第18話 公開処刑

 カルコリスの中心部に建てられた、巨大な鉢のような円形競技場。ここは、カルコリスきっての娯楽の場だ。四層にもなる観客席が百台の戦車も収まる広大なアリーナを取り囲み、四方を埋め尽くした観客たちが日々繰り広げられる催し物に歓声を上げる。催し物は、剣闘士試合であったり演劇や模擬戦、祝賀の折には盛大な戦車競走が行われたりとその時々によって変わるのだが、今日はとりわけ市民たちの関心を引く特別な催し物が開催されるとあって、観客席は立ち見客も溢れるほどの賑わいを見せていた。


 罪人の公開処刑。


 決して頻度は高くないもの、それが行われるとあればカルコリス中から人が駆けつける、一際刺激的で残酷な出し物だった。


 一週間にも渡って続けられたサハルシア奪還の戦勝祝いの宴も、ようやく終わりに近づいてきた。本日行われる催しは、凱旋式で皇太子を襲撃したあの男の公開処刑だ。生きたまま獅子に食い殺させる身の毛もよだつような処刑は、だが今日の目玉である。罪人の登場を今か今かと待ち構える観客たちは一種異様な空気を醸し出し、狂気にも似た興奮が辺りを取り巻いていた。



 ***



 皇太子カハディーンと共に入場したエウリアスは、一列目の最前列に設えられた皇族専用の特等席へと着いた。競技場内の玉座には病床の父帝の名代を務めるカハディーンが座り、その右隣にエウリアス、左隣には皇太子の実母であるポリュメニア皇后が席に着く。

 エウリアスは、皇后との間に挟まる形で兄が座していることに、密かに安堵する。ポリュメニアと直接顔を合わせずに済むこの席次は、彼にとって何よりもありがたいものだった。


 エウリアスは幼い頃からこの義母であるポリュメニア皇后が大の苦手だった。初老に差し掛かるにも関わらず称えられる美貌と慧眼を持つ貴婦人。だが、かつて母を失い悲嘆に暮れていた幼い自分を、影で執拗に虐げていたことは、忘れようにも忘れられない記憶だ。

 さすがに近頃になれば、あからさまな嫌がらせをされることもなくなったが、冷え切った関係のまま改善の兆しも見られないとなれば、不用意に関わり合いにならないのが賢明だろうと、エウリアスは半ば諦めていた。


「弟よ、緊張しておるのか?」


 強張った表情でアリーナを凝視していたエウリアスに、カハディーンが一瞥を寄越す。


「……緊張、とはまた違うかと。生きたまま獅子に食われるというのはいったいどんな感覚なのか想像して、ぞっとしてしまっただけです」


 エウリアスが身を震わせながら言うと、カハディーンはその目に侮蔑の色を浮かべながら鼻を鳴らして嘲笑した。


「そんなに気になるのであれば、そなたも一度食われてみるか?」

「とんでもない! 絶対にお断りです!」


 顔を真っ青にして首を振る弟の姿に、カハディーンが声を上げて笑った。兄が言うと冗談でも冗談に聞こえないから恐ろしい。たとえ弟であれ彼の怒りを買えば猛獣の餌にされない保証はどこにもないのだから。もっとも兄も馬鹿ではないから、弟の処罰に公開処刑などといった派手な手段は取らないだろうが。


「ところでエウリアス、お前はあの男が何者であったか、気にはならぬか?」

「……もちろん、気になります。何者だったのです?」

「聞いて驚くな。あの者は〈湖岸の民〉アヴァン族の生き残りだったのだ」


 エウリアスは息を呑んだ。


「……まさか、アヴァンの生き残りがこんなところに? 何故?」


〈湖岸の民〉のアヴァン族。久しくその名を聞いていなかったが、九年前の北部大遠征にて殲滅させられた〈湖岸の民〉三部族のひとつだ。当時、遠征軍の総大将だったのはカハディーン。兄は、アヴァン族含む〈湖岸の民〉を徹底的に根絶やしにし、家屋や土地に至るまで焼き尽くした上、後々も大規模な残党狩りを行ったと聞いている。それが何故、いったいどうやって生き延びてここまで辿り着いたというのだろう。


「大方血の復讐のためだろうな。ふん、愚かな蛮族の考えることよ」

「血の、復讐?」


 兄の口から嘲笑混じりに吐き捨てられたその言葉が、不吉な響きを伴ってエウリアスの身体に染み込む。ごくりと唾を飲み込んだ彼は、険しい表情でカハディーンを振り仰いだ。


「いったい何なのですか? その血の復讐というのは」


 洗練された文化ではないだろうことは言葉から充分察せられる。だがそれ以上に、血の復讐という言葉の持つ禍々しい響きが、エウリアスに腹の底が疼くような強烈な不快感をもたらす。

 天幕のお陰で日陰になっている特等席内では、隣にいる相手の顔も影になって見えにくかったが、エウリアスにはカハディーンが口角を上げて残忍に笑ったのが分かった。


「〈湖岸の民〉三部族には、身内や友の命を奪われた時、その相手を殺しその敵討ちをせねばならないという掟があるのだそうな。罪人は決して見逃されることはなく、敵討ちをする者は、自らの命を捧げてでも必ず相手を殺さねばならぬのだ。なんと野蛮なことか! 早々に滅ぼしておいてよかったというもの。貴様もそう思うであろう?」


 エウリアスは眉を顰める。確かに野蛮だ。野蛮で血生臭く、いかにも蛮族らしい。だがエウリアスは、兄の言葉に素直に頷くことができなかった。かつてなら兄の言うことであれば無条件で肯定し、絶対の信頼を置いていただろう。だが、今は何かが心の奥底に引っ掛かるのだ。

 口をつぐみ固い表情で黙り込んだ弟を、カハディーンは冷ややかに一瞥する。歪んだ笑みを浮かべながら、彼は嘲るように鼻を鳴らした。


「あのような蛮族どもを生かしておいたところで害悪にすぎぬ。ならば全員殺してしまう方が手間が省けるというものだ。奴らは滅多に生まれ育った土地を離れぬと言うし、戦慣れもしていなかったから、屠り去るのは簡単であったぞ。まあ、鼠のようにしぶとい一部は生き残ったようだが、それも今日この場で死を迎える。生きたまま獅子に食われながらな!」

 

 彼が言って笑ったその直後。観客席からわっと声が上がった。見れば衛兵に両脇を固められた金髪の男が後ろ手に縛られ俯いた状態で通用口からアリーナ上に姿を現すところだった。男は上半身を裸にされ、その白い肌の至るところに殴打の痕や未だ血の滲む深い裂傷が見られる。背中には左肩から斜め下にかけて生々しい傷が残っている。イズメイルの風の魔術によってつけられたものだ。

 彼がアリーナ中央まで連れ出され、衛兵二人が急ぎ足で退出すると、男が出てきたのとは反対側の通用口の鉄格子が払われた。檻から解放された獅子が、圧倒的な存在感を放ちながら現れた。

 獅子は獰猛な光を帯びた黄金の目で男を睥睨する。

 罪人の処刑のために餌を抜かれ、飢えさせられた獅子の機嫌はすこぶる悪い。観客たちが固唾を飲んで見守る中、獅子は不機嫌そうに首を振りながらアリーナ中央で固まる男の周囲を歩き回る。時折足を止めて男を舐め回す様子は、まるでどこから喰らってやろうか吟味しているようだ。

 恐怖に耐えかねた男が、観客席とアリーナを隔てる壁に向かって一目散に駆け出した。獲物を逃がすまいと目の色を変えた獅子がその後を追い駆ける。野生の本能を剥き出しに唸り声を上げ、瞬く間に男に追いついた獅子は、壁に飛びつこうとしていた男の腕に鋭い牙で食らいついた。身の毛もよだつような悲鳴と罵倒を含んだ観客の歓声が一斉に上がった。


 古来から行われてきたという猛獣刑は、主に殺人もしくは大逆罪を働いた罪人に対して行われる。エウリアスもかつて一度だけ目にしたことがあったし、戦場ではもっと悲惨な光景を目の当たりにしてきた。だから、今更その残虐さにたじろいだりはしない。だが、間違っても好き好んで見たい類のものではなかった。ちらりと兄に目をやると、カハディーンは残忍な色を帯びた鳶色の瞳で、食い入るように獅子に襲われる罪人を凝視している。口元に僅かに浮かんだ笑みが、彼の狂気にも似た嗜虐心の高揚を窺わせ、エウリアスは虫唾が走るのを止められなかった。


 兄は楽しんでいるのだ。非力な一人の人間が猛獣によって食い殺され、肉塊となる様子を。


 エウリアスは眉間に皺を寄せた。悪趣味だ。血生臭い見世物と兄への嫌悪感が募り、吐き気すら覚える。

 カハディーンのことは兄としても皇太子としても敬愛している。だが、次期君主としての英邁さの中に時折ちらつかせる残忍な本性だけは、到底受け入れられるものではなかった。これは決して開花させてはならないものだ。

 カハディーンが隠し持つ毒牙の脅威をその身にひしひしと感じ、エウリアスは密かに身震いした。


 死に物狂いで逃げ惑っていた男は、とうとう皇太子とその一族の座す天幕席の下で力尽きた。全身血塗れで諦めたように横たわった男の元に、ようやく食事にありつける歓喜を漲らせた獅子が猛然と迫り来る。

 男は最期の力を振り絞って顔を上げ、天幕の下のカハディーンを見据えた。その眼差しにはありったけの憎悪と呪詛が込められている。今まさに死にゆこうとする者の今際の目。それはこの上もなくおぞましく、怨念に満ちていた。


「呪われろ……! そして、国もろとも滅びるがいい……!」


 地の底から轟くようなひび割れた声。決して大きくはなかったはずなのに、その言葉ははっきりとエウリアスの耳に届いた。ふいに男がカハディーンから視線を外し、そのやや後ろを見つめて目を見開いた。その唇が何かを呟くように動かされた次の瞬間――。


「やったか!」


 カハディーンの歓声と共に罪人の喉から迸る鮮烈な血の色。壊れた噴水のように不規則に飛び出すその赤が、白いアリーナ上で一際目を引いた。悲鳴がそこかしこから飛び出し、どよめきが沸き起こる。ポリュメニア皇后が青ざめた顔で口元を押さえ、席を立った。それを介抱する侍女の顔もまた蒼白で、彼