指が覚えていた③
江上は歌い終わった後、清々しい笑顔を浮かべた。
それを見た俺は、彼女の、歌を愛する心を認めようという気になった。
「意外とちゃんと歌えるんだな。高音域まで声出てたから、聞いててモヤッとしなかった」
「合唱部の部長として、このくらいは歌えないとね!」
「かもな」
「あ、そうそう。入部届を書いてもらわないと。ちょっと待ってて」
「入部届、へぇ……」
中学から今まで、部活動なんてものに縁のなかった俺は、そんな届けが必要だというのも初めて知ったくらいだったりする。
彼女が用意し終わるまでの間、北海道土産らしき木彫りの熊を突いたりしながら待つ。
「この机座って、万年筆で書いてね」
手招きされた先は、以前理事長が使っていたであろうご立派なデスクで、用紙はずっしりしてそうな文鎮で止められていた。
ここまで畏れると、胡散臭く感じられてくる。
やたらギシギシ鳴る椅子に腰掛けてから、おかしな内容が書かれていないかと、用紙の表と裏をじっとり観察する。
「冷たい麦茶とあったかい緑茶のどっちにする?」
「入部届に記入するだけなら、さっさと終わるだろうし、要らないけど」
「実はちょっとした話があって、長くなりそうだったりするんだよね」
「メッチャ怖い……」
だんだんヤバイ物にサインする様な気分になり、気が進まなくなる。
そんな俺の前に江上は緑茶が入った湯呑をドンと置き、圧力をかけてきた。
「学年、クラス、氏名を書くだけの簡単なお仕事デース」
「はぁ……、書けばいいんだろ、書けば!」
ゲームに負けた俺に選択権はないのだ。
用紙におかしな所もなければ、下にカーボン紙が挟まれて、別の契約書がありましたなんて事もないし、たぶん大丈夫だ。たぶん……。
こうなりゃ自棄だ。俺は汚い字で、空欄を埋めてやった。
江上はそれをご丁寧にも茶封筒に仕舞い込み、彼女の鞄に仕舞い込んだ。
そしてパイプ椅子を持ってきて、俺の前に座った。
彼女の言っていた『ちょっとした話』とやらをするつもりなんだろう。
さっさと帰りたい俺は、変な前振りをされないように、単刀直入に問いかけた。
「話があるって言ってたな。何だよ」
「実はさ、私とお姉ちゃんにおじいちゃんから試練が課せられてしまっていて――」
「ちょっと待て。それって、合唱部の部活動に関係無くないか? 悪いけど、お悩み相談なら、他を当たってくれ」
「部活動に、一応関係あるんだよ! 私が部長になってから、活動計画の一つとして挙げさせてもらっていたからね」
「まずい部に入ってしまったようだ……」
「それほどでは無い……はず! たぶん取り掛かったら楽しめるんじゃないかと思うし!」
"はず"? "たぶん"?
もうこれだけのやり取りで、不信感芽生てるからな?
無茶苦茶な事頼んできたりしたら、ぜーんぶバラしてやるわ。理事長の孫、かつ美少女だからって何でも許されると思うな。
「里村君って、私のおじいちゃんがこの学校の理事長なの知っている?」
「……一応」
「数年前から、病気がちで、仕事がきついみたいなんだ。だから、理事長の座を私かお姉ちゃんのどちらかに譲渡したいんだって。その条件として、ちょっとした課題が出されちゃったの」
「メ……メンドクサ……」
「そんな事ないよ! 課題自体面白いし!」
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