第58話 お前は指くわえて見とけやゴラ
鹿村一人しかいない、旅館の一室。腕時計がカチリと音を立て、八時を告げた。刹那、何の遠慮もなく扉が開かれ、その向こうでブルーブラックの髪色が揺れる。鹿村は敷かれた布団から腰を上げぬまま、荒々しく口を開いた。
「入れ。んで、座れ」
「……」
無言で部屋に足を踏み入れ、山田は彼の正面に腰を下ろす。夜間外出でほとんどの生徒がいない旅館は、ひどく静かだ。興味なさげに部屋を見回し、彼は口を開く。
「……で、何だ」
「わかってるだろ? 薫の話だ」
「……薫?」
「桃園薫だよ! お前のクラスメイトの女装男子だよ!!」
「……あいつ、そういう名前だったのか」
「知れ……」
呆れたように吐き捨て、鹿村は派手に舌打ちした。風呂に入った後のスタイリングも何もされていない髪を掻きむしり、ぶわあ、と息を吐く。
(自分のこと好いてる奴の名前すら覚えないとか、こりゃ薫じゃなくても堕ちて当たり前だな……こんなんじゃ何やっても振り向いてもらえるわけがねえんだから。一周回って怒る気も失せたわ……)
疲れ果てたように彼を見上げ、もう一度溜め息。涼しい顔の彼を睨み、鹿村は問いを叩きつけた。
「――薫に、何があった。あの北条って奴は何者だ? どうして、あいつはあんなになったんだよ……多分お前絡みだろ? 知ってるなら吐けやゴラ」
あえて声にドスを利かせて、畳みかけるように問う。対し、山田は小さく息を吐き、俯いた。眼鏡の向こうの瞳に、死者を想うような光が宿る。思わず言葉を失う鹿村に、山田は静かに問うた。
「……お前にとって、あいつは何だ?」
「……っ、そんなの決まってんだろうが」
ひどく静かな旅館に、飾りも何も脱ぎ捨てた声が響く。だが……その続きを口に出そうとして、何故か喉がひくついた。徐々に体温が下がっていくような感覚。沈黙しようとする喉から無理やり息を吸い込み、低く、言い放つ。
「……いとこだよ」
だけどその声は、ひどく震えていて。それはまるで、意思に反して親を突き放してしまった幼子のようで。目を見開いたまま、鹿村は白い布団に目を落とす。その視界がかたかたと揺れているのに気づき、膝の上で拳を握りしめた。
「……そうか」
興味なさそうな声に、鹿村は拳に爪を立てた。多分山田は今、鹿村のことを見てすらいないだろう。一度唇を噛み、鹿村は膝立ちになって彼の胸倉を掴んだ。ようやく彼に視線を向けた山田に、鹿村は泣き叫ぶように問う。
「なぁ、本当に薫に何があったんだよッ! 知ってんだろ、山田
獣のような叫びの残響が消えていく。山田の胸倉を掴む手が抑えきれずに震えた。肩で息をしながら、鹿村は彼を睨む。対し、山田は小さく目を見開いた。揺れる瞳が白い布団を見つめ、どこか罪を懺悔するような声を零す。
「……俺が……間違ってた、のか」
「ああ、そうだよ! 恋人以外眼中にねえのは知ったこっちゃねェが、それが原因で傷つく奴がいるってことを自覚しろッ!!」
「……」
鹿村の叫びの残響が木霊し、消えていく。あとには水を打ったような静寂だけが残って、鹿村の手は未だ震えたままで。ふと山田はその目を開き、鹿村を見上げた。眼鏡越しの瞳には月の光のように静謐な光が浮かんでいて、鹿村の喉元がひくついた。
「……お前、そいつのこと好きなのか?」
「は、ぁ?」
「好きじゃない奴のことで、普通そこまで怒ったりしないだろ」
「……」
……気付いた時には、山田のYシャツから手を放していた。震える手を下ろし、座り直す。角砂糖を齧るような妙な感覚に、鹿村は自分の手をじっと見つめる。そんな彼から視線を外し、山田は乱れたネクタイを無言で直しはじめた。震える両手を見つめながら、鹿村は脳裏に彼の姿を描く。
(……薫……)
色素薄めの茶髪。丸っこい茶色の瞳。男にしては高い声。自分にだけ見せる呆れたような顔、単純バカのくせに悪戯っぽい言葉、子供のように無邪気な笑顔。
――彼の傍にいるときの、ふわふわの動物を抱くような、不思議な安心感。
(そうか、俺は……)
彼の笑顔が、妙に心地いいのも。嫌いと言われて、ひどく傷ついたのも。小さなピースだけで説明がついてしまって、いっそ笑いすらこみ上げてしまう。それは薄紅色の花びらが胸に貼りつくようで、むず痒いけれど不思議と心地よくて。
(……いや、違うだろ、今それどころじゃないだろッ!)
