二、凡田純一 その1

    1


 凡田純一とはどのような存在であるのか。現在、必要な情報のみを開示する。


 1、そもそも『凡田純一』という人間は存在しない。

 2、『凡田純一』とはあるエージェントによって創られた偽装経歴である。

 3、『凡田純一』が創られた目的は複数の組織の追跡から逃れるためである。

 4、よって『凡田純一』のデザインに求められたのは日常空間における隠密性であった。

 5、目立たず、敵を作らず、誰からも相手にされない。それが『凡田純一』という人間である。


    ◆


 盗聴の可能性を考え、凡田は不自然な音を出さないようにバスルームへと入った。

 壁に手を当てる。昨日から使用せず、バスルーム内は十分に乾燥していた。指紋検出、特にシアノアクリレートには乾燥し、密閉された空間が好ましい。

 器具を用意する。ジオラマ用、と称して手に入れたアクリル性水槽。プラモの彩色用、と称して手に入れたアルミ製の小皿。パーツの溶着に挑戦したものの生来の不器用さのために失敗し慌てて購入した、と偽装した瞬間接着剤。趣味をプラモに設定したのは凡田純一の偽装に沿ったものであると同時に、さまざまな工具・有機溶剤を自然に手に入れることができるからであった。

 鍋を楽しむため、という名目で用意した電熱器を延長コードに繋ぎ、加熱する。

 その間に、凡田は準備を整える。水槽に釣り糸で郵便物を固定する。コンビニ袋を接着して作ったマスクを着用する。

 まず、ヨウ素による検出を試してみる。

 洗面台のうがい薬を小皿に移した。もし指紋が残されていれば、蒸着したヨウ素がタンパク質に反応し褐色に変わるはずである。

 結果、封筒の外には複数の指紋が検出された。封筒の内部、手紙には触れられた痕跡はなし。

 凡田は一度外に出ると、ルーペでその指紋を目視し、記憶する。空気に触れるうちにヨウ素による着色が消えると、再び、バスルームへと入った。

 今度は瞬間接着剤を試す。

 電熱器にあぶられ、小皿内の瞬間接着剤が気化する。水槽内に吊された封筒、手紙に残された水分に薬剤が蒸着する様を、凡田は化学物質で満ちたバスルームに留まり、じっと凝視していた。


 故あって、彼は追われていた。

 誰にも話せないが、かつて彼はある組織に属していた。諜報機関である。彼はそこで数年間、働いていた。どのような仕事であったのか、話せないし、話したくもない。

 数年前から彼は組織から逃げることを考えていた。理由は複数あるが、一言で説明すれば『疲れた』からである。

 だが、組織からの離脱は命を狙われることを意味する。

 所属していた組織からだけではない。かつて敵対した組織、被害を与えた組織からも命を狙われていたのである。CIA・FSB・MI6・BNDといったいわゆるスリー・レターズを始め、世界各地のゲリラも反政府組織も非合法営利組織も、彼の命を狙い、常時、賞金を掛けていた。

 準備には慎重の上に慎重を期した。

 逃走資金のため、彼は予算を水増し、あるいは作戦中に得た金品を着服した。

 逃走先も熟考された。

 日本・双輪市を選んだのは自身の外見上の問題もあったが、他にも利便性が高かったからだ。経済特区という側面から人の出入りが多い。付近に空港、港湾を備えた物流の拠点であり、紛れ込みやすく、逃げやすい場所であった。

 最も神経を使ったのは偽装経歴に関してであった。

 完璧な偽装はない。偽装は無数の輪から成り立つ鎖のようなもので、その一つの脆弱性によって全てが崩壊してしまう。

 だからこそ、リスクの数自体を減らすことが彼の基本方針だった。

 目立たず、興味を引かず、誰の意識にも上らない存在。誰の敵にもならず、誰の味方にもならず、空気のような存在。それは常々、彼が臨場活動において望む姿だった。

 およそ二年前、ついに逃走は実行に移された。

 高校生・凡田純一という新しい人間に生まれ変わったのだ。


 そしてこの一年間、凡田は平穏な学生生活を過ごしていた。

 表向きは何事もなかった。少なくとも逃げる必要を確信させるような物証は出なかった。部屋への侵入者なし。盗聴器の設置もなし。郵便物の盗難もなし。電話盗聴の気配もなし。

 今日もそうだ。無限ではない資金と偽装経歴の強度を犠牲にしながら資材を調達したのにもかかわらず、指紋から新たな情報は得られなかった。

 それなのに工作員としての本能がずっと危機を告げていた。

 自分が何者かに泳がされている気配が、終始、感覚に纏わり付いて離れない。

 どこにミスがあったのか?

