メトロ丸の内物語

@zuihou

第1話 珈琲マスター 〜 荻窪

私はとある喫茶店のマスター。

カフェではない。「喫・茶・店」だ。

珈琲一筋ン十年、生粋の珈琲人である。


そのせいもあってか、

私の店は知る人ぞ知る有名店だ。


とはいえ、お店は混雑しているわけでもない。

大体は誰もいないか、いても一人である。


時折、やってきたはいいが店の前でうろうろして、

窓からジロジロ覗き込むだけ覗き込んで、

踵を返していなくなってしまうような失礼な輩もいる。

全く失敬な!


ん? それでなぜ有名店と言えるのかって?


それは私の店が、古くから存在する長寿店だからだ。

長いということは、それだけで知名度も格も上がるというもの。

時間が価値を生み出すのだと、改めて思い知らされる。


さぁ!今日もそろそろ開店だ!

晴れやかな空の今朝、私は開店準備にも余念がない。


床をチリひとつホコリひとつ取りこぼさないよう掃きあげ、

椅子の座面はツヤツヤに手入れをし、

ご自慢の1枚板のカウンターは鏡面よりもテカテカに磨き上げる。

天気のせいか、今朝は特別なお客様がやってきそうな予感すらする。


カップもシルバーもサイフォンも、

柔らかい綿ナプキンで丁寧にひとつずつ、愛情を込めてくすみを取り去る。


芳しい珈琲豆の香りに包まれ、

BGMには清々しい古利で録音された森の音色を流している。

朝の光に輝くこの店を美しく保つことは、

私にとって最上至福の時間なのだ。


こうして悦に入っていると。

そら、今日も一人やってきた。


私はお客様のお顔を見るだけで、

その方に合った珈琲を出すことができる。

心や体の状態を瞬時に見極め、

その方の過不足を補うようなブレンドを提供できるのだ。

だから私の店には

「店長おすすめ!オリジナルブレンド」以外のメニューはない。


今日のお客様も、何やら少し訳ありなご様子。

こんな時は、私が長年かけて追求し、

ようやく納得のいく風味を作り出せたと自負する、

とびきりに香りの高いオリジナルブレンドをご提供。


さぁ、脳髄まで染み込む芳香に心癒され

その身をほぐし、優しさとまろやかさに

魂ごと包まれていただくとしよう


窓際の一番景色の良い席にお通しすると、

お客様はこちらをチラリと一瞥し、ぼんやりと椅子に腰掛ける。


私はカウンター越しに様子を眺め、

手早く豆を挽き、丁寧に愛情を込めてドリップする。


「お待たせいたしました」

出来上がった繊細な一杯を、優雅にお客様にお出しする。

お客様は、何も言わずに出された珈琲に手をかけた。


すぅっと香りをひとつ嗅いで、

口に含むと同時に、ほうっと軽くため息をつく。

そのままうつろな様子で窓の遠くを見遣り、

カップをソーサーにコトリと収めた。

お客様はリラックスされたのか、

こわばった全身から力がゆっくりと抜け、口元が若干だらしなく緩んでくる。


そこから数分経っただろうか。

お客様の体は幾分輪郭を失うように揺らぎ出した。

瞬間、はっと我に返り、少し慌てるように珈琲をもうひとくち、口にした。

珈琲のか細い湯気がお客様の顔を撫でると、

今度は視線が定まらなくなって、夢見るようにカップをコトリと静かに置いた。


外をみやる灰色の眼は郷愁と哀愁に満ちあふれ、

その瞳の奥に写る光は、次第に輝きが強くなっていく。

何か幸せな未来でもみているのだろうか?


「ああ・・・」


そう満足そうに漏らした刹那、

お客様は湯気と共にその場から消えていた。


やはり今日のお客様も、体を持たない彷徨える魂だった模様。

また一人、解き放たれたお客様を導くことができたのだ。


私がこの力に気がついたのは、数年前。

どうやら、私のブレンドした珈琲の芳香には、

線香と同じ効果があるようなのだ。

以来、このお店にはこういったお客様がひっきりなしにやってくる。


お客様が逝かれた後の珈琲は、

しばらくそのままに置いておく。

手を合わせ、お客様の幸せな渡世を願うのだ。

珈琲の芳香が彷徨える魂を無事、導いてくれますように。


そうして私は、しばらく経って冷めた珈琲をそうっと下げて、

次のお客様をお待ちするのだ。

店の中をピカピカに磨き上げて。

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