第28話 佐山あかねはギャルっぽい(その4)


 ひどい虚脱感の中で、目を覚ました。


 枕もとの時計に目をやる。午後七時半、ということはおおよそ三時間眠っていたわけだ。昼寝としては丁度良いくらいの時間だろう。

 しばらく、ベッドにしみ込んだ自身の体温を楽しむ。普段ならこのまま二度寝でもしたいのだが、あいにくと今日は俺が晩飯当番なので起きなければならない。

 倦怠感を振り払うようにしてベッドから抜け出すと、キッチンでエプロンを付ける。

 寝起きのせいか、あまりやる気が出ない。まるで血でも抜かれたような感覚だ。

 とりあえず、今夜はチャーハンにしよう。


「……コツは冷や飯を使うこと、ってな」


 冷や飯を使うと、いい感じにチャーハンがパラパラになって旨い。具材にこだわりはないので、卵とネギ、ウインナーを冷蔵庫から取り出して、順にぶち込んでいく。

 最後に冷や飯を加えて、塩と胡椒、醤油で味を付けてさらに六分炒めれば男のチャーハンの出来上がりだ。


 親父が休みの時は親父が作るのだが、やはり血は争えない。親父もチャーハン信者であり、焼き肉のたれをぶち込むという暴挙に出たこともある。うまかったけどな。

 俺の分を皿に盛り付け、残りは親父の分としてフライパンに蓋をして放置。

 ようやく食べるときになって、制服のままだったとようやく気が付く。


 着替えようとズボンを脱いだ時、ゴツッ、と床が響いた。スマホでも落としたらしい。


 取ろうと視線を向けたところで、落ちた正体は久瀬先輩からもらった小型コンピューターだと気づく。精密機械をポケットに入れていたのは流石にまずかったか。

 壊れていないか確認するために開くと、即座にディスプレイが点いた。どうやら何事もなかったらしい、と胸を撫でおろしたところで、悪寒が背筋に爪を立てた。そのまま心臓を鷲掴みにして握りつぶされるような感覚に、自分の体温が急激に低下していくのを感じる。


「なん、だよ、これ」


 表示されているのはただの黒い画面。けれど、その黒には確かな濃淡がある。数秒ごとにノイズのようなものが混じり、人の声らしきものも時折聞こえる。


 恐らく、動画なのだろうと予想はつく。けれどそこ止まりだ。


 ただひたすらに不気味な動画は流れ続ける。言葉らしきものが聞こえるが、それはあくまで音としてしか認識されず、何を言っているのかは不明。


 誰かがいたずらでこの動画を流した?


 ハッキングだろうか。だが、これはネット回線になんて繋がっていない。データ共有はお互いが半径百メートルの範囲にいるときのみ通信を介して行うので、それができるとしたらミササギか久瀬先輩。

手動でデータを入れることもできるが、それは俺が身に着けていたからタイミングがない。

 となると、久瀬先輩とミササギがこの動画を送ってきている説が濃厚か。


『――――――』


 変にノイズがかかっていて、聞き取れないのがもどかしい。

 もしかしたら、カメラが間違って起動したのだろうか。それがたまたま俺の小型コンピューターと同期して、こうして映像が共有されている。

 その仮説は、瞬く間に打ち砕かれた。


『――――!』


 低く耳に留まり続けるような音。それと同時に金属音が二、三度響いて、沈黙が訪れる。

 けれど、音が無くなったわけではない。ささやかな衣擦れの音、荒い息遣い、それらが互いに補完し合って、ようやく俺の脳裏で像を結んだ。


「……やばい」


 本当の恐怖に直面した時、足は硬直するのだと、初めて知った。

 中学時代のあの記憶が何度も頭をよぎる。あの時は硬直したのは思考だけ。けれど、現在は違う。


 思考も、身体も、なにもかもが動かない。

 ただひたすらに、この動画が事実を突き付けてくる。

 今にも思考放棄して、小型コンピューターを閉じてやりたい。その意志にさえ体は応じてくれない。だめだ、だめだ、だめだだめだだめだ。


 大宮先生の発言のせいもあってか、思考の沼がいつもより深い。

 たとえ答えが出ていたとしても、それを答えだと認識するのを許さない。


「そう、じゃん」


 そうだ。これがいたずらだという説はまだ消え去ったわけじゃない。

 そうだ。これは俺のただの勘違いなんだ。

 そうだ。たとえヒーローぶって出て行っても、ベッドの上で悶えるだけだ。


 だから――――だか、ら。

 

ふと、考える。

 中学時代のこと。教室でのアレは、きっと合意の上のはずで。少なくとも彼ら彼女らは、あの時は幸せだったのだろう。

 

