四、不毛なる心理戦線 その2

    4


 ふんふふふん、ふんふふふん、ふんふふふっふーん。

 昼休み。黒姫は表面上は各クラスに配布する資料を抱えて、やる気も不満も見せずただ自分に課せられた役割を淡々とこなす優等生の偽装を完璧にこなしながら、心中ではショパンのワルツを口ずさみ完全に浮かれながら廊下を歩いていた。

 今日は球技大会の資料を各クラスの学級委員に配付しなければならない。すなわち、自然にF組に行くことができるのだ。おりしもF組では席替えがあり、凡田君は前方ドア付近にいる。少なくとも十秒は凡田君に近づけちゃうのだ。全く興味がなさそうなフリをした上で、周辺視野で思う存分視姦できちゃうのだ。

 ……待てよ?

 もし、学級委員長のみなぐちが見当たらなかったらどうなる? その場合、近くにいた凡田君に、

「皆口さん知らない?」

 と、尋ねるのが自然な流れではないだろうか。

 それは考えてなかった……! フェーズ1の段階で接触の可能性が浮上するとは……!

 優等生的な杓子定規的な義務感を前面に押し出しつつ話しかけるのは偽装の範囲を逸脱するものではない。しかし、問題は用件の緊急性がさほど高くないということだ。偽装上、優等生でスクールカースト最上位の橘黒姫は凡田君など歯牙にもかけない態度を取らねばならない。

 だが! 今までなかった一対一での貴重な会話の機会である。もしもそうなったら、さりげない中にも好印象を与えなければならない。

 そうこう考えている間にもF組は近づいてくる。ああ、もう少し時間があれば……。

「あ、橘さん」

 教室に入った瞬間、学級委員長の皆口と目が合った。

 安堵と失望が混ざり合ったものを全く表に出さず、黒姫は皆口たちのいるF組主流派のいる窓際の席へと歩み寄っていった。

「ちょっといいかしら、球技大会のレギュレーションとメンバー申請書を配布しているんだけど」

「そうなんだ、わざわざありがとう」

 これで用事終了である。橘黒姫として速やかに次のクラスへと向かわねばならない。

 まあ、いい。今日のところは凡田君を近くで見るだけで……。

『……凡田君、ちょっと甘い匂いしない?』

『そうですか……?』

 そのとき、黒姫の視野がありえない異物を発見した。

 凡田君の前の席。見知らぬ『女子生徒』がやたら親しげに凡田君に寄り添っている様を……。

 一瞬、硬直した黒姫の前で、皆口がプリントに目を落としていた。

「やっぱり橘さんはソフトテニス?」

「え? 私はどうせ人数あわせだから、どこか足りないところかな」

「またまたー、テニス部よりすごいくせにー」

「そんなこと……」

 黒姫は微笑しつつ、心中、絶叫していた。

 誰あれ! 誰あれええええええええ!?

 どうして凡田君が女の子と一緒にいるの!? どうして襟元に顔近づけて匂い嗅いでるの!?

 前例がない!

 凡田君はトイレで食事を摂ることはあっても、昼休みを女の子と一緒に、しかも差し向かいで! 過ごすことなどなかったはずである!

 あの席は……ソフトボール部の山川か? いや、違う。いま窓際の席で陸上部のいしわたりと一緒にいるのを見た。

「種目って去年と同じでしょ?」

「ええと、日程表はもう出来上がってたかな」

 ファイルから資料を取り出すふりをしつつ、身体をひねり、その女子生徒の顔を確認しようとした。

 見えなかったぁ!

 奴が凡田君のこと直視してたから、顔がこっちを向いてなかったぁ!

 ……落ち着け。落ち着きなさい。

 橘黒姫は全校生徒の特徴を記憶している。生徒会の権限で、生徒に関する全てのデータを把握している。脳内の全校生徒のデータにアクセスし、ちらりと見た女子生徒の特徴を思い出した。

 身長一七〇センチ超。各部位の長さ。上半身はジャージ姿でシルエットがはっきりしない。膝下の長さは……いや、なんでそんなにスカート短いわけ!? どう考えても校則違反じゃないの!?

