同じクラスだったのは俺含めた三人だけで、普通に交流もあった。……いつからこんなにおかしくなったのか、俺にもわからない」

「……北条くんがキミを好きになったから、なのかい?」

「いや……一番最初は、森永からだった」

 再び目を伏せ、山田は淡々と語り出す。それはまるで、過去と現在の自分を切り離そうとしているかのように。昼間にしては少し暗い部屋の中、スターゲイザーのような声が響く。



『付き合ってください、スターライトっ』

 茜色に包まれた放課後の教室に、少年らしい高い声が響いた。焦げ茶色の癖っ毛が勢い良く頭を下げる。それを見下ろし、当時中学三年生の山田はぽつりと呟いた。

『……なんで?』

『なんで、って!』

 勢いよく顔を上げ、癖っ毛の少年は泣きそうに叫んだ。窓から吹き込む晩秋の風に、わさわさの茶髪がさわりと揺れる。涙目になった切れ長の黒い瞳を見つめ、山田は特に表情を変えずに口を開いた。

『だって俺、お前に恋愛感情とかないし』

『そんなぁ!?』

『好きでもない奴と付き合うわけにはいかないし。帰る』

『え、ちょ、待ってよぉ……!?』

 どこか泣きそうな声を冷淡に振り払い、指定鞄を背負う。弱々しく追いかけてくる気配を振り切り、山田は教室を後にしようとして――ふと、声が投げかけられた。


『――モテモテじゃないか、スターライト』

『……北条』

 茶色の瞳が舐めるように山田を見つめる。肩につくかつかないかくらいの長さだった黒髪が晩秋の風に揺れる。興味なさそうに目を細め、山田は頭を掻きながら言い放つ。

『別にモテてない。モテたいわけでもないし』

『そう言うと思ったよ。……佑貴の好意には気付いてたのか?』

『……』

 その質問はあえて流し、山田はふっと窓の外に視線を向けた。校庭の土手に植えられた桜の木、その枝から茶色に乾いた葉がはらりと落ちてゆく。……気付いていなかったといえば、嘘になる。それでも山田は、人を好きになる気持ちというものがよくわからなくて。わからないのに『はい』と答えるのは、なんとなく、間違っているような気がして。

『――ッ』

 ぐんっ、と腕を引かれ、誰かの手が腰に回る。気付いた時には触れ合えそうなほど近くに北条の茶色の瞳があって。泣き黒子に飾られた瞳が瞬き、ウツボが口を開けるように彼の口元が歪む。

『……恋が、愛が、なんなのか。おれが教えてやるよ』

『要らない』

『そう言うなって。……愛ってのは、いいものだぞ? 空っぽの器を綺麗な想いで満たしてくれる。最高だと思わないか?』

 語りながら、徐々に北条の唇が山田に近づいていく。カラスの羽根が降ってきたかのような得体の知れない寒気に、山田は思わず歯を食いしばった。北条の声は続く、歌うように、蛇が舌を出し入れするように。

『恋をしたことがないのなら、愛を知らないのなら、おれが身体に刻み込んでやる。だから、さぁ……』

 北条の唇が彼の唇をかすめて、思わず彼を突き飛ばした。気付いた時には全身が震えていて、息が荒くて。灰色の壁に背中を叩きつけ、恋人に裏切られたかのように目を見開く北条に、山田は震える声を叩きつける。

『要らないって、言ってるだろッ』

『――……ッ』

 よた、と北条は転びそうな脚で数歩よろめいた。灰色の壁に身体をつけ、徐々に赤くなっていく瞳で問う。教義を否定された宗教者のように、瀕死の小動物のように。

『なんで……?』

『興味ないから。いい加減帰らせろ』

 縋るような瞳を無理やり振り払い、山田は足早に歩き出す。……銀色に光る包丁のような視線を、背中に感じながら。



「……やっぱり北条くんは、スターライトのことが……」

「そうだろうな。……森永は今はどうだか知らないが」

 顔を上げ、山田は窓の外に視線を向ける。未だにどんよりと曇った空は、まるで彼の中学時代にかかる雲のようで。再び俯き、山田はぽつぽつと話を続ける。

「北条は割といろんな男をとっかえひっかえするような奴で……多分、俺に断られたのが相当ショックだったんだと思う。……でも、それで終わると思ってた」

 その声が張り詰めた糸のように引きつる。扉を開けるのを恐れているかのように。だけど隣には神風がいて、みっともない姿は見せたくなくて。指先の震えを抑えるように拳を握りしめると――ふわり、そこに温かな体温。顔を上げると、神風はひどく真剣な笑顔を浮かべていた。それはまるで、銀色をした葉が風に揺れるかのようで。

「……もう少し続くが、付き合ってくれるか?」

「うん、もちろん」

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