一人暮らしの危機③
ピアノ演奏が上達していると思わせたら、母親の思う壺なんじゃないか? とは思う。
しかし、口下手な俺は言葉を尽くして説得するなんて不可能なのだ。
一人暮らしを続けるには、ピアノを弾いてババアを黙らせるくらいしか手はない。
店内を見回してみると、俺が入店した時よりも客が増えていて、心臓が縮む。
金を払って料理を食べに来てる人達の前で、俺なんかが弾いてしまっていいんだろうか。
チラリと母親を振り返れば、その顔には「さっさと弾け」としか書いてない。
渋々その辺に突っ立っている年配の店員に話しかける。
「すいません。ここに置いてあるピアノを弾いてもいいでしょうか?」
「これはディナーショー用に置いてあるので、ご遠慮いただ――」
「その子は全日本ジュニア音楽コンクールの入賞者よ。客の耳を汚さない程度の演奏は出来ると保証するわ」
断られそうなところで、母親が口を挟んできた。
「やや!? よく見ると、貴女はかの有名なピアニスト、里村静代さんですね!」
「そうよ。常連客の顔くらい覚えてくださる? それにここで何度も演奏しているのだけど」
「申し訳ありません。この高校生は御子息様ですか?」
「顔がソックリなんだから、言われなくても分かるでしょう? ピアノを使うには使用料を払えばいいのかしら?」
「いえいえ、お金は要りませんよ。彼に演奏させてください。ただし、あまり激しい曲はお控えいただきたく」
「支配人の許可は得たわ。自由に弾くのよ、翔」
店の支配人とやらは、さり気なく釘を刺してきた。
おかしな演奏をして評判を落とされたらたまったもんじゃないんだろう。
――ここに相応しい曲って、なんだ? 激しい曲じゃなかったら何でもいいのか?
ピアノの前に置かれた椅子に腰掛け、何を弾こうかと考える。
鍵盤蓋に入れられた銘を見てみれば、グランドピアノはベーゼンドルファー製だった。それからイメージするのは作曲家のフランツ・リスト。
彼はベーゼンドルファーのピアノを愛用していたのだ。
その繋がりから決めてしまおう。
――三つの演奏会用練習曲「ため息」にするかな。途中割と激しいけど、メロディーが大人しいから誤魔化せる……気がする。
目立つ位置に一人座る俺に、店内の客達がさり気ない視線を投げかけてくる。
高校の制服を着たチビが高級店のど真ん中で演奏しようとしているのだから、やはり場違いに見えるのだろう。
迷惑をかけている自覚はあるので、せめて雰囲気を壊さないように気をつけたい。
一度両手を握りしめてから、鍵盤の上に翳す。
音を潰さぬよう丁寧に、左手から右手へ、右手から左手へ。
殊更ゆっくりアルペジオを奏でる。
途中から入るメロディーも左右の手で代わる代わる音を拾い、伴奏からクッキリと際立たせる。
人によってはこの曲を素早く弾いたりする。
だけど俺はユックリとしたスピードにした。その中でリズムを不均一に揺らめかす。
幼少期からの憂鬱で、つまらない日々。
“ため息”をついた時の心境を思い出す。
伝われ。アンタからピアノを習っていた時、俺の日常は灰色だった。
店内の客達は、俺がそこそこ弾けるのが意外だったようで、好意的な感想がチラホラと聞こえてくる。
調子に乗りそうな気分だったのに、母親がピアノの側に立った所為で台無しになった。
「今の所はもっと音を煌めかせなさい。何故そこを単調を弾いてしまうの? まったく――」
「うるさいな!! 何で少しの間だけでも黙ってられないんだよ!!」
「未熟な演奏を聴いていると我慢がならないの!」
「あーもう!」
俺は演奏をやめ、椅子から立ち上がった。
「全否定なら誰でも出来るんだよ!」
「全て駄目だったとは言ってないでしょう?」
「どうでもいい!」
再び口論し始めた俺達に、親父が仲裁に入った。
「まぁ、まぁ二人とも落ち着きなさい。良い演奏だったと思うよ。他の客の迷惑になるから、ひとまず席に戻って飯を食おう」
「俺は帰る。優位に立ちたいだけの人間と一緒に飯なんか食いたくない」
ずっと言いたかった事を伝えてから、出口に向かって歩みを進めようとしたが、母親に行く手を阻まれた。
「いい加減にしてくれ」
「良かったわよ。あなたのリスト。私は細部について言っていただけ」
ピアノ演奏に関して褒められたのは初めてなので、俺は面食らった。
まさか歳を取って性格が丸くなったのか?
しかしそれくらいで絆される俺ではない。
「じゃあ一人暮らしを続けてもいいよな? アンタと同居しなかった方が音楽性が向上してただろ?」
「表現力は成長したようだけど、愛海ちゃんが言うように、技術面では劣化していたわね。……もう少し様子を見ることにするわ。ただし、二年に進級するまでの間に進路を決めるのよ。音楽を極めるにしても、学問の道に進むにしても、今のままでは通用しないのだから」
また否定か、とウンザリする。
しかし言っている内容に一理あるのも確かだ。
痛い所を突いて黙らすところが、実に忌々しい。
「来なさい。お腹を空かせた息子を、そのまま帰すような親だと思われたくないの」
ムンズと二の腕を掴まれ、強引に座らせる。
結局この人にとっては体面が一番大事なんだろう。だから嫌なんだ。
「ピアノの演奏に、店中の奴等は全員聴きいってたぞ。お前は自慢の息子だ!」
手放しで喜んでくれる親父に毒気が抜かれ、飯くらいは一緒に食ってから帰るかという気になった。
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