1章-54話 ロニキス
遅れてくる痛みを、ロニキスは奥歯を噛みしめて堪え、左手に握る短剣でメイフィスの攻撃を防ぐ。
右肘からは出血は、地面を赤く染め続けていた。
「いい加減にしてほしいわ。もう勝てないって、死が見えてきているのがわかるでしょう? 普通は諦めて命乞いをするものなのに。……これだから獣人は嫌いなのよ」
「てめえらの価値観で喋るんじゃねえっ。絶対に行かせねえんだよっ」
武器は予備の短剣が一本、利き手は無い。
大量の出血に目も霞んできている。
だが、背後にいるのは守るべき姫君と弱くとも生き抜こうとする気概を持つ弟子。
ましてクロエは今や人類の希望。
絶対にここは通さない。
その気迫だけでメイフィスの動きに追随していく。
「……っ!」
眼前で繰り広げられる死闘を目にし、クロエを抱きかかえたシンヤは決意をする。右腕は無く、片腕だけで死に至る攻撃を防いでいる狼人が稼いでくれている時間を無駄にしてはいけない。
それが今シンヤに出来る最良だ。
全力で地を蹴りシンヤは森の中へと入って行く。
後ろは振り返らない。
走れ。
走れ。
走れっ。
クロエを守れ。
足を動かし続け、何分たっただろうか。
腕にかかる重みが生きる意志に力をくれた。
……だが。
『シンヤ止まるのじゃっ!』
脳内に響く叫び声を聞き、咄嗟にシンヤは足を止める。その直後、進行先に刃が飛来し、地面に突き刺さった。
「あら? 外れてしまったわ。もう、追いかけっこはうんざりなのに……」
「くそっ!」
悪態をつくシンヤの背後に、ゆっくりとメイフィスが近づいてくる。すぐにまた足を動かそうとするが、周囲にいくつもの刃が降り注ぎ、その行動を制限させた。
「うんざりだって言ったでしょ? あの獣人といい、もういい加減めんどくさくなってしまったの」
「ロニキスさんは……どうした?」
「殺したわよ。お腹に穴を空けてあげたから、さすがに死んだでしょ」
「っっ……!?」
ロニキスの死を宣告され、言葉を無くし息を呑む。
何か打開策は無いのか?
シンヤは脳内で思考を巡らせ周囲を見渡す。
「本当に生き汚いわよね……。腕を落とし、目を潰して、それでも縋ってくるんだから。……でも、後は貴方一人、さすがに助けはもう来ないわよ」
「……くっ!」
両手でクロエを抱えているシンヤには、もうアウラに頼る以外に選択肢は無い。
だが、強化したところで数十秒。
その上眼前の敵はリュートやロニキスよりも強いのだ。
万が一魔族を倒せたとしても、まだ朝までは程遠く、クロエを抱えたまま逃げ切ることは難しい。
「さあ、皇女様を渡しなさい。そうすれば、痛みを感じないように殺してあげるから……」
「待てって、言っただろうがぁっ!」
「……っ!?」
メイフィスの背後から響くのはロニキスの怒声。
シンヤは暗がりから現れたその姿を見て目を見開く。その身体は満身創痍どころではない。
なぜ生きているかもわからない程に損傷しているのだ。
右腕だけではなく、左目は潰され、左腕も肩から先が無い。
そして、腹部には大きな穴が開いていたのだ。
「また貴方なの、本当にしつこいっ! どうして生きているのかしら? 生命力の強い獣人とはいっても限度があるでしょうっ」
「わ、りいな。……行かせねえ、って言った、だろ」
「……アウラ、二秒だ。二秒だけスイッチを入れることはできるか?」
なぜ死なないと驚くメイフィスの問いに、声を出すのも辛そうなロニキスが答えている。
その隙にクロエをゆっくりと地面に寝かせながら、アウラへと質問するシンヤ。
『出来なくはないが、ダメージは残るぞ?』
「ああ、合図したらやってくれ」
強化時間の短縮。
アウラの強化は負担が強すぎて、すぐに身体が崩壊していく。限界まで使用したら走ることも出来なくなってしまうだろう。
では、ごく短時間であればどうだろうか、その答えはすぐにアウラが答えてくれた。
「なら今度は首を刎ねてあげる」
「今だっ!」
メイフィスの意識がロニキスに向かい、シンヤから外れる。
合図でアウラが強化を施すと、体内に魔力の奔流が巻き起こるのを感じた。
地を蹴る足は地面を抉り、爆発的な速度でメイフィスに迫る。帝都に向かう前に、ロニキスからもらった剣を両手で強く握り、その脇腹に深く突き刺す。
弱者と侮っていた。
何も出来るはずがないと、出来たところで簡単に対処できるのだと。