 いつものように凡田は机で課題を進めながら、今日一日のチェックを始めた。


   2


 早朝、通学路。

 学校へどのルートを通るか。それは偽装の強度と生命の保障という矛盾の中にあった。

 偽装という面から見れば、ルートは固定すべきである。余計な行動を取ればそれだけ人目を引く可能性があり、偽装で説明できない部分も現れてくる。

 だが、安全保障面から見ればルーティンは最も狙われやすい部分である。狙撃、誘拐、爆殺。固定された行動は敵にアドバンテージを与えてしまう。

 また、リスクを避けるためにはどこを歩くかが重要であった。

 建物へ正面から近づかないこと。視界の開けた場所に出ないこと。臨場において狙撃を回避するための鉄則であった。

 凡田はその矛盾を解決しなければならなかったが、そこでも凡田の偽装が役に立った。

 漫画雑誌の発売日、コンビニのラインナップ、近所の工業高校のヤンキー。

 それらを理由に凡田は不自然に思われない、複数の登校ルートを手に入れることが出来た。

 異変があったのは学校付近だった。

 普段、聞き慣れない声が校門から聞こえてくる。わずかに顔を上げ、凡田の胃が引きつった。

 写真撮影……!

 誰かがカメラを構え、登校中の生徒たちの様子を撮影している。

 何故? 警戒心が一気に高まった。記憶がフラッシュバックし、砂漠の投票所が重なって見えた。砂まみれの四輪車、自動小銃を構えた髭面の兵士たち。記者を装い、投票へやってくる人間の顔を撮影する政府情報機関の職員。

 幻覚から立ち戻り、前髪の隙間から様子を窺うと、カメラを構えているのは担任であり、生徒会顧問の小清水だった。カメラを向けているのも生徒会の襷を掛けている二年生、橘黒姫の周辺だった。

 そこで理由に思い当たった。

 生徒会による『朝の挨拶運動』である。写真撮影は、生徒会広報紙の記事のために行われているのである。

 だとしても、写真を撮られることは危険だった。

 まだ、凡田には整形の痕が残っていた。凡田純一の偽装に従って、髪を出来るだけ切らず、フレームの厚い眼鏡で隠していた。一応、偽装経歴上は小学生の頃に交通事故に遭ったことになっていたが、疑念は避けるに越したことはない。

 凡田は小清水から距離をとり、人波に紛れ校内へと侵入した。


 日中。

 凡田に友人はいない。学校ではほとんど会話することなく一日を過ごしていた。

 目立たないこと。それは凡田の望む姿だった。

 誰の敵にもならず、誰の味方にもならず、誰の意識にも上らない。学校内のコミュニティにおいて凡田は己を空気と同化させることに成功していた。

 だが、その平穏を手に入れるには多くの困難を乗り越えなければならなかった。

 高校。おそらくは人生のうちで最も自意識の高まる時期を迎えた集団の中に潜入するのである。どの集団に付き、どの集団を敵に回すか。スクールカースト入り乱れる、フランス革命下のパリもかくやという戦場である。

 凡田は細心の注意を払い、この難題に取り組んだ。

 凡田は千人近い学校関係者のほとんどを記憶している。生徒であれば名前と顔、身体的特徴、所属部活動・委員会活動、出身中学。教職員であれば学歴・経歴などが加わる。

 記憶すること自体は簡単なのだが、単独で情報を集めることが難しかった。あくまで凡田純一の偽装の上で怪しまれないように情報を収集しなければならない。幸い、同級生に関しては入学時の集合写真があったので、最初の三日で顔と名前を一致させるところまでは持っていけた。

