第三話「のぞみと『大人』」
「へー。それじゃあ無事に手術は成功したんですね。よかった」
「ええ」
のぞみは市立南図書館の常連である長岡というお婆さんと話していた。この南図書館が暇になる午後二時。来館者も少ないし、その少ない来館者も本を借りに来たというより勉強をしに来ていたり新聞を読んだりしているのでのぞみの仕事はない。だからこんなに話し込んでしまった。
この長岡というお婆さんは、先日本探しでこの南図書館を賑わせた張本人だ。旦那を通してレース物の本を探して欲しいとのぞみに依頼した長岡だったが、情報の行き違いでのぞみは競技であるところの『レース』に関する本を一生懸命探してしまった。しかしのぞみの友人の一言でそれが刺繍の『レース』であることに気づき、無事に越野安規子著、由川園子監修の『二人を繋げる橋』という本を長岡に届けることができた。
今日はそのお礼をしに、長岡は南図書館に来ていた。
「でも三十年前の本なんてよく覚えていましたね」
「この年齢になると昔のことの方がよく覚えているのよ。それに主人公の二人がちょうど私と彼女に似ていたからね」
『二人を繋げる橋』というのは二人の女子学生がレースを通じて絆を深めていく話。昔、手編みでレースを編んでいた頃は、複数人でそれを行っていた。そしてそれぞれを最後に繋げる。その作業は仕上げのとても重要な部分で、それを任せられることは信頼の証でもあった。
「私が転校してきた時に彼女が手芸部に誘ってくれてね。転校ばかりで友達作りが下手だった私にとって、彼女の存在はとても心強かったわ。そこで一緒のレースを作ってたのよ。最初はもちろん彼女が『橋』の部分をやってくれていたんだけど、私がまた転校することが分かったとき、最後の作品を繋げる工程を私に任せてくれたの。まだ全然上手くなかったけど、本当に嬉しかったわ」
その後も二人は手紙のやり取りを続け、それと一緒にレース編みも続けていったそうだ。
「もちろんこの本を読んだのはずっと後だったけど、すぐに彼女のことを思い出したわ。私たちももう随分年を取ってお互い連絡を取る機会も減ってしまったのだけど、彼女が今度手術するという話を噂で聞いて、どうしてもまた会いたくなったの。その前にこの本を読んでみたくなったのよ。もうレース編みができるほど器用ではなくなってしまったけど、あの頃の気持ちを思い出したくてね」
「長岡さんのその気持ちが、その方にとって大きな力になったでしょうね」
どうかしらね、と言って長岡は笑った。
「ずっと私がお世話になりっぱなしだったけど、彼女が『また会ってちょうだい』と言ってもらえる存在であったことは誇りに思うわ」
年を取っても気品と礼儀を忘れない長岡は、のぞみの目から見てもとても美しい女性に見えた。長岡の立派な白髪が、陽の光で綺麗に輝いていた。
「さて、のぞみちゃんにお礼も言えたし、そろそろ帰ることにするわ」
「そうですか。今日は早いですね」
長岡はいつもなら三時ぐらいまでこの図書館にいる。
「予報だと、夕方から大雨になるらしいわよ。のぞみちゃん、傘は持ってきてる?」
「そうなんですか?傘は一応折りたたみがロッカーにありますけど」
「そう?でも雷雨になるみたいだし、折りたたみの小さい傘じゃ濡れちゃうかもね。もし雨が激しくなったらタクシーでお帰りなさいね」
そう言って長岡は白い日傘を差して図書館を出て行った。長岡は時々本当に自分のお婆ちゃんかのようなことを言う。のぞみはそんな風に言われるのがたまらなく好きだった。
