第5話 耳のある影法師


「お前、どうした」


 薄く、瞼を開ける。こんな些細な動作をしただけで、全身から生命力が抜けていくのを感じた。

 こちらを覗き込む人影がひとり、月光かりを背景にして立っていた。

おそらく男だ。


「死んでは、ねえよな」


 男はボクに手を伸ばした。

自分の身体が、こんな状態であっても反射的に強張るのを感じる。

 ボクはペストを媒介する、醜い黒猫だ。こうしてヒトに手を差し出された次の瞬間には、その手は拳となっていて叩き出されているというのがここ数ヶ月のもっぱらの傾向だった。

 だが男の手は、ボクの額をくしゃくしゃと撫でただけだった。

 この仕草が、人間にとって何を意味するのか、猫のボクには理解し難かった。男の髪がくしゃくしゃとかき乱されたように好き勝手な方向に向いて巻いているのとは、なにか関係があるのだろうか。

 それから黙って男は踵を返して路地に消えた。これまでボクに背を向けてきた数え切れない人々と同様、彼もまたこのまま永遠に戻っては来ないのだろうと思った。

 ボクは傷まない場所がない身体の運命に従うように両目を閉ざした。もう二度と開かないのだろうな。そんな確信とともに訪れた闇は、いつか寒さをしのいだ納屋より、もっとずっと暗く、寂しかった。これが死というものなのかな。案外あっさりとしているものだな。

 落ちていく、落ちていく。どこまでも落下していく感覚に陥った。なのに重力は全く感じない、ただただ何らかの慣性に従って、ボクは果てのない空間を仰向けになって落ち続けた。眼は、閉じているのか開いているのかわからなかった。だが、一点の光が瞳の裏まで確かに届いていた。あれは、なんだろう。あの光を掴めていたなら、ボクはもう少し長い生を全うできていたのかもしれない。だが、もうボクは疲れた。この果てしない穴を這い上がっていく体力はもうどこを探してもない。だからボクは、落ちるのに身を委ねた。


 そんな感覚をぷつりと途切れさせたのは、すぐ近くで陶器と砂地が立てたじゃっという音だった。もう開けることはないと思っていた瞼を上げ、瞳を外気に晒せば、そこにはくしゃくしゃ頭の男がいた。


「やるよ。食べろ」


 ぶっきらぼうな声に、麻痺仕掛けていた鼻を動かす。一気に鼻腔になだれ込んできた食べ物の匂いは、忘れていた空腹を思い出させてくれた。どこにこれほどまでの力が残っていたのか、自分でも信じられないくらいの勢いで立ち上がったボクは、皿がひっくり返りそうなくらいの勢いで中身をがっついた。和尚さんが食べさせてくれたものと似た味がして、ボクはこみ上げてくる懐かしさに駆られた。


「そんなにうまいか、粥が。それとも単なる腹空かしか」


 ふ。

 男の笑い声が聞こえた。こんな声で人間が笑うのを耳にするのは初めてだったが、ボクには彼がしっかりと笑っているように思った。


「何があったんだ。そんなにボロボロになっちまって」


 ボクは答えずに黙々と粥を味わった。どうせ僕が、魚屋のおっさんにどうされた、食堂の女将にああされた、居候をしに訪ねた家の主にこうされた、と答えたところで、猫の言葉が男にまともに通じるはずがない。それに、彼はボクに答えてほしくて話しかけているのではないと感じた。

 ボクはものの一分ほどで茶碗一杯分の粥を平らげたと思う。男は気圧された様子で皿を下げ、またボクの頭をくしゃくしゃにした。今度はボクも負けじとその手に首筋をなすりつけた。


「なんだなんだ」


 男は笑い混じりにボクの前脚の下から持ち上げた。


「そんなに懐くんなら、俺が元気になるまで世話してやろうか」


 言うなり男はボクを抱きかかえたまま静まり返った夜の東京を歩き始めた。

 真ん丸な月がガス灯のように、白い光で夜道を照らしだす。路地に四角く、細長く切り取られた空には、月明かりにも都会の汚れた空気にも負けずに幾つもの星が輝いていた。


 そういえば、まだ自分を抱きかかえている男の顔をまじまじと見ていない気がして、ボクは軋む関節に鞭打って首を回した。男と、目が合った。そしてボクは、彼の顔立ちを一瞥も眺めないうちに、その瞳から視線が離せなくなっていた。

 陰を感じた。

 全部が全部、複雑に絡み合って、ひとつのようで、幾千のように、惑っている。

 これは、何だろう。

 悲哀か、怒りか、諦観か、落胆か、消沈か、絶望か。そのどれもが違う気がして、もっとじっと、見入った。

 光が、そこにある気がした。

 それには、まだ当の本人も気づいていないのだろうけど、確かにボクには光が見えた。月明かりのせいとかでは、決してなく。

 それまで黙ってボクを見つめ返し、夜道を進んでいた彼は、何を思ったのか、急に宙に向けて語りだした。


「俺は、小さい頃、虐められていた。理由は、そうだな、家が貧乏だったっていうのもあるかもしれないけど、俺が暗かったからだ。他人と接するとか、方向性の合いもしない誰かと協力してひとつの目標に向かうとか、そんな普通の人間にとっては苦じゃないことが俺にとっては苦だった。そんなことが気に入らなかったんだろうね。それはそれは壮絶なものだったぜ。鞄は隠されたあと傷だらけで発見されるし、学生帽は田んぼに投げ込まれたさ……そんなことを言ったら、今だって、社会からはのけ者にされている。文学の道を志したってだけで、だぜ。本を手に取るものがどれだけ増えようが、作家が異端児だという世間一般の考えは、明治の世からちっとも変わっていないみたいだ。人の個性も志も、それらを理由に誰かがけなされる理由にはならないと思うんだよな」


 それから、男はボクの耳元で、ふ、と笑った。


「耳がついてるだけ、マシだと思えよ。ちゃんとものは聞こえるんだから。……お前、よく見たら可愛い顔してるよな……そのギザ耳も」


 ボクの中で、何かがパチンと解けた。

 今更ながらの気づきにボクは胸を高鳴らせた。

 苦しんでいるのは、ボクだけじゃない。

 当然人間にだってあぶれ者はいて、それがいま、ボクを抱いている彼だと、彼その人が言うのだ。

 でも、彼は優しかった。いや、だからこそなのか、本当に、優しかった。

 ボクらはどうして巡り会えたのだろう。

 無意味な疑問が、心によぎる。

 神様に聞いても解らないことだろう。

 そう意識したとき、思った。

 この人となら。

 ただの飼い主と飼い猫ではない、それ以上の関係になれるかもしれない。

 それこそが、ボクの求めていた『愛』とやらではないのか。

 いや、そんな高望みはやめよう。


 もう決めたのだ。


 彼がボクを、いずれもとの野良に返すつもりでいたとしても、ボクはその手に爪を立てて止めてやる。

 行き倒れの耳の欠けた黒猫のボクと、人生に行き詰まったくしゃくしゃ頭の彼は、ここで鉢合わせる運命だったのだから。


 ボクは初めて感じる人間の体温の中で、安らかな眠りに落ちた。

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