第16話ラベンダー 味のキス2

冒険家たちの悲願であるリーネ山脈をあっさり飛び越えてしまった


雲が開けて一面の紫が大地に広がる

よく見ればすべて小さな花!

幻と言われる大地リーネ


「ちょっと揺れるぞ」


ゆっくり旋回して着地点を探す。花畑に突っ込む。結構大胆だ

がたがた少し揺れて飛行機がとまる


おそるおそる花の絨毯へ一歩を踏み下ろす


ここが秘境リーネ……?


なるほど、神の庭とはよく言ったものだわ。


「山が……」


一面紫に染め上げられている

風がゆるくそよぐたびに穂が弾ける

どこまでも果てしない花畑のうねり


果てしなく咲き誇るラベンダー!

甘くてピリッと辛い花の香が空気に弾ける


渓流は花びらが浮かんで紫の渦


見る者の心をかき鳴らさずにはいられない


ここに来れるのが孤高の冒険者だけだなんて嘘だろう?

世界で一番愛する人とみるべきだ


あまりの絶景に思わずよろよろ踏み出して


「危ない!」


ふわっと身体が宙に浮きあがる

黒いぬくもりに包まれる。情熱的な炎の香り。


絵にかいたようなお姫様抱っこ。


蛇がざりざりうねって繁みに消える


「ラベンダーの下には蛇が出る。気を付けろ」


びっくりした。蛇くらい平気なのに……

あれ、マトー様? 耳の裏まで真っ赤だわ


そこでリマはようやく、とっさに首に腕を回していたことに気付く


「もっ、申し訳ありません」

「いやっ、あっ、全然構わない。なんならずっと……」


腕の中で、しばし息を止めて見つめあう


マトーは思い切り味を覚えてしまった

リマをふわっと抱える幸せを


***


まさか、伝説の男の腕から伝説の秘境を堪能できるとは思わなかった……

伝説マスターである


今日一日、リマは何かにつけて抱えあげられた


小川を渡るのにふわっ

段差を下りるのにふわっ、


遂には石ころ一つ避けるのにもふわっ、

気付けばふわっと浮いて逞しい腕の中


最後の方はもうほぼお姫様抱っこで移動していたような気がする


そのたびに腕の中で真っ赤にうずくまってしまう

恐ろしい伝説のマトーの胸に抱かれて

竦みあがるべき身体は、なぜか別の高鳴りを感じる


ばかね、どうしてこんなに意識してしまうの!

マトー様は小娘ひとり抱えるなんて大したことじゃないのよ!


天変地異にも匹敵する大事である

リマをふわっと抱え抱く喜びと来たら!

温もりが、リマの香りが、風に揺れる黒髪が、もうくらくらして幸せでたまらない


とり落とさぬようしっかり抱きしめる

マトーが踏みしめるたびに、立ち上る甘いラベンダーの香り

胸いっぱいを甘く染め上げる


***


楽しいひとときというものはなぜあっという間なんだろう


紫が夕日に染まる

橙の空にほの青い雲がたなびいて、雲の縁は桃色

黄金をまぶした穂がダイアモンドの様に煌めく


山峰に沈む夕日が、悲鳴のような瞬きを放つ。空が燃え広がる。

反対の空には月。一番星が一粒瞬く


もう日暮れだなんて


……リマも、感じてくれただろうか

素晴らしい一日だったと


ポプラのふもとの丘に並んで腰を下ろす


紫の世界


空も花畑も溶けて、すべてリマの瞳の色と同じ


一番星がリマの瞳に灯る


どこまでこの娘の瞳は澄み渡るんだ


滲んだ光彩の奥の奥までマトーは盗み見る


瞳に影が落ちる。小鳥の影

夕陽を目指して鳥がはかなげに飛ぶ


「マトー様、あの鳥は?」

「ジェナガだ。森にすむ。なかなか愛嬌があって可愛らしいぞ」

最もリマほど可愛らしい生き物などこの世にいないが


「……。鳥の名前なんて知らなかったな」

「? いまおっしゃって……」

「いつのまにか知識があっただけで、何も知らなかった、何も」


星の美しさも、月の美しさも、うずきも、喜びも、嫉妬も。

リマなしでは何一つ本当を知りえなかったと、マトーは痛感していた。

ああ、俺は本当に何も知らなかった


リマ。リマは俺の目、耳、肌。心。

リマの瞳を通して初めて世界の色に気付く

リマ無しでは俺は真っ暗闇の中。

俺はどうやって生きていたんだろう。

もうリマ無しの日々になんて絶対に戻れない


はかなげに羽ばたく鳥をヒヤヒヤ見送る


あの頼りなげに飛ぶ小鳥が、鷹にさらわれはしないだろうか!