頭を振り、奇妙な感覚を振り払う。ついでに甘く高鳴る心臓も黙らせ、憮然としたふりをして口を開いた。
「……話逸らすなよ」
「先に話逸らしたのはお前だ。あいつに何があったんだって話だったろ」
「……」
ド正論で返され、思わず黙り込む鹿村。ネクタイを結び直し、山田は口を開いた。その声は先程までより低く、どこか忠告のようで、鹿村はただじっと聞き入る。
「……看護科
「……だったら尚更、何で止めなかったんだよッ」
「止めた。けど、聞かなかった」
どこか悔やむような言葉に、鹿村はふっと俯いた。そのくらい切羽詰まっていたのか、あるいは北条の魔性がそうさせていたのか。それはわからないけれど確かなのは、放っておけば桃園が危ないということ。
(……だったら、唯一無二のいとこ様の出番だよな)
ニヤ、と口元を歪め、顔を上げる。その笑顔は砂漠に吹き渡る風のように明るく、歴戦のヒーローのように大胆不敵で。
「――わかった。あとは俺に任せろ、お前は指くわえて見とけやゴラ」
憎らしいほど涼しい顔に、笑い飛ばすように言い放つ。対し、山田は興味なさげに窓に視線をやりつつ、ぽつりと呟いた。
「やっぱ好きだろ、あいつのこと」
◇
「ただいまー鹿村ー……鹿村?」
「……?」
買い物袋を携えてくるりと舞い、海棠は首を傾げた。旅館の一室で、一人寝転がっている鹿村。皴の形的に、正面に誰かが座っていた形跡。鹿村は目の上に置いていた腕をどかし、海棠を一瞥した。すぐに視線を外し、天井の木目をじっと見上げる。しかし、その視線の先に海棠のミディアムヘアが割り込んできた。
「……邪魔だゴラ」
「天井見てても面白くねーだろー。今日の分のボイトレしなくていいのかよ?」
「あぁ、そうだな」
頷き、鹿村は立ち上がる。ロングブレス、表情筋トレーニング、発音トレーニング、リップロール、タングトリル。一通りの基礎トレが終わるとみるや否や、海棠は彼の肩に手を置いた。
「んだよ」
「お前、前よりキレ良くない? ちょっとは吹っ切れた?」
「まぁな。そんじゃ、いくぞ」
足を軽く開き、一歩前へ。息を吸い、吐き、踏み出したのは勇ましくも可憐なステップ――『Monster』。その唇から放たれる音は力強く、伸びやかで、鮮やかで。輝く瞳、指先まで綺麗に決まった動き、ファンサービスなのか時折差し込まれる笑顔。それは旅館の一部屋を、一瞬でライブ会場に変えてしまうほどに。そこにいるのは、確かにトップアイドル『光ヶ丘夏輝』。
「――いかがでしたか?」
「え、あ、もう終わり?」
一つウィンクする光ヶ丘に、海棠はぱちぱちと目を瞬かせる。その髪はスタイリングも何もされていないけれど、それでも“光ヶ丘夏輝”の名に相応しい輝きがあって。思わず吹き出し、海棠は派手に口を開けて笑い出す。
「あっははは! なぁんだ、完全に吹っ切れてんじゃん! よかったね壮五」
「はい――げっほげほっ、ああ。なめんじゃねーよゴラ」
ピッ、と胸元で親指を伸ばし、光ヶ丘は――鹿村は怪盗のように笑う。片手で銃の形をつくり、バン、と虚空を撃ってみせた。
(薫――お前のことは、俺が救ってみせる!)
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