第51話 東山亮は (終)
七月の終わり。
遠くで伸びる入道雲と、青い空を横切る一条の飛行機雲。いったい何chサラウンドだよってレベルに全方向から打ち付けられる蝉時雨。肌にまとわりつくような湿気と、それをものともせずに最速を競い合う自転車に乗った小学生。
もう、すっかり夏である。
諸々の手続きを役所で済ませてから、ぶらぶらと散歩をする。
なんの変哲もない日常が、繰り広げられていた。
忙しそうに走るシャツを着たサラリーマンに、公園で長話をする主婦と蝉取りをして遊ぶ子供。夏期講習帰りなのか、手を繋いで歩いている高校生。
そんな風景の中で、空を衝くような音がした。少し間を開けて今度は二度。車のクラクションだ。
「……こんなところで、奇遇ですね」
「奇遇ね」
横付けされた車のウインドウを下げて、久瀬先輩が顔を見せる。
「乗ってく?」
「ありがたく」
言って、助手席のドアを開けて車に乗り込んだ。汗ばんだ肌に、車内に充溢した冷気が気持ちいい。
久瀬先輩は俺がドアを閉めるのを確認すると、アクセルを踏み――。
「あー、やっちまっ……ふおっ」
臓腑を押しつぶされそうな感覚。高く唸るエンジン音。しまった、すっかり久瀬先輩のドライビングが荒いことを忘れていた。不覚。
「どうなの、東山くん?」
「な、何がですか!」
「うまくいってる? 同棲の準備」
「いってます、よ! 明日からです!」
いろいろと手続きが大変で二週間かかってしまったが、それでも大方の手続きは終えて後は引っ越し作業のみである。
それを聞くと、久瀬先輩はさらにアクセルを踏み込む。なんで法定速度でこんな強烈なマイナスGくらうんですか……。
「そう、楽しいと良いわね」
「あの、久瀬先輩、マイナスGが……フヒっ」
まずい変な笑いがフひっ。
「幸せにしなさいよ、ちゃんと」
ふと、彼女の声が薄く湿り気を帯びるのを感じた。視線を横に向けるも、そこに
は狂気的なまでに優し気な表情を浮かべた久瀬先輩がいるだけ。こんなスピードを出しながらする顔じゃない。と思ったが、メーターを見たら四十キロだった。細工してるんじゃないの……。
「……しますよ。その為に生きてるんですからッ⁉」
「時々キザな台詞を臆面もなく言えるところ、尊敬してるわよ」
「ちょ、スピード上げないで! そもそも先輩、受験勉強どうしたんすか!」
「指定校推薦よ。成績オール五だもの」
「マジっすか」
加速していく車は、昼下がりの大通りを爆走していく……法定速度で。
意識を手放すまいと窓の外に向けると、左右を流れていく景色がどこかノスタルジーを刺激する。成す術がないまま過ぎていくのを、ただひたすらに見ているだけ。しかし成す術を身に着けたころには、もう二度と見ることすら叶わなくなる。
きっと、いつかこの生きづらさを忘れる日が来るのだろう。
それは諦観であれ、受容であれ、忘却であれ、その日はいずれ来る。
だから、今はせめて目に焼き付けよう。
「……ねえ、存在に気づかないって何ですか?」
後ろから、おぞましいほど冷たい声音でささやかれる。ただでさえクーラーの効いた車内なのに、さらに温度が下がった気がした。
マイナスGで押しつぶされそうな臓腑がさらに収縮する。そんなに俺の内臓器官系
に大ダメージを与えたいのかなこの二人は。胃袋掴む的なノリだとしたら違うよそれ。
「いたのか、佐山」
「髪型を変えたのに気づかないのは許します。リップを変えたのに気づかないのも許します。メガネをかけているのに触れないのも許します。でも、ね! 先輩! 存在に気づかないって何ですか⁉ 初デートでやったら死罪ですよ! 玉袋ねじりますよ!」
「いたいいたいたたたたって佐山さんッ⁉」
ぐぎぎぎぎぎ。
後部座席からのヘッドレストを利用した首絞め攻撃のフィニッシュは下ネタだった。てっきり久瀬先輩が言ったのかと思って、運転席に視線を向けるも彼女は首を横に振る。
「東山くんにはツイッター検索履歴暴露の刑を言い渡すわ。大人しくミササギさんに幻滅されたら?」
「そんな変なもの検索してな……いで……す、……ごめんなさいユルシテ検索履歴は」
「脳味噌キンタマ野郎め……」
「どうしちゃったの佐山⁉」
まるでいつかの久瀬先輩だ。
「久瀬先輩に弟子入りしたんです!」
「そうよね、佐山さん。察しの悪い男は嫌われるわよね」
「ですです!」
察し、いい方だと思うんだけどなぁ。などとそんな反論を口にするわけでもなく、「さいで」と一言だけ呟いておく。なんかこの子たちテンション高くない……?