 リストから容疑者の名前が浮かんでは消えていく。

 三年A組、やまゆう? 違う、身長がやや足りない。二年D組、さくらざわ? 違う、髪は急に伸びたりしない。新入生の鳴瀬川真? 違う、奴はもうすでに彼氏を作っていて現在は中庭で昼食を取っているはずだ。

 最終的に一人の名前が残った。

 芹沢明希星?

 二年E組、芹沢明希星は一匹狼型ローン・ウルフの女子生徒だ。県外からの入学者で、校内に同じ中学の繋がりはなし。部活もやっていない。生徒たちの話題に上ることはほとんどない。黒姫の記憶の片隅には、わずかな情報が残っているのみである。複数の男子生徒にアプローチされるも、ことごとく断ったというものだ。

 それが何故、凡田君と一緒に……?

 とにかく落ち着くのだ。偽装を乱してはならない。黒姫は皆口に言った。

「それで相談があるんだけど……」

「何?」

「球技大会の実行委員になってくれる人、探してるんだけど心当たりないかしら」

「うーん、私、部活で忙しくて……」

「そう、そうだよね……」

 どうでもいい会話を引き延ばしながら、同時に、黒姫は廊下側の声に意識を傾けていた。

『そうだ。凡田君、お昼食べないの?』

 こいつ……! まさか凡田君と一緒にお昼しようとしてるのか……!?

『あ、話が終わってからで大丈夫なので……』

『……そう』

 あはは、あっさり拒否られてる。ほら、もう諦めて凡田君から離れなさい。

『凡田君っていつもは誰とお昼食べてるの?』

 凡田君はいつも一人です。孤独を愛する人なんです。

『いえ誰とも……』

『じゃあ、せっかくだから一緒にお昼食べようか?』

 は? 何言い出してるの?

 凡田君、頑張って! あなたは静かに昼休みを過ごしたい人のはずでしょう!? 誰かと一緒に食べるくらいならトイレで食事することも厭わない人でしょう!? 女の子に誘われたからって信念が揺らぐ人じゃないでしょう!?

『えっ、何?』

 そうこなくては! 流石は凡田君! 凡田君はそんな雑なハードコンタクトに耐えられる男の子じゃないんだから!

『だから、お昼一緒に食べようって言ったんだけど』

 お前のメンタルにはタングステンでも混じってるのか! 普通そこは引くところじゃないの!?

『ほら、あたしもぼっち? だからちょうどいいかなって』

 お前のようなぼっちがいるかああああぁぁぁ!

 ぼっちっていうのは凡田君みたいな孤高の人のことを言うの!

 あーもういらいらするぅ!

「どうしたの? 橘さん」

 どうしたもこうしたもない! 私は今、緊急事態でそれどころでは……。

 はっと我に返った。

 皆口が不安そうにこちらの顔を覗き込んでいた。

「大丈夫?」

「あ、ごめんなさい。ちょっとぼうっとしちゃって……」

「いろいろ忙しそうだもんね。あまり無理しないでね」

 皆口は形ばかりの気遣いを見せつつ、話を切り上げたい雰囲気を出していた。

 もう時間は引き延ばせない。これ以上、居座ることはできない。皆口と別れ、教室前部ドアに向かう。

 周辺視野で芹沢明希星の後ろ姿を焼き付けた。

 同時に、黒姫の中で明希星は『観察不要』から『最重要警戒対象』へと格上げされた。


    5


 放課後。校内のロータリー。

 八木薫子がいつものようにリンカーン・コンチネンタルの傍らに待機していると、やがて玄関から黒姫が早足で現れた。

「おかえりなさいませ」

「…………!」

 黒姫は一礼する薫子を無視して後部座席に乗り込んだ。いつもと違う様子に怪訝に思いながら、薫子はドアを閉め、運転席に滑り込む。

「どうかなさいました? ずいぶん、ご機嫌ななめのようですが」

「あれ! 例の!」

「今? ここで? 私は構いませんが……」

「早く!」

 薫子が肩越しに差し出した封筒を奪い取ると、黒姫はまだ校内だというのに封を開ける。食い入るように凡田君監視班からの報告書を読み始めると、段々と黒姫の肩がふるふる震えはじめた。