今だけは、リマの世界は優しく満ちて完璧であって欲しい

俺の隣でほぐれてほしい

張り詰めた弦が切れてしまわないように。


あの鳥が食われれば、リマはたちまち自分の横に獣が控えていることを思い出すだろう


俺が恐ろしい獣であることを忘れていて欲しい。

食われるならリマが目をそらした時に食われてくれ!



この俺が小鳥の身の上を案じるとは!


リマが手折ったラベンダーに瞳を落としたので、幾分マトーの気は楽になった。


花束に顔をうずめて香を楽しむリマ。

可愛い。どうしてときめかずにいられよう


感傷的な情景はいやおうなしに若い男女をうちとけさせる


どちらともなく、ほつりほつりと、身の上話に日が灯る


最初はリマの話。可愛い義弟のウィドー。やさしいおじさまおばさま。ネズミ捕りの達人猫アド。素朴で平穏な暮らし。

男の子の話はなぜかしてはいけない気がする……


次はマトーの番だ

「俺は羊飼いだったんだ。リマ、お前も仕立て屋の娘だったろう。あのまま俺が育っていたらとよく思う……いつかリマの村にも行ったかもしれない。そしたらちょいと俺を呼び止めて、毛糸を一束買ったかもしれないな! きっと全く違う出会いになった」


マトーが目を落とす


「もし俺が羊飼いだったら……俺にもチャンスをくれた?」

小さく呟く


「えっ?」

「……なんでもない。」


リマの花束を手繰って香を嗅ぐ。

花弁を押しつぶす。弾けあがる香り


美貌のおもてに可憐な花

キラキラ煌めく黄金の瞳には夕陽を落として

美しい絵画のよう


思わずリマは魂を奪われそうになって竦む

マトーが瞳を上げる。まともにくらう


「……疲れたんじゃないか?今日はよく歩いた」

低くて優しい声。黄金の瞳が射貫く

恐ろしいはずの双眸は、リマを気遣っているとしか思えない。


どうして……

風がふわっと巻き上がって、紫が胸いっぱいに満ちる


「いいえ、あの……、あの。大丈夫。です。あの、そんなに気使ってくださらなくて結構です、今日もずっと……。どうして……。……私は貴方の家畜以下の奴隷……です」

ずっと燻ってきた疑念が口をつく。言ってしまった途端、どうしようもない事実を噛みしめて苦くなる。言葉にすることがこんなに辛いとは

喉が絞まって目が潤む。

頬が痛くなって、ポロポロ涙がこぼれる


「家畜!?」

リマ以上に心底動揺してしまったのはマトーだ

随分打ち解けたリマが、急に遠くに行こうとしている


「そんな風には思っていない! 大事に思っている!」

肩を掴んで必死に追いすがる。瞳を覗きこんで魂を掴もうとする

星の闇を獣の炎が照らす


「あ、あれは…あまりに混乱してとっさに言ってしまったんだ!傍に置いておきたくて!どれだけ後悔したことか!なのにおれは打ち消す勇気すらなかった!」


ああ、だから……

やっと理解する

だからどんなに豪奢なプレゼントをしても、リマは喜ばなかったのだ!

その時は微笑んで礼を言うが、目を離すと浮かぬ顔でじっと宝石を見つめていた


あれは、主人の気まぐれに喜んでいたのだ……

俺の必死の気づかいは、絞める前の家畜に腹いっぱい食わせるものだと思われていたのか


ああ!俺があまりに浅はかだったばかりに!


違う! 違うんだリマ……

俺は誰よりもリマを……


「ぐ……」

口惜しすぎて言葉に詰まる



この世を燃やさんばかりに夕陽が揺らめいて、二つの影を映し出す

ポロポロ泣く乙女を必死で慰める獣



「リマ……! 悪かった、そんなに思い詰めていたなんて……!俺は冷酷で……、女ごころが判らなくて、自分でも心底嫌になる! リマ……すまなかった!泣かないでくれ。泣かないで…。お願いだ…」


愛しい女が目の前で泣いている。どうしたらいい?

どうしたら泣き止んでくれる?

たまらない

太陽が一層きらめきを増して


ぷつん


理性の弦が切れる


唇をふさぐ


「ん……っ」


むせ返る花の香り


冷たい水に驚いた様にはねて


すぐにもう一度……

今度は深く……


なんどもなんども……


真っ赤な夕陽

残滓を貪るように唇を合わせる

今まで味わったどんな蜜よりも甘い……


「俺が怖いか…?」

星の瞳を覗く。吐息のように囁く


「…いいえ」


嘘をついている


星が揺れる微かな嘘。マトーは見抜いてしまった。


だけれど、そんな顔で言われたら


……止まれるわけないじゃないか


好きだ

破滅してもいい、この女が欲しい

たまらず唇を重ねる


地平線には燃える様な夕日。だが反対の空は、夜の闇…


そして二人の上では夜と夕陽が混ざり合って煌めく


溶けてしまいそう


お互いの鼓動がすべて伝わる。見逃さない。

快楽の電流は何倍にも増幅されて弾けて……


リマのたどたどしい舌の感触がマトーの情熱をくすぐる


「ぷは」

それがどんなに煽情的か知らずに一心に答える

またふさぐ。押し倒す。うなじに噛り付いて胸元のリボンを解く


リマの天地が回る

星が一杯に広がって、花の香に溺れそう

「んっ」

息をしようとすればたちまち舌に吸われる

こねくりまわされる


頭が真っ白、体中がじんじん熱い

生まれて初めて味わう快楽

押し流されてしまう


「んん…っ」


恐れなどとうに快楽に流されて、英雄に抱かれているような錯覚すら覚える


かたく腕に抱かれて、花の香に炎が混ざる

男らしいマトー様の香り。心に燃え広がる


わたし……お昼間にだいぶ汗をかいたわ……


真っ白な頭に一点よぎる、乙女らしい恥じらい

それもマトーの舌がかきまぜるにつれ、夕闇の空に溶けていった



リマ。リマ、リマ、

リマの香り。どうしようもなくマトーを刺激する。おかしくなる


ラベンダーと混じる汗の芳香。原始を煽る

もっと味わいたくて胸元に鼻をうずめる。舐めて吸いつく。

滑らかな肌。なにもかも奪ってしまいたい。今まで我慢したんだ。いいだろう?

やっと、やっと欲しいものを見つけたのだから



***


飛行機に山と積まれたラベンダーの穂束

花が点々と床に落ちている


蛇の這った後の様に


愛しい少女を抱いて歩く

もどかしくてたまらない


何度も何度も唇の熱を確かめながら


キスのたびにリマの手からほろほろ花が落ちる


唇の幸せが頬の下に伝わって熱い。熱は耳まで。真っ赤になる

リマの熱がじんじんと心臓へ染む


ベッドに弾けるラベンダー

甘い香りに埋もれて闇に溶ける


優しく服を剥がれる喪失感


やがて素肌のぬくもりとなる

たちまちリマの身体中にキスが燃え広がる


闇に、はっはっと息遣いだけが咲く


「……大丈夫か?」

優しく、少し苦しげな声


「すまない、あまり気遣ってやる余裕がなくて。……痛ければ思い切り爪を立てろ」


……こんなことをしてリマは俺を嫌いになるかな?


もう止まれない



汗もつばも、呻き声も、何もかも紫の花の香に溶けていく


熱いうねりに何度も溶ける


リマに嫌われたら生きていけない…


リマ…これで全て俺のもの…俺は…



「幸せだ。リマ」


何度も思いを遂げて、マトーがぐったりと体を沈める


荒く息づくマトーの肩越しに満月を見る


二月目の満月


二月……

私……私…何を考えていたかしら


ざりざり花の下に消えた蛇を不意に思い出す


僅かに感じた不安も、すぐに激しいキスに搔き消える



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