「ねえ、久瀬先輩」
「どうしたの明日から同棲生活始まるからウキウキな東山くん」
「………………」
まあ、それはいい。うん、実際すこしだけ新生活は楽しみではある。不安の方が大きいけどな。そう思う間にもどんどん風景は後ろに流れていく。疑問が看過できないほど大きくなって、口にした。
「………………これ、俺の家過ぎてません?」
がこっ。
……ギアが一段上にシフトされた。
「人生は、引き返せないのよ」
「待って次の曲がり角を左に曲がればまだ引き返せまアァッ⁉」
――グギッ。
「夢精はしちゃダメですよ、おやすみなさい」
首から不穏な音が響いて、身体が軽くなる感覚。最後まで残っていた聴覚が、佐山の無駄に甘い声を捉えて、それきり俺の記憶はない。
・・・
夏である。
夏と言ったら、なんだろうか。
流しそうめん。かき氷。神社のお祭り。花火大会。
むしろ、「夏」という概念が加われば何でもそれっぽくなる気がする。夏という
だけでそれは一瞬で消えてしまうような、とても儚く脆い、されど美しいものに思えてしまう。
けれど、そんなはずはない。
日々、人の関係というのは変わっていく。一瞬で消えてしまうものが尊いというのならば、それは生きている現在だってそう言えるのではないだろうか。
移ろいゆく日々の再演は、きっと叶わない。
それでも、人々が「夏」に妄執を抱くのは、まだ純粋であった日々の面影を見出せるからなのかもしれない。
学校は夏休みになり、自分の興味が赴くままに日々を過ごす。
夏休みの始まりは、手に入れたいものが沢山あって。けれど夏が終わっていくにつれて、手から零れ落ちたものの多さを知るのだ。
零れ落ちたものが積み重なって、それを階段にして大人になっていく。
それでも、ふと願うのだ。
まだ、未来が自分たちの手のひらに乗っかっていた日々を。
純粋にも、ここから何一つ零れ落ちることはないと信じていた日々を。
けれど。
大切なあまり、手のひらに乗るものを握りしめて。
握りしめれば握りしめるほど、次々と手のひらに在ったものは零れ落ちていく。
零れ落ちた大切なものは、その存在に気づいていなかったから零れ落ちたのではない。大切に思っていたからこそ、零れ落ちたのではないだろうか。
どう足掻いても零してしまうものはあるのだ。
だから。
せめて、この記憶が、誰かが握りしめるに足る美しいものであることを祈って。
「お兄ちゃん、右!」
「こう?」
「そこ!」
「違う! 右!」
「えー……」
「もっとクラーク像が向いてる方向だ!」
「あ、ミササギさんそういう出し方か! ……そんじゃあ、お兄ちゃんが寝るときに下にする腕の向き!」
「うつ伏せなんだけど⁉」
「あ、セミ」
「いやぁぁぁあああぁあああぁだぁぁァァアアァァあぁあぁっ」
「先輩って虫ニガテなんすね」
「たたたたたすすすうけっ!」
ドボン、と音がして、良く冷えた水が火照った体にしみ込んでくる。慌てて水面に顔をだすと、濡れて重くなったタオルがずり落ちた。
視界が、一気に晴れる。
宇宙まで覗けそうなほどの青空と、まるで絵画のような入道雲。そこにあったのだろう一条の飛行機雲は少しずつ藍に滲んで、その残滓が微風に流されていく。
「…………あー、…………楽し」
清流のせせらぎが、耳に心地よく流れ込んでくる。