それから二時間後の午後五時。長岡の予想通り大雨が降ってきた。夏特有のゲリラ豪雨のような大雨だ。こんな大雨だと図書館に来る人などいない、と思うが本当はその逆。雨宿りの場所を求めて来る人が多いのだ。特に急ぎの用がない人にとっては、座って雨をしのげるしその間の時間潰しで本も読めるしで、図書館はとてもいい場所なのだ。しかし図書館側から見たらあまり歓迎できるものでもない。そういう人は大抵傘を持っていないのでびしょ濡れなのだが、南図書館の床は石のため、あまり濡れていると滑って転んでしまうこともある。それに濡れた手で本を触られると本が傷んでしまう。だからといって入るな触るなとも言えない。雨宿りで来るのは一向に構わないし、地域密着型の南図書館としてはみんなの役に立てるのは嬉しい。だから床が濡れた時のためにモップをカウンターに準備しておき、また酷く濡れている人のためにタオルを貸し出している。
今日も貸出返却作業はこの時間のパートナーである佳に任せて、のぞみは濡れた床にモップをかけたりびしょ濡れの人にタオルを貸したりしていた。
「雨がひどいですねー。良かったらこれで拭いてください。風邪を引くと大変ですから」
本が濡れるのを避けるためだが、今の時期は館内に冷房をかけているため、濡れたままでいると風邪を引く恐れがあるのも事実だ。のぞみが一生懸命モップを掛けている姿を見てある程度水分を落としてから入って来てくれる人もいるが、ハンカチなどを普段持ち歩いていない男子学生などはそのまま入ってきてしまう。
そして今も一人の男性が入ってきた。ショルダーバッグを傘のように頭の上に乗せていたようだが、それが全く無意味なほどびしょ濡れだった。車に水を跳ねかけられたのか、それとも水たまりで転んだのかというくらいに濡れていた。そしてそのまま入ってこようとしていた。
「ちょっと待って!」
そのまま入ってこられると床や本が濡れるどころか他の来館者の迷惑にもなりそうなので、タオルを持って行くまでその場で待っていてもらおうと思ったのぞみ。しかし慌てていたせいで声のボリュームを間違え、大声を出してしまった。
静かな図書館にのぞみの声が響く。みんなの視線と佳の笑いをこらえた顔の急に恥ずかしくなり、小走りでカウンターに積んであるタオルをもって自分で呼び止めた男性のところへ持って行く。しかしやはり慌てていたからか、一枚でいいのに何枚か重ねて積んであるタオルをそのまま持っていってしまった。そして小走りで行ったせいで一番上のタオルが跳ねて床に落ちてしまう。
「あっ!」
と言って、タオルを踏まないように変な避け方をしたのぞみは、体勢を立て直せないままその男性にぶつかってしまった。
「きゃ!」
「ぉとと……。大丈夫?」
その男性の胸に顔を押し付けるような形でぶつかったのぞみ。幸いにもその間にタオルがあったため、どこも強くぶつけることはなかった。しかし周りからはよく分からない「おぉー」という声が上がっていた。
更に顔が真っ赤になったのぞみは「これ!これで雨を拭いてください!本が濡れちゃうんで!」と言ってタオルを全部その男性に押し付けた。
本来ならこんな言い方はしないのだが、慌てていたせいでつい言葉を選び損なってしまった。それにさらに慌てたのぞみは、そのまま控え室に引っ込んでしまう。
それから十分後。
カウンターで忙しく返却処理を行っている佳の後ろに申し訳なさそうに立つのぞみ。
「わっ!のぞみさん、いたんですか」
「ごめんなさい……」
まるで『うらめしや』とでも言うように小さく暗い声で謝る。
のぞみは、本来なら休憩時間はもっと後なのに自分だけ早めに休憩を取ってしまったこと、それにあの事態を収拾せずに逃げてしまったことを申し訳なく思っていた。
「佳ちゃんもこのあと休憩していいから」
「いいですよ。気にしないでください」
佳がにっこり笑う。
出会った頃は落ち着いた出来る司書さんというイメージだったが、そろそろ付き合いも長い佳はのぞみのこんな姿を何度も見ている。そんな時は、のぞみに悪いと思いながらもとても可愛いと思ってしまう。佳よりも小さな身長がさらにその可愛さを増し加えている。
「ところであの男性はまだいる?」
「さぁ、見てないですけど。仕事してたんで帰ったかどうかも分かりません」
「うっ」、と言葉を詰まらすのぞみ。こういう時の佳は確信犯だ。