「情報が遅い!」

 黒姫がファイルをばちん! と閉じる。

「朝からもう八時間も経ってるじゃない! どうしてすぐ報告しないの!」

「だってお嬢様、学校だったじゃないですか」

「凡田君に女の子が接触してるんだからデフコン準備態勢でいったらスリーくらいでしょ! 緊急事態なの!」

 バックミラーの中、黒姫が両手をぶんぶん振りながら激昂する。

「で! 芹沢明希星についての調査書は!?」

「……芹沢? 誰です、それ」

「朝、凡田君とぶつかった子!」

「へえ、あれアキホちゃんっておっしゃるんですか。かわいらしいお名前じゃないですか。ちなみに調査書なんてありませんが」

「何でないの!?」

「さっきから話が飲み込めないんですが、そのアキホちゃんが何かやったんですか?」

 黒姫は後部座席で戦場の凄惨さを訴えるように手をわななかせた。

「あのね……! 凡田君と一緒にお昼食べてたのよ……!」

 薫子は二リットルほどため息をついた。

「……それだけですか?」

「それだけで十分でしょ!」

 黒姫はシートベルトに引っ張られながら身を乗り出してきた。

「とにかく芹沢明希星にも監視を付けて! 二四時間態勢、こいつには盗聴でも住居侵入でも何でもやっていいから素性を明らかにし、目的を探り出すのよ……!」

「駄目です」

 まっすぐ前を見て運転しながら、薫子は即座に拒否した。

「もう人手は割けませんよ。凡田君を監視するのにどれだけ苦労したと思ってるんですか。幹部連中の目を誤魔化すの大変だったんですよ? あっちこっちのペーパーカンパニーから資金流して、人材集めて……。これ以上やったら不審がられますよ」

「…………」

 黒姫は後部座席に戻り、窓の外を眺めてから、ふっ、と笑った。背もたれに身を預け、悠然と腕組みする。

「……なるほど。薫子、あなたね? 芹沢明希星はうちの諜報員なのね? 私に黙って凡田君に直接接触させたわけね。本来、命令逸脱は見逃せないけど今回だけは許してあげるからそうだと言って」

「現実逃避してるところ申し訳ありませんが、こんなアプローチするボンクラ諜報員がいるわけないじゃないですか。いたらクビどころじゃ済みませんよ」

「じゃあ、何なの! こいつは!」

 黒姫はファイルをばんばん叩くと、顔を青ざめさせて俯いた。

「ま、まさか、あの子、凡田君のこと、す、す、す、好きなんじゃ……」

「そんなわけないでしょう?」

「地形を思い出せ。芹沢明希星が飛び出してきた路地は今年の四月、ルートの一部が封鎖されて駅方面からは来られないようになっている。奴が凡田君を待ち伏せしていたのは間違いない」

「錯乱するか冷静になるかどっちかにしてもらえませんか」

 薫子は再びリッターで嘆息した。このままだと、また本業の方に支障が出かねない。薫子はとりあえず思いついたものを口に出した。

「金目当てじゃないんですか? 制服汚したとか怪我したとか因縁つけて」

「……本当に?」

「凡田君に興味持つようなのは普通いませんよ。あなたじゃないんですから」

「…………」

 ちらり、バックミラーを見る。黒姫は渋面を浮かべたまま、何か思案しているようだった。

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