停滞ではない、そのただ通り過ぎて戻らない流れ。そこから体を起こして、彼女らの方に視線を送る。ああ、よかった。仲良くなっている。
「亮! 罰ゲームは何が良い?」
「何がある?」
「私に嫌われる」
「絶対に嫌だ」
「じゃあ私と永住だな」
「悪くないけど、残念だが俺は恋愛が出来ないんだ」
「安心しろ、私もだ」
差し出される手を、迷いなく取って立ち上がる。
ふと、彼女と視線が交錯して、互いにふっと破顔した。
どこからともなく夏のにおいがして、掴もうとする前にそれは過ぎていった。風の通っていった方向に視線を向けるも、そこにはただ葉が生い茂る山々が連なるの
み。
「どうした?」
「いや、なんでもないよ」
視線を戻せば、リア充撲滅同盟の元メンバーと、それに溶け込むように智咲がいる。
久瀬先輩と佐山に強制連行された行き先は、キャンプ場だった。
少し前に、ミササギの本心を聞くために使った山のふもとにあるキャンプ場は、場内に清流があって、夏の隠れた人気スポットなのだ。
「お兄ちゃん、次は私の番ね」
「ああ……ほいよ」
智咲に目隠しを付けてやって、棒を手渡す。
今日は、親睦会ということらしい。わざわざ久瀬先輩と佐山が計画を立ててくれたのだからありがたい限りだ。
「……んじゃ、行きます!」
気合十分な声と共に、智咲は一歩ずつスイカとの間合いを詰めていく。現在は夏の定番、スイカ割りの最中である。
実はスイカ割りというのは、結構な情報戦である。とくに今回は「割った人が一番大きいのを食べれる」という謎ルールが適用されているので、嘘にデマにと非常に心が疲れる。セミ、結局いなかったし。
「智咲ちゃーん、右よ!」
「私の利き手の方向に十五度!」
「がんばれー、チッサー!」
俺の時よりみんな優しくないですか。
「…………フォースを信じるのだ」
彼女の耳に届くかどうか分からんが、とりあえず呟いといた。
たどたどしい足取りでスイカの近くまで行ってから、棒を高く掲げる智咲。
俺はてっきり彼女の性格を「大人しく、引っ込み思案」だと思っていたのだが、彼女も日々の中で変わったということだろう、今はどちらかというと快活な印象を受ける。
「てぇいっ!」
すこんっ。
棒は吸い込まれるようにスイカに命中するも、パワー不足だったからか、割れることはなかった。表面に少しだけヒビが入った程度だ。
「残念、惜しかったな」
そう呟く。
まあ、スイカ割りなんて、みんなでちょっとずつ割ってくものだろう。後でさりげなく大きいのを智咲に回してやろう――
刹那。
――照り付ける夏の日差しに包まれながら、スイカは爆散した。
「――――は⁉」
「すごーい、智咲ちゃんナイスー!」
「チッサーおめでとう!」
スイカの赤い果肉の破片が周囲に飛散していく。鮮烈なまでの赤色は、白い河原とのコントラストが驚くほど美しくて、でもそんなの意識する余裕ねえ。
「……私の腕も、鈍ってなかったな」
見れば、ミササギが対物ゴム弾ライフルを抱えていた。
「まさか、お前……」
「亮に撃った時の八倍の威力だ」
「とんでもねえ…………」
狙撃したんですか……。
「お兄ちゃん!」
「はい?」
視線を智咲の方に向けると、屈託のない、花さえ欺くような笑顔を見せてピースサインを送られる。……顔についたスイカの果肉が、シリアルキラーっぽくてなんか怖い。
「……おー、おめでとう」
まあ、喜んでるから、良かったの、か?
絵面のホラー感は置いておくとして、彼女があんな表情を見せるのは久しぶりだ。俺と暮らしていた頃も、あんな表情を見せるのは本当に稀だった。
一緒に暮らしていたはずなのに、少し離れただけでこうも変わってしまうものなのだ。
あの頃の智咲と、今の智咲は違う。変わってしまったことは少しだけ寂しい気もするが、それでも彼女は彼女だ。その在り方を尊重したい。
吹き抜ける風は水面を揺らし、遠くどこかの草木を薙いだ。
その風の行方を追おうとして、ミササギと視線がぶつかる。視線を外すこともなく、同時に外されることもなく、ただ微風が縫うように抜けていく。
「……」
「……」
空白。
口の端に微笑みが滲んで、それを合図に互いに視線を外した。
もしも。
俺が、いつか贖罪を叶える日が来たとして。
この生きづらさは、消えるのだろうか。
「……スイカ、爆散したな」
「そうだな」
「どうやって食べるんだ?」
「スタッフがおいしく」
「私たちの分はないのか……」
「爆散させたの凪だろ……」
きっと、消えないのだろう。
だから、俺は恋愛が出来ない。
こんな思いをする人を増やしたくはない。自分が感じてきた生きづらさを、また誰かに感じさせてしまうなんて悲しすぎる。
そうならないよう改善に努めたとしても、限界があるのだ。人間は未熟で、どうしても至らない部分が歪さへと変容してしまう。
ならば、一歩も踏み出さずにいるべきだ。
それでも。
せめて、彼女たちには、幸せであってほしいから。
「…………なあ、凪」
「ん、どうした?」
「夏だな」
「そう、だな?」
せめて、彼女たちだけでも、幸せにしたいから。
仰ぎ見た空はどこまでも青く、視界の端で清流が輝く。藍に浮かぶ雲はその背丈を伸ばしながら静かに微風に流されていく。
寂寥感と共に、訪れる空白。
でも、それはきっと証明したら終わってしまうのだ。
形がないからこそ、不確かで不安で、輪郭を与えて証明したくなってしまう。
まるで、思い出のワンシーンを写真に収めるかのように、目に見える形で繋ぎとめておきたくなるのだ。
それでも、失ってしまうものはある。
形あるものはいつか失われるのではない、形あるものしか失ったと気づけないのだ。
等しく、形のないものも失われていく。
だから、証明する必要はない。輪郭を与える必要もない。視認できる必要もない。
失うということは、確かにそこに在ったことの証左に他ならないのだ。
ならば、せめてそこに在る限りは。
――空白。
「……なあ、亮」
「ん、どうした」
「私、恋愛が出来ないんだ」
そう、彼女は俺にだけ聞こえる声量で呟く。
「俺もだよ、凪」
応えて、ほのかに彼女の体温を感じた。先ほどよりも少しだけ近づいて、横に立つ。
視線の先では、爆散したスイカをどうしようかと三人が話し合っていた。スイカの上半分は消し飛んだが、かろうじて下の方は残っている。それを久瀬先輩が拾い上げて、テーブルに乗せて包丁で切る。
少し離れたところから、その様子を二人で見ていた。
「恋愛が出来たら、どうなっていたんだろうな」
ふと、ミササギがそんなことを言った。
「どう、なんだろうな……分からない」
「私もだ。想像できない」
でも、と彼女は続ける。
「恋愛が出来なくても、別にいいんだ。出来なかったからこそ気づけたこともあったし、こうして皆に出会えた――だから」
俺の手に、静かに彼女の手が添えられる。ささやかな体温と、柔らかな指。深く握られることはないが、それでも確かに彼女の脈動が感じ取れる。
「――ありがとうな、亮。あの日、私の申し出を受け入れてくれて」
そう言って、彼女は微笑む。
あの日、俺たちはリア充を滅ぼすことを掲げて、手を組んだ。
それは、今も消えていない。
形を変えて、互いの生きづらさに立ち向かうために、こうして手を組んでいる。
「……こちらこそ。明日からも、よろしくな」
「ああ、もちろん」
どちらからともなく、談笑している三人の方に歩き出す。
添えられた手は離れて、僅かな体温の残滓だけが残っている。
山稜を越えて清流を渡ってきた夏の香りが、どこか胸の端を衝いて、ふと足を止めてみた。
いつか、失われると知って。
それでも、そこに在るものを慈しむのは――。
「亮のスイカ、無くなるぞー」
「ああ、今行く」
そう応えて、俺はまだ温もりの残る手を握りしめた。
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