それはメイフィスの油断。
思いがけないシンヤの動きに一瞬反応が遅れた。
「えっ……?!」
「良い、判断、だ。シンヤ」
ほんの数舜。
メイフィスの意識がシンヤへと向いた。
ロニキスにはそれで充分だった。
不意の攻撃に態勢を崩したメイフィスへと瞬時に距離を詰めた両腕の無いロニキスは、その首目掛け口を開き、鋭い牙を突き立てる。
そして……喉笛を噛み千切った。
死に体。
明らかに死ぬ寸前のロニキスを、メイフィスは警戒していた。死に欠けの生物程、気を付けなければならないと知っていたから。
だが、シンヤの事は最初から眼中にすら無かった。
だからその思いがけない動きに、意識を奪われてしまったメイフィスは、避ける事も防ぐ事も間に合わず、その首を食い千切られてしまったのだ。
「かっ……っ……ぁっ」
首元を抑えるメイフィスだったが、手の隙間からは大量の血液が噴出し、辺りを赤く染め、声にならない声を出すと、シンヤを睨みつけたままその場に崩れ落ちた。
「ロニキスさんっっ!」
女魔族の最後を見届けたシンヤは地面に
「あ、あ? シン、ヤか? 今のは……良かった、ぜ」
「ロニキスさん……」
無事な右目をゆっくりと開け、シンヤに顔を向けるロニキスだったが、その瞳は焦点が合っていない。
もう、色を映してはいないのだろう。
強化の反動で、軋み始めた身体の痛みが気にならない程に心が乱れ、シンヤの眼から大粒の涙が零れ落ちる。
「泣くんじゃ、ねぇ。まだ、終わってないん、だからよ……。ここ、からは、お前が。クロエ様、を、守るんだ。……出来ねえ、なんて、言うなよ」
落ちたシンヤの涙が顔を濡らすと、ロニキスは途切れそうな声でシンヤを叱咤する。
「はいっ。絶対にやり遂げます。だから……ロニキスさん……」
死なないで。
その一言が出せない。
出せるはずもない。
シンヤにも見ただけでわかる死の気配。
むしろ、なぜ生きているのかもわからない程の損傷、もう助からない。
「絶対、に、リュート様も、セラも、生きて、る。生き、残った奴ら、が、必ずいる、はずだ。諦める、な……自分、の、命が、無くなるまで、考えるのを、止める、な。……いいな」
「はい……」
「よ、し……じきに、屍人が、集まって、来る。も、う……行け」
ロニキスの言う通り、戦闘中の音や声でこの場に屍人が集まってくるのも時間の問題だろう。
「でもっ、ロニキスさんを置いては……」
「ばか、やろうっ! がはっ、ごふっ、ごぶっ。はぁ、はぁ、……行けっ」
状況はわかっている。
理解しているのだ。
だが、置いていく決心がつかない。
そんなシンヤに声を荒げるロニキスは血を吐きむせかえった。
「……はい。……今までありがとうございました、師匠」
沈黙の後、シンヤはロニキスの顔をまっすぐ見つめ声を絞り出す。
頭ではロニキスの事を師と思っていたが、一度も師匠と呼んだことは無い。
彼の豪快で明るくも厳しい指導を受け、まるで兄のように感じていたシンヤは、気恥ずかしさでそう呼べなかったのだ。
尊敬と親愛を込めた感謝の言葉に、ロニキスは意外そうな顔をする。
だが、もう時間が無い。
森の奥からは屍人の唸り声が届き始めているのだ。
行かなくてはならない。
「しっか、り……な」
その場にロニキスを寝かすと、シンヤは未だ心を閉ざしたままのクロエを抱きかかえ、走り出す。
もう後ろを振り返る事はない。
まだやるべきことがあるからだ。
出来の悪い弟子が、走り去る音を聞いて、ロニキスは静かに瞼を閉じる。
「まった、く……。世話の、焼け、る、奴だ……」
ロニキスの世界はもう終わる。
少しづつ零れていた命が無くなるのを感じているのだ。
ふと、顔に雫が落ち。
その雫は数を増やしロニキスの身体を濡らしていく。
「雨、か? ふっ、俺が、死んだって、聞い、たら。あ、いつ……泣くかなぁ」
脳裏に浮かぶのは八つ年下のメイド。
顔を合わせる度に、肩書も年齢も気にせず毒を吐きかけてきた女。
想像の中の惚れた女は泣き顔ではなく。
「この程度で死ぬなんて、ほんと情けない犬っころね……」
温かみのある声音で叱咤して来た。
「ちげえ、ね……え……。厳しい、なぁ……セラ……」
自身の想像に苦笑いをすると、ロニキスはゆっくり命を手放し、死を受け入れたのだった。
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