「タオルは返してくれましたよ。使ったのは一枚で、それだけは持って行ってました。まだ返ってないということは、まだ居るのかもしれませんね」
「そうね」と言いつつ、タオルをちゃんとカウンターに返す人もいれば適当に置いていってしまう人もいるので絶対ではない。
「これ本棚に戻す分でしょ?戻すついでにちょっと見てくるわね」
そう言ってのぞみはブックトラックを押して本棚を回って行った。たまに「あ……」と言う人もいるが気にしない気にしない。
そして本を本棚に戻しながら館内を回っていると、二階の窓際の席で座って本を読んでいる男性がいた。顔ははっきり覚えていないが、タオルを持っているしあの鞄には見覚えがあるのでたぶん間違いないだろう。
「あの、すみません……」
のぞみがそう答えるとその男性も振り返り、そして『ああ』というような顔をした。
「先程はすみませんでした。ぶつかったのに謝りもせずに失礼なことを言ってしまって……」
「別にいいよ、そんなこと。それに何か失礼なこと言われたっけ?俺」
「い、いえ。別に!」
気にしていないなら良しとしよう。
「タオル、もう必要なければ預かっていきますが……」
「あー、うん。もうちょっと」
「あ、はい。分かりました。ではどうぞゆっくりしていって下さい」
そしてその後もその男性は色々なところに場所を変えながら本を読んでいた。まだ雨も強いままなので弱まるまで待つつもりなのかもしれないが、迷惑をかけた相手がずっと同じ空間にいるというのはのぞみとしては少し落ち着かない。
そして結局閉館時間の八時までその男性は図書館に居続けた。
「すみません。そろそろ閉館となるのですが……」
佳がその男性に声を掛けた時には、もう館内に残っている利用者はその男性だけだった。
「え?もうそんな時間ですか?」
そう言って慌てて腕時計を見る男性。用事があった訳ではないが、ここまで長居するつもりのなかったのだろう。
「そっかー」と言って本を閉じる男性。
その男性が持っていたのはアルフレッド・マーキュリー著、古川淳訳のSF小説『紅の海』の上巻。この本は全三巻からなる長編小説だ。
「あの、これ借りって言ってもいいですか?」
「はい。いいですけど」
ここは図書館なのだから当然だ。
「南図書館のカードはお持ちですか?」
「あ、いえ。ないです」
「じゃあ作るのに少々時間が掛かりますがよろしいですか?」
できれば閉館間際にこんな仕事はしたくない佳だったが、ダメとも言えないのでマニュアル通りに対応した。
「はい」
心ではガッカリしながら「じゃあカウンターにお願いします」と言う佳。
その間、のぞみは着々と閉館の準備をしていた。窓の戸締りを確認し、空調の電源を切り、正面玄関の扉の片方を固定する。そのついでに夜間返却ボックスの返却口を開けに行く。開館時間は本をそこに入れないように封鎖してある金具を回収する必要があるのだが、雨の日は大変。傘を差すほどの距離でもないし、それに傘を差してしまうと手元が暗くなって作業しにくい。今日ものぞみは傘を差さずに走って行って、急いで金具を取り外してきた。
そして館内に戻ってきたところで、ちょうど男性が帰っていくところに出くわした。本を一冊鞄に入れていたので、無事に借りられたようだ。しかし貸出用のタオルをまだ首に掛けたままだった。佳も貸出カードを作ることに集中してタオルまで目が行かなかったのだろう。
「ご利用ありがとうございます。タオル、お預かりしますよ」
そう言って手を出すのぞみ。そこで男性もタオルを返し忘れていることに気づいたようだ。
「あっ」と言って首からタオルと取りのぞみに返す。
「帰りも気をつけて。風邪など引かないようにしてくださいね」
そう言って小さく頭を下げるのぞみ。
「君も雨の中で転ばないように気をつけなよ」
そう言って少し笑いながら男性は帰っていった。
のぞみはその後ろ姿を見送りながら固まる。
君……?