 その情報を基に、各個人のリレーションを完成させていった。

 休み時間、クラス内で囁かれるゴシップは貴重な情報源だった。噂話に耳を傾け、情報を補足していく。ホワイトボードに貼り付けられた写真と張り巡らされた赤い糸。誰が誰と繋がり、コミュニティを作り上げているのか。誰が何に関心を持ち、それを避けるためにはどうすればいいのか。

 脳内のホワイトボードに貼り付けられた写真群、そこに張り巡らされた赤い糸。

 精度の低い雑音の集合体から、身を守るための情報に構築するのに、工作員としての情報処理能力が役立ったのは言うまでもない。


 放課後。

 凡田はいつも通り、『寄り道』をするために街中にある商業施設へと向かった。

『帰宅部』という偽装の裏付けとするためだが、一方、監視者があった場合、尾行を困難にするためでもあった。

 生徒たちの群れに紛れ、凡田は西門から駅への下り坂を歩いて行く。

 前髪の奥から通りを観察する。行き交う車の車種、ナンバーを一台一台、確認していく。

 角に停まっている車を見かけ、緊張が高まった。

 見覚えがあった。双輪ナンバーのステーションワゴン。白の車体に『双輪販売』の社名と電話番号。背広姿の二人組が乗っている。車は低速でゆっくりとこちらに近づき、ドアが急に開き、自分の体は車内に押し込まれて……。

 危機感が見せる幻覚を何とか振り払い、凡田は平然と歩き続けた。

 見覚えのあるのは当然である。ここは数万人の生活圏内なのである。あの車を所有する会社は一般家庭に分冊辞書を販売する企業で、きちんと登記もされている。

 凡田は動揺を微塵も外には出さず、そのまま通り過ぎた。

 監視者たち(もしいるとするならば)に、こちらが警戒していることを知られてはならない。普通の男子高校生としての偽装を徹底しながら逆監視を行わなければならない。一挙手一投足が偽装通り、『優柔不断で臆病な男子高校生』でなければならない。

 この『双輪ショッピングアーケード』はそれに適していた。凡田が行きそうな書店、玩具店、ホビー系リサイクルショップが出店しており、かつ込み入っており、死角も多い。満足な尾行は難しいはずだった。

 凡田はエスカレーターに乗り込んだ。二階へと上がり、着いた瞬間、財布に現金があるかどうか確認し、ないとわかると一階のATMに向かうため、今度は下りのエスカレーターへと乗り込んだ。

 尾行者はない。こちらの急な行動に反応する人間はいない。

 尾行者は用心深いか、あるいは、そもそも存在しないか。

 凡田は書店へと向かった。

 表向きは本日発売予定のコミックス『くれたんらばー』を購入するという偽装上の理由があり、偽装の範囲内で警戒を行うことが出来る。

 なお、凡田純一はネット通販を利用しない。

 ネット上に痕跡を残さないためである。ネットに上げられた情報は各情報機関に筒抜けである、という前提のもと凡田は行動している。そのためにネットを利用しない理由を用意した。時間指定を行わず、不在票をあえて入れさせたのもその一環である。

 そして、凡田純一の優柔不断な性格が役に立つときが来た。

 店内に入り、平積みとなっているコミックスのコーナーへと近づく。

『くれたんらばー』五巻を目視する。少女がきわどい格好をしているカバーイラストである。

 凡田純一は偽装通り、購入を躊躇した。ちょいエロコミックを買っているところを知っている人間に見られたくないのである。凡田はそういう他人の目を気にする男子高校生なのである。

 機を窺うふりをして、奥の参考書のコーナーへと入る。

 不用意に近づいてくるものはいなかった。私服警備員の柴田さんがマークについただけである。

 去年の段階で凡田は彼の警戒対象になっていた。あえて不審な行動を見せつけることで、凡田の周囲に注意を払わせているのである。

 定点観測者がいる場合、その地域での作戦難易度は跳ね上がる。彼らは異物を即座に発見する技能を持っている。もし、凡田を尾行している者が不審な行動に出れば、柴田さんが気付くはずであり、反応があるはずである。

 しかし、不審者は凡田だけであった。

 レジがアルバイトの大学生に代わったところで、何も買わずに書店を出た。

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