ふと、考えてしまう。

 ミササギが、久瀬先輩が、誰かに傷つけられている所を。強引に押し倒され、性欲の捌け口にされそうになってい――――――。




 走る。




 思考は衝動に追いつくことはなく、ズボンを穿きなおしながら自分の部屋からガンケースを持ち出して走る。


 玄関を開けるのももどかしく、アパートの階段を数段飛ばしで駆け降りた。

 走る速度と共に加速していく思考で、考える。速度は余分なものを吹き飛ばして、思考はよりクリアになっていく。


 半径百メートル以内。

 対象はミササギか久瀬先輩。

 時刻は七時四十五分、最終下校時刻の十五分後。

 まだ足りない。


 開かれた小型コンピューターのディスプレイにマップを表示する。マップ、と言っても点が二つしかない相対的な場所しか分からないマップ。


 けれど、それで十分。


 明滅するのは赤い点――久瀬先輩だ。


「待ってて、ください……!」


 相対座標を頼りに、久瀬先輩の現在位置を考える。

 久瀬先輩が最終下校時刻ギリギリまで残って勉強していたとすると、そこまで遠くにはいけないだろう。彼女の下校ルートは大通り付近までは俺と一緒なので、そこから学校に向かって遡っていく。

 ミササギにも連絡……いや、これに巻き込むわけにはいかない。危険すぎる。

 紅白の点の相対座標が近づいていく。目の前の角を曲がると、結論が出た。


「…………果樹園か」


 鬱蒼と生い茂る木々の葉は、来るべき夏に備えて一層葉の色を深め、故に月明りをことごとく吸収して奥にあるものを隠している。

 見れば、林は吸い込まれそうな闇を湛えてこちらに口を開けていた。陽はとうに落ちて、もはやその名残さえ見えない。

 ガンケースから対物ゴム弾ライフルを取り出し、初弾を装填する。いざとなったらコレで殴っても威力は十分だろう。手段を選んではいられない。


「怖気づくなよ、俺」


 闇というのは、本能的に恐怖を煽る。何が出てくるか分からない不気味さに思わず身がすくんで、ともすれば腰が抜けそうだ。

 果樹園はだいぶ前に使われなくなったらしい。管理の行き届いていない地面には、秩序なく雑草が生えていて、いくつかの木は既に朽ち果てていた。

 そこに、ひとつの小屋を見た。

 ささやかな、十数万程度で買えてしまえるようなプレハブだ。雨風をようやく防げる程度の簡易的なもので、その外観はひどく汚れて所々に草が巻き付いている。

 赤い点が指し示す座標とプレハブの位置はちょうど重なる。

 それを確認して、ポケットからスマホを取り出す。事前に打ち込んであった番号を確認し、発信ボタンの横に指を添える。


 もちろん、最初から自分一人でどうにかできる問題だとは思っていない。

 急を要する事態なら久瀬先輩を助け出す、その為にここに来た。けれど、犯人を確保するためには警察が必要なのは間違いない。

 状況を確認次第、警察に連絡。必要に応じて単独で突入。

 割れた窓から、中を覗き込む。

 おそらく事務所だったのだろうが、その面影は今はない。隅に収穫かごが積まれていて、蛍光色が暗闇でも認識できるくらいだ。

 明かりが、点いていない。

 底知れぬ不気味さに、思わず後ずさりしそうになるのをぐっと堪える。視線を巡らせると、デスクの陰に小さな明かりを確認する。ここからではよく見えないが、なにやら黒い影が蠢いているのが分かった。


「私のために、イメチェンまでしてくれたんだね。ありがとう」

「――――ッ!」


 暗い静謐をその一言が割く。声音は優しいが、その中にはおぞましい程の純粋な意思が入っていた。状況を正確に確認するために裏手に回る。

 なるべく音は立てないように意識するが、どうしても長い雑草が足首に絡みついてくる。どうか、どうか頼む。気づかれたら久瀬先輩がどうなるか分からない以上、ここで気づかれるわけにはいかない。

 その願いが通ったのか、無事に裏手に回り込めた。

再び覗き込む。そこにはガムテープで口と手足の自由を奪われた久瀬先輩。地面に倒れて仰向けになっている。そして、それに覆いかぶさるように動く壮年の男性。

 刹那。

 あの日を思い出すまでもなく、銃床で窓を破壊して突入。

 着地と同時に踏まれたガラスが砕け、それらの音をようやく知覚した壮年の男性が振り向く。一切面識はないが、普段は穏やかなのだろうその顔には浅く皺が刻まれていて、どことなく理知的な印象を抱く。


「だ、誰だ⁉」


 答える言葉はなく、ただ久瀬先輩に視線を送る。

 どうやら、服は乱れていても脱がされた形跡はない。よかった、女の子の服はゆっくり脱がせるもの、という彼女の意見は全面的に正しかったわけだ。なんてな、何も良いわけないだろ。

