第4章 偽心の愛
プロローグ
アストライア王国での事件から一ヵ月が経過した。
フォルブレイズ領に戻ってきたシズルは、本来アストラル魔術学園で学ぶはずだった貴族教育を、屋敷で学ぶことになる。
その教育係に選ばれたのが、学園で行動を共にした少女、ユースティア・ラピスラズリ公爵令嬢。
かつてはアストライア王国第二王子、ジークハルト・アストライアの婚約者であった少女だ。
彼女も本来ならシズル同様、学園の授業が無くなった今、実家に戻っているはずなのだが、何故かシズルが屋敷に戻ってきたときにはすでにユースティアが家にいた。
事情を聞くと、どうやら彼女は王子の婚約者でなくなった今、今後は王宮に仕えるべくその作法を学ぶ必要があるという話だ。
そしてその教育を任されたのが、かつて王宮でその手腕を振るった女傑、エリザベート・フォルブレイズ。
あの制御不能な男とすら言われた英雄グレン・フォルブレイズすら抑えつけ、ある程度まともな貴族に転身させた功績は、貴族界ではある種の伝説。
そんな彼女に、あらゆる貴族たちが自身の子の教育を任せたいと望んでいた。
もっとも、本人としては己の息子の教育に失敗、かつ腹違いの子の教育すら失敗したと思って、若干自信を無くしているところではあったが。
例え非が王子側にあろうと、王族との婚約が破棄になった令嬢というのは世間体が悪い。
そのため今回、ユースティアの実家であるラピスラズリ公爵は、エリザベートに娘の教育を頼むことになり、彼女が了承。
エリザベートの教育を受けた令嬢、ともなればたとえ過去がどうあれ、今後は引く手になることだろう。
まだユースティアは十二歳で結婚適齢期というわけでもなく、時間とともに過去は洗い流されることも十分期待できる。
そんな狙いが公爵家にはあるのだと、ユースティアから聞かされた。
シズルとしても、学園内で出来た大切なユースティアと一緒にいることは、決して悪い気はしない。
しかしである。エリザベートの教育を受けに来たはずの彼女の日常は、何故か自分の教育や世話係のような真似をするのはおかしいのではないかと思った。
今日もシズルは机に座り、ユースティアによる王国の歴史についての授業が進む。
「だからな、アストライア王国は重婚を推奨している。それはかつて歴史の中で――」
「……あの、さ」
「うん、どうした? 何かわからないところでもあったか?」
「いや……ちょっと近くないかなって?」
座っている自分の後ろから、まるで抱き着くようにノートを覗きこまれてしまうので、同年代よりも少しばかり成長の早い彼女の胸が背中に当たってしまうのだ。
さすがにそれを堂々と言えるわけもなく、遠回しに伝えてみるのだが――。
「……そんなことはない」
そう言いつつ、少し顔を赤らめてすっと下がる彼女を見て、シズル自身も困惑せずにはいられない。
どうにもこの屋敷に来てからのユースティアの態度は不自然なのだ。
学園にいた時は自然と友人としていられたはずの関係が、何故か少しむず痒い感じに変わってしまった。
それが少し寂しく思う反面、その原因がわからないため少しばかりモヤモヤしてしまう。
特に最近はこんな日々が続くものだから、何か彼女がまた抱え込んでいるのではないかと心配になってしまう。
その度にシズルは彼女に事情を尋ねてみるのだが、誤魔化される一方だ。
どうやらマールあたりは事情も把握しているらしいが、呆れた様にため息を吐かれてしまうだけで教えてもらえない。
マール曰く、それは決して悪い事ではないので、あんまり心配するな、とのことだが気になるものは気になるのだ。
そうして若干の距離感を感じながらいつも通り授業が終わって部屋に戻ると、部屋を一生懸命掃除してくれるイリスの姿が目に入った。
「イリス、来てたんだ」
『うん。シズルの部屋、綺麗にしてるよ』
柔らかく幼い声が頭の中に直接響く。イリスはまだ舌足らずで満足に言葉が発せられないので、こうして魔力を介して会話をすることが多い。
最初の頃は戸惑ったそれも、今では普通の会話をするのと変わらないくらい当たり前の光景だ。
「いつもありがとうね」
そう言うと、イリスは無言でコクリと頷いた。
見れば部屋の中には掌サイズの小さな竜巻があちこちにあり、埃などがどんどんと吸い込まれていく。まるでシズルの前世にあったお掃除ロボットのようだ。
幼く可愛らしいイリスがやっていることも相まって、とても微笑ましい光景である。
「……まあ、実際やってるの、実はとんでもないことなんだけど」
何もない所で魔術を維持することは、簡単そうに見えてとても難しい。
たとえば細かいコントロールが苦手なホムラなどは、魔術をぶっ放すことは得意でも、それを霧散させずにいることはおそらく出来ないだろう。
シズルとて、幼い頃から雷変万化の武器を作り続けている訓練をしてきたからこそ出来るだけで、それが無ければとてもできるものではない。