「ねぇ佳ちゃん!今の人、本借りて言ったでしょ?何歳か分かる?」
いきなり来てそんな質問をするのぞみに驚いた佳は、情報入力途中の画面を慌てて見た。
「あー、えっと……、二十一歳です」
「二十一歳!?」
大きな声をあげるのぞみ。
それに驚く佳。だが佳にはのぞみの考えていることが全く分からない。
「……はい。大学生です」
「私より五歳も年下じゃない!」
またのぞみの声が図書館に響き渡った。
「ねぇ茉理さん。私ってそんなに子供っぽいですかね?」
その夜、落ち込むのぞみを食事に誘った佳は、一緒に茉理にも声を掛けていた。
「ねぇ、佳。『久しぶりに一緒に飲みましょうよ』って声を掛けてきた結果がこれ?」
茉理がのぞみの方を指差しながら言う。
「すみません茉理さん!のぞみさんの方から『今日は飲もう』と言われたんですけど、酔ったのぞみさんは私だけでは到底……」
普段ののぞみは決して面倒くさい性格ではない。むしろ周りに気を遣う方だ。しかし酒が入ると変わる。特に落ち込んでいる時に酔うとちょっと面倒くさい。
「ずっとおかしいとは思ってたんですよ。やけに馴れ馴れしいなーって」
「誰の話をしてるのよ」
「北橋大祐(きたばしだいすけ)、二十一歳。まだ大学生ですよ!」
まだ怒っているのぞみは、相手の名前まで完全に覚えてしまった。
「私の方が五歳も年上なのにタメ口で話してくるし」
「あれ?タメ口だったんですか?私にはちゃんと敬語使ってましたよ?」
「う……、うわーん」
茉理に抱きついて泣くのぞみ。
「こら、止めを刺すな」
「あ、すみません」
茉理はのぞみの頭を撫で、佳はそんなのぞみを見ながら可愛いと思いつつ一応謝った。
ちなみに佳は二十二歳。
のぞみは自分の身長が低いことを気にしている。
茉理から『女の子はそれぐらいがいいんだよ』と慰められることである程度納得してきたが、子供に見られるのはとても嫌う。しかも年下に子供扱いされた日にはこんな風になってしまうのだ。
髪を短くしたり、パンツルックにしたり、時にはスーツを着たりして大人化計画を試しているのだが、なかなか上手くはいかないようだ。
「ほら、のぞみさん。今日はたまたま不運が重なっただけですよ。いつもなら誰が見たってのぞみさんは立派な大人ですって」
「そうよ!今日はたまたま!」
そう言ってガバッと起き上がるのぞみ。
「私はもうお酒だって飲める大人なんだから!」
そう言って中ジョッキに残ったビールを一気に飲む。しかし勢い余って口の端からこぼれてしまう。
二十一歳だってお酒は飲めるよ、心の中でツッコミを入れた二人だったが、のぞみのために黙っていた。
「ああ、のぞみさん。こぼれてます」
「まったくしょうがないね」
そう言って茉理がのぞみの胸を拭いてあげる。
「ねぇ、茉理さん。茉理さんもそう思うでしょ?」
今日ののぞみは今までと違ってとても面倒くさい絡み方をする。
茉理はやれやれと思いながら『うんうん』と頷く。
「そうそう。のぞみは立派な大人だよ。こんな大きい胸をしてるんだから、いい女だって」
「その胸は私も羨ましいと思います」
のぞみがもう一つ気にしていること。それは背が低くて童顔のくせに大きい胸。
それをのぞみが気にしていることを知りながら茉理はそんなことを言った。こんな面倒くさい絡み酒の相手をさせられているのだから、これぐらいは楽しませろということだ。
「茉理さんのバカー!」
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