四の話

 温もりに包まれた穏やかな時間は、春雷が空を裂くがごとく終わりを迎える。

「この、間抜け!」

 頭に直接響くような声が降ってくる。

「呑気に朝まで眠るなど、馬鹿なことを! 夜明け前に持ち場に戻るのが当たり前だろうが!」

 頭に響く声でわめき散らすのは、旅籠屋の女将だ。

「この、恩知らず! お前を育ててやったのは誰だと思っているんだ!」

 李花にとっては、日常茶飯事だ。

 何かにつけて、女将は男のような言葉遣いで李花を罵り、力で捻じ伏せようとする。女将は客にはごまを擂るが、下で働く者には容赦がない。お前以上の働き手はいくらでもいる、は女将の口癖だ。

 李花はあらがわない。土下座し、申し訳ありません、と精一杯声を張る。それでも許されないことは身をもって知っている。だからといって、何があっても謝らなくてはならない。

 女将は李花の髪を引っ張り、物を引き上げるように持ち上げる。事実、大柄な女将にとって、小さな李花は物同然だった。

 このまま引きずられて行くのか、と李花が諦めたとき、包まれるように体を支えられる。

 強い力ではないのに女将はひるみ、その手から、李花の長い髪がするりと落ちる。

「手荒にも程がありますよ」

 耳に心地良い低い声が、やんわりと女将を止める。

 離されてもなお、きりきりと痛む頭を、李花は優しく撫でられた。

 大きく、温かい手。なめらかな感触を、李花は一晩経った今でも覚えている。

 簪職人の未明びめい。李花に、何もしないと言いながら、同じ布団で睡眠をとった。

 未明は李花を抱き上げ、立ったままの女将と対面する。李花は女将が怖くて顔を上げることができない。

「女将さん」

 穏やかに、しかし芯は強く、未明は言葉を紡ぐ。

「李花におひまを出しては頂けませんか」

 李花は黙したまま唾をのんだ。

 お暇。つまり、この旅籠屋を辞めること。

「この子を、妹として育てます」

 李花は黙したまま息をのんだ。



 しばしの間、沈黙が訪れる。

 それをやぶったのは、あきれたような女将の溜息だった。

「一晩過ごしておいて、何を仰るのやら」

「色々と誤解があるようですね」

 未明は足で掛布団を蹴飛ばす。李花は思わず未明にしがみついてしまった。ごめんよ、と未明が囁く。

 汚れのない白く綺麗な敷布団を目の当たりにした女将は、李花の着物の裾を大きくまくった。

 膝頭まであらわにされ、李花は小さく悲鳴を上げる。思わず動かしてしまった脚が図らずも女将に当たってしまい、女将に頬を叩かれる。

「お前!」

 李花は未明の腕から落ち、床に尻餅をついた。

「仕事を怠けやがって!」

 李花の胸倉を掴もうとする女将の手を、未明は払いのける。床に膝をついて、李花を抱き寄せた。

「李花、おいで」

 小枝のように痩せてみすぼらしい李花の脚が見えぬように、裾を正してくれる。

 李花は顔を上げると、未明と目が合った。

 未明は慈しむように目を細め、壊れ物を扱うように李花をかいなに収める。

 寝起きで乱れた未明の長い髪は、朝の光を受け、李花には金色のようにも銀色のようにも見えた。

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