第五十八話 《邪神官ノーツ》

 都市アーロブルクの中央部には、領主であるガランドの豪邸があった。

 この都市の中で間違いなく一番巨大な建造物である。

 ガランドは民に家を眺められることを嫌っており、豪邸は高い壁に覆われており、周辺には常に衛兵が徘徊している。


 そのガランド邸の地下室にて、ガランドは二人の部下を連れ、一人の青年と対峙していた。


 青年は青黒い髪をしており、整った顔立ちをしている。

 一見、穏やかな細目が印象的な、優し気な美丈夫であった。

 ただ、何か見る者を不安にさせる、独特な妖しい雰囲気があった。


「ノ、ノーツよ……儀式の準備は、できたのだな?」


 ガランドが聞けば、青年は静かに頷く。

 彼は王国中を騒がせる《人魔竜》の一人、《邪神官ノーツ》本人であった。

 ガランドに取り入り、現在彼と協力関係にあった。


「星辰は揃った。上位界の瞳は遠い。子羊は群れ……精霊達は、明けを待たずに唄いだす。砂を呑み、枯れ枝を抱いた少女は、眠るためにまた目を覚ますのだろうか? 醜き冠の錆は、イデアによって継がれるものであると知っていたのに? 返す刃には、誰の顔が映っていたのだろうか? 否、それが我らの悲願であるのなら……」


 ノーツはその美声で言葉を紡ぐ。

 それは何かの詩のようなものであったのだろうが、ガランド達には全く意味がわからなかった。


 ノーツはガランド達へと目を向けて薄目を開け、彼らの困惑している素振りを観察しているようであった。

 視線を受けた三人は、ぞっとするものを覚えた。

 身体が内から冷え、得体の知れない不快感が込み上げてくるのを感じていた。


 部下の一人が、恐々とガランドの顔へ耳打ちする。


「ガランド様……この男は、少し不気味過ぎます。今からでもお考えを……」


「今更降りることなど、できるものか……! それにワシは、この男の力を借りて王になるのだ……!」


 ガランドは脂肪の垂れた醜い顔を青褪めさせ、強欲な笑みを浮かべていた。


「ご安心を、領主殿。準備は整ったということです。この都市アーロブルクという大きな祭壇を用意してくれたことに、感謝いたします。これで私は……代々の悲願であった主を呼び戻し、真の信仰を忘れて権威を貪る、愚かな豚共を滅ぼすことができます」


 ノーツは口を小さく開き、ガランドへと笑みを向ける。


「私は権力が欲しいわけではない。ただ、世界を……恐怖神の御力により、あるべき姿へと戻したいだけなのです。ですから、約束通り、貴方を王にして差し上げますよ」


「そ、そうか……ならばよいのだ、ならば……! フフ……このワシが、王か……!」


 ガランドが低い声で笑う。

 その笑いを、部下の二人は不安気な顔で眺めていた。


「領主殿よ、主の帰還を前に、貴方に一度聞いていただきたい話があります。遥か昔……今より五千年前、今の世とは比べ物にならぬ程に、魔物や魔王による被害が凄惨でありました」


 ガランドの笑い声が落ち着いてから、ノーツはゆっくりと語り始めた。


「人々は救いを求めて祈り続けました。か弱き者達の何代にも続く祈りの果て……その声に応じ、海より緑の、偉大なる大きな巨人が現れました。巨人は恐ろしい鬼の仮面をつけており、いくつもの腕を持った姿で壁画や石板にその姿を残しています。巨人は恐怖神ゾロフィリアと、その名で語られております」


 ノーツが淡々と語る。


「ゾロフィリアは数多の魔王を滅ぼし、人々に平和を齎しました。それだけでなく、平和になった世界で人同士が争うのを止めに入ることもありました。そう、魔王という敵がいなくなれば、いずれ人同士の争いが起きることをゾロフィリアは知っていたのです。そしてそれは、きっと綺麗ごとだけでは通らないことも。そう、その恐ろしい仮面は、愚かな人々を、恐怖という鞭によって諫めるためのものでした」


 ガランドはノーツの信仰する神に内心興味はなかったが、作り笑いを浮かべてその話を聞いていた。

 機嫌を損ねれば、何をするかわからない男だった。


「しかし……ああ、なんと愚かなことか。平和ボケした国々は、やがて、ゾロフィリアを疎むようになったのです。私の祖先に当たるゾロフィリアに仕える神官の一族は……かつて救ったはずの国の王族の騙し討ちによって虐殺に遭い、ゾロフィリア自身も、封印されてしまったのです……」


 ここまで無感情な語りであったが、言葉に段々と怒りが込められる様になってきた。

 不穏なものを感じ始めてきたガランドの顔には、脂汗が浮かび始めていた。


「それだけに飽き足らず……奴らは自身らの行いを正当化するため……歴史を歪め……我が一族らに汚名を着せ、ついには救世の神であったゾロフィリアを邪神と宣う様になった! そしてあれから二千年……今なおゾロフィリアを信仰する者は、どの国においても惨い拷問の末に殺されるのです!」


 ノーツの腕に力が込められ、彼の手にしていた杖がへし折れた。

 憤怒のためか顔に深い皺が寄せられ、悪鬼の様な形相と化していた。

 目からは、血の涙が滲み始めていた。


「奴らの罪……何代跨ごうとも、決して薄れるわけがない! この歴史も、二度と繰り返してよいものではない! 過去は間違いだった! 甘かったのだ! 人間は、知らぬ痛みと恩に鈍感な、欲を貪るだけの豚に過ぎない。選ばれた特別な人間にのみ権利を与え、それ以外は家畜として管理すべきなのだ! それだけが、豚に永遠の啓蒙を与えて人間たらしめ、世界を導くための唯一の方法なのだ! 封印より目覚めたゾロフィリアは、真の恐怖を持って世界を支配するだろう!」


 声を荒げるノーツを前に、ガランドは呆然と大口を開けて硬直していた。

 ガランドも、ノーツがよからぬものを呼び出して殺戮を齎すであろうことはわかっていたが、ここまでぶっ飛んでいるとは理解していなかったのだ。

 配下の二人は、あまりの恐怖のため、互いに抱き合って震えていた。


 ノーツは折れた杖を床に捨て、ローブの袖で目の血を拭い、温和な笑みを浮かべる。


「わかってくださいますね……領主殿?」


 ノーツの問い掛けに、ガランドは固まった顔のまま二度、糸人形のように頷いた。

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