ましてや、ああして自分の手から離れた状態で、これだけの数を自由自在に操るなど、シズルでも相当苦労するものだ。
『これくらい、普通だよ?』
「さすが――」
――大精霊の娘、と言いかけてシズルは言葉を一度切る。
大精霊は大精霊、イリスはイリス。彼女が頑張っていることを、他の何かと紐づけするのはおかしな話だと思ったからだ。
「イリスは凄いね」
『……ふふふ』
その代わり、自身の部屋を掃除してくれている彼女の頭を撫でると、イリスは嬉しそうに微笑みを見せてくれる。
前世でも今世でも、妹に縁のなかったシズルは、もし自分に妹がいたらこんな感じかな、と思った。
そうしてしばらく穏やかな時間が流れていると、不意に――。
「ぬ、ぬおー! 何だこの竜巻は、や、やめるのだ! 我の尻尾を吸い込もうとするんじゃな――ま、まてどこまで我を吸い込もうと――!」
そんな偉そうな声が聞こえてきたかと思うと、その声は風の音によって消えていく。
『あ……ヴリトラ、吸い込んじゃった』
「……早く出してあげて」
『うん』
イリスが軽く手を上げると、小さな竜巻は窓の外に向かっていく。
そうしてまるでそれが自然の摂理のように、竜巻は外に出たと同時に霧散して消えていく。
最後に残ったのは、他の掌サイズとは違い、少し大きめな竜巻。その中心辺りに、黄色い尻尾がピンと立ってクルクルと回っている。
シズルがその尻尾を掴むと、その竜巻は逃げるように他のと同様、窓の外へと向かっていき風に乗って霧散していく。
『ヴリトラ、大丈夫?』
「む、ぅぅぅ……」
「駄目っぽいね」
完全に目を回していて、頭をふらふらとさせている。
少し可哀そうだと思ったが、しかし最近は大精霊とは思えないほど怠けた生活を送っていたのでいいお灸にもなったかもしれない。
仕方ないのでいつもの『ヴリトラ専用』と書かれた籠に置いて寝かしてやる。
『お掃除……出来た』
「うん、他にやることはあるのかな?」
『ううん。今日はこれでお終いってマールにも言われてるよ』
「そっか、それじゃあ少し話でもしよっか」
そう言うとイリスは嬉しそうに瞳を輝かせた。
学園に行っている間はもちろん、ここ最近は彼女とあまり話も出来なかったから、こうして二人きりでゆっくりした時間を取るのは久しぶりなのだ。
そうしてシズルはせっかくなので、学園であった出来事について色々と話し始めた。
思い返すと、平穏な学園生活を願って向かった割には、波乱万丈だった学園生活で、思わず苦笑してしまう。
しかしそこで出来たユースティアという友人、ミディールたちとのやり取りは、今思うとやはり楽しい思い出だったのだ。
だからこそ、イリスや身近な家族たちには知って欲しいと思う。
わずかな時間であったが、このフォルブレイズ家から離れて出会った友人たちのことを。
おそらく、このフォルブレイズ家にいる限りはこれまでのような、まるで物語のような出来事は早々起きないだろう。
しばらくは穏やかな日々が続くかな、などと思いながらイリスと会話をしていると、廊下からドカドカと大きな音が聞こえてくる。
「おいシズル! 聞いたかシズル⁉」
そしてシズルの部屋の扉が勢いよく開かれ、そこから紅い炎のような髪の青年――シズルの異母兄弟であり、このフォルブレイズ家の次期当主であるホムラ・フォルブレイズが部屋に乗り込んできた。
『――っ⁉」
「入ってきて早々勢い凄すぎです兄上。少し落ち着いてください。ほら、イリスがびっくりしすぎて目を丸くしちゃってるじゃないですか」
いきなり扉が吹き飛ぶ勢いでホムラが入ってきたものだから、イリスが驚きすぎて完全に固まってしまっていた。
その姿は可愛いのだが、かといってそのまま放置するわけにもいかない。
テンション高く入ってきたホムラの背中には、大きめなリュックが背負られている。それだけで、彼が脱走を始めるつもりなのだと理解した。
「これが落ち着いてられるかってんだ! ダンジョンだ! 新しいダンジョンが出たぞ!」
「……へぇ」
兄の言葉を聞いた瞬間、シズルの瞳が鋭く光る。
そしてベッドの下に隠していた、大きなリュックを取り出して中を確認。これはいつでも脱走できるように以前から用意していた、旅支度だ。
どうやらこれはゴミとは判断されず、ちゃんと掃除されずに置いておいてもらえていたようである。
もしマールだったら間違いなく捨てるか、中身を入れ替えられているところだが、部屋の掃除はイリスの役目なので助かった。
「兄上……それで、今回はどうやって抜け出します?」
「さっすが俺の弟! 話が早いぜ!」
その言葉を聞いたホムラは、満面の笑みを見せるのであった。
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