 久瀬先輩は、目尻に今にも溢れそうな涙を湛えて俺に視線を送る。だが、きっとまだ曖昧な像しか結ばれていないのだろう。どこか空虚な瞳がたまらなく悲しい。

 呆然としながらも、とっさに状況を把握したらしい男性が横に落ちていた鉄パイプを取ろうと手を伸ばす。金属音の正体はこれか。

 臓腑を内側から食い破りそうなほどの怒りが、思考を支配していく。


「ざけんな、よッ!」


 高く掲げたライフルの、銃床で彼の背中を叩きつける。少し沈み込むような手ごたえが、少しだけ俺を冷静にした。男性は一瞬だけうめき声を発して、それきりうずくまって悶絶している。しばらくは動けないらしい。


 近くにあったガムテープで彼の手足を縛り、そのまま放置して久瀬先輩のガムテープを対処する。

 焦って剥がそうとしても、久瀬先輩の肌を無駄に傷付けるだけだ。諦めて口元のガムテープのみをそっと剥がす。


「久瀬先輩、俺のこと、分かりますか?」

「…………東山、くん?」

「はい、無事そうで、本当に良かったです」

「……ごめんね、迷惑かけちゃって」

「…………いいえ……いいえ……!」


 こんな状況になって、一番傷ついているのは彼女のはずで。それなのに、何故俺が慰められているのだろうか。そんな、こと、考えても、仕方がないのに……!


「無事で、本当に、本当に良かった……!」


 目尻から伝う涙を、熱いと感じないほど顔が熱を帯びている。それを久瀬先輩はひたすらに優しく見つめていた。そうしてしばらくして、彼女の手足を縛るガムテープをはがそうと近づく。


「……ごめんね、こんなことになって」

「いいんです、久瀬先輩は悪くないんですから」


 言って、彼女の手首に幾重にも巻かれたガムテープを慎重にはがしていく。


「この人ね、私の中学の先生なの」

「…………それって、あの盗撮の人ですか」


 そう、と彼女は首肯する。

 教師でありながら、盗撮画像を売買し、あまつさえこうして教え子を強姦未遂という行動に至った。その事実だけでも、全身の血管を怒りとも呼ぶべきものが駆け巡る。


「でね、彼がストーカーしているのに気が付いたのは、ちょうど髪型を変えたくらいかな」


 ふと、底知れぬ穴の、暗闇を見た時のような感覚。


「…………まさか、これ――――俺の、せいですか」


 彼女、久瀬先輩が髪型を変えたのには、少なからず俺が寄与している。

 ならば、彼女がこのような事態に逢ったのは。


「いいえ、それは思い上がりよ」


 その思考を断ち切ったのは、このような事態に陥ったその被害者のはずの、久瀬先輩だった。彼女は優しい声音でなおも続ける。


「私は、私自身で彼に立ち向かうと決めたの。今日のこれも、予想のうちにあったのよ。そして、もし万が一こんな事態になったら東山君とミササギさんに助けを呼んでもらおう、って。まさか直接来るとは思わなかったけれどね」


 その悲し気な瞳を、どうしても直視できない。

 けれど、そう彼女が選択をしたのなら。それを否定するのは彼女に対する侮辱だろう。

 久瀬先輩は、真っ向から中学時代の教師と戦おうとした。

 その人自身の選択は、誰にも奪えない。たとえ、本人が悔いていたとしても。

 彼女自身の選択としてそれを選んだのだから、俺は、同じ同盟に所属する人間として、肩を並べてその選択を後押しするのがいいだろう。

 それと同時に、俺も感謝しないといけない気がする。


「あの、久瀬先輩」

「どうしたの?」

「俺の、中学時代の話ってしましたっけ」

「うーん、盗んだバイクで走り出してた?」

「世代じゃないでしょう俺たち」


 はは、といつもより少しだけ口角を上げて笑ってみる。久瀬先輩の瞳にはまだ涙の残滓が残っていて、それが割れた窓から差し込む月明りで照らされた。

 手首に巻かれたガムテープは残り半分ほど。だいぶ厳重に巻かれていた。


「まぁ、いろいろと、その、……ありがとうございます」


 一瞬、久瀬先輩の目は見開かれたが、すぐにいつも通りの柔らかな微笑みを取り戻す。

 何はともあれ、久瀬先輩を助けることが出来て良かった。心の底から、そう思う。

 もし、こんな状況でなければ、俺は泣き縋りながらひたすらに謝罪と感謝の言葉を言い続けるだろう。その言葉はいずれ、落ち着いたときにゆっくり言っていけばいい。


「――――あ、」


 瞬間、久瀬先輩の両目が恐怖で見開かれる。硬直ともいえる静寂の間隙に、彼女の両目を月明りが青白く照らす。透き通るような白い肌と、少しだけ茶色の黒目に薄く反射して、像をようやく結ぶ程度のシルエット。


 それを、認識するより早いか。



 音もなく振り下ろされた金属の棒が、俺の後頭部を確実にとらえる。意識が硬直。次第に視界が暗転していき、最後に見たのは久 瀬 先 輩 の   眼   に   映 

 


 

 

 


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