第48話 引っ越し前夜祭 part3
時計の針がPM8;30を指しています。実家に電話をかけに
いった彼女でしたが、既に30分近くになりますが、戻って
来ません。混雑を極めていた店の風景も、1段落の感じです。
カウンター席は誰もいなくなり、テーブル席の家族連れも最後
の中華丼が運ばれています。先に食べ終わっている子供達は
手持ち無沙汰に、「お父さん、早く食べてよ!」と父親に帰る
催促をしています。日曜日の夕飯時はPM9;00を過ぎれば
お客さんがいなくなるのです。厨房のマスターも換気扇の
下で、タバコをくゆらしています。ママは自分のペースで洗い物を
片付けています。それにしても由紀子の帰りが遅いのです。
何かあったのかな?あと、10分待って戻らなければ、外に出てみよう!
テーブルに肘をつきながら、残りわずかな日本酒のグラスを持ち上げた
ところに・・・ママが・・・
「里中君・・・チューハイの注文聞いていたわよね・・・ごめんね・・・すっかり忘れてしまって・・・」と生ビールの
大ジョッキにチューハイを作って持ってきました。
「大ジョッキですか?僕、初めてです、大ジョッキのチューハイ!」
「いいのよ・・飲んでこれも私からのサービス・・ずいぶん待たせてしまって・・・それより由紀子さんはどこに行ったの?」
「えー明日、岩手から親父さんが上京するので、細かい打ち合せで、電話をかけに行ってます」
「そーなの・・・お父さんが来るんだ・・・可愛い娘の引越しだもん、色々と心配になるわね・・・それで、里中君もお父さんに逢うんだ・・」
「先方の親父さんが、僕に逢いたいとの事で待ち合わせ時間と場所を電話して、決めているんです」そんな話しをしているところに由紀子が戻ってきました。
「ごめんなさい・・・遅くなっちゃったわね・・・心配した?」
「当たり前だろう・・電話をかけにいって30分も戻らないだもん・・・何かあったかな?と誰でも心配するよ・・・」
厨房からマスターも出てきて、由紀子に向って
「里中君、かなり深刻な顔をしていたぞ・・言葉をかけるのが気の毒
な位に・・・」
「マスター勘弁してくださいよ・・・深刻なんて、少し大袈裟ですよ・・」
最後の家族連れが会計を済ませて店を出て行きました。
「さあ・・・今夜はこれで閉店・・・暖簾をはずして、4人で一杯飲みましょう
・・・今夜は由紀子さんの引越し祝いよ・・マスター!暖簾をはずして、
外の看板ネオンを落として!」とママが嬉しそうにマスターに指示しています。
明日、25日は由紀子の引越し、そして懸案の親父さんとの初対面です。同じ下宿で過ごす、最後の晩餐を行きつけの中華料理屋のマスターとママ、そして俺たち2人の4人・・・ビールで乾杯になりました。
1杯目のビールを飲み干すと、神妙な顔つきで由紀子が・・・
「マスター、ママ・・・ほんとにわずかな時間でしたが、
とてもよくして頂き、ありがとうございました。田舎者の私には、都会の両親みたいな感覚で接することが出来ました。私・・・明日、引越しに
なりますが、里中君が外山さんの下宿にいる限り、ちょくちょくお邪魔すると思います。どうかこれからも、よろしくお願い申し上げます。」
いつも調子ではなく、厳粛な言葉のトーンでした。なーんだ、そんなに
堅い話をしなくてもいいのにと思いながら、彼女の横顔を覗くと、目頭が潤んでいるのです。
どうしたんだ・・・そんなにオセンチになる必要もないのにね・・・
するとマスターが・・・
「由紀子さん・・・俺はさあ・・・野郎ばかり2人のドラ息子だったから、あんたが、わが娘のように可愛いかったんだ!里中君がひとりで来る時は、由紀子さんどうした?ケンカしたのか?といつも問いかけていたんだよ・・明日から、寂しくなるよな・・・」としんみりしたムードが伝染しています。
「由紀子が暗くなるような雰囲気を作るから、この世の別離みたいになっちゃうんだよ・・・なんか、お通夜みたいでいやだよ・・・この雰囲気を変えようよ!」
すると、ママが、彼女の目を見つめながら・・・
「ねー由紀子さん・・・めそめそしちゃ駄目よ・・私もマスターも貴方たち2人の応援団なんだから・・・これからもケンカしたり、すれ違い、そして、お互いの気持ちがわからずぶつかることもあると思うのよね・・・でもそうした時、この夜の出来事を忘れないで・・・由紀子さんは決してひとりじゃないのよ・・もし里中君と
大喧嘩したら、遠慮なく私たちに相談に来てね。」
まったくもう・・・
なんでこんなにしんみりしたムードになってしまうのか?不思議です。
なんの「ゆかり」もない貧乏学生をここまで、面倒みてしまう
この初老の夫婦がほんとに好きでした。この夫婦ならではの、人情
物語があります。
昨年5月にはじめてこの店にきて、カウンターに
1人座り、1番安い野菜炒めライスを注文したのが、昨日のようです。
ママが「あら・・・学生さん・・田舎はどこ?大学はどこ?学部は何?アパートは?ご両親は?」と質問攻めのオンパレードでした。
ただ受ける感じは嫌味ではなく、心配性の母親に似ていて、なんか、気持ちが和らぐ店でした。
その後、2人の行きつけの店になり、そしてこの夜を迎えています。
ほんとに色々と面倒をみてもらった!・・・感謝以外の言葉がみつから
ないのです。
「おーい・・・俺はビールはもういい・・・熱燗でゆくぞ・・・
里中君も付き合えよ」
「はい!・・・マスター付き合います。ただ、明日は
由紀子の引越しなので、二日酔いにならない程度にやります・・・」
「そーね・・・私も熱燗にしようかな」とママが、厨房に消えてゆきました。
その後、しんみりムードが後退して、この夫婦の「出会いから結婚、そして店の開店から、現在に至るまでの、苦労話を延々と2時間・・・
一杯のラーメンの込める職人魂の話がとても印象的でした。
AM12;00を回ったところで、お開きになりました。今夜のお礼と
再会の約束をして店を後にしました。
由紀子が「ねー貴方・・・私のマフラーを貴方の首につなぐの・・・高校時代に見た映画のワンシーンにひとつに・・マフラーを2人の首に巻いて、歩くシーンなの・・・いいでしょう・・・やってみたい」
「どーぞ・・・嫌だと言ったらケンカになるもん・・・好きにしてください。」「どうして、そういう言い方しかできないの?ほんとにデリカシーがないんだから・・」
ブツブツ言いながら、マフラーで首が繋がりました。エンジの由紀子のマフラー・・・温かいね・・・
彼女のいつもの香り・・ほのかな柑橘系の匂いがします。2人の吐く息が
すっーと白い放物線を描きます。言葉を交わさなくても、マフラーから
伝わる彼女の鼓動がかすかに聞こえる下宿への帰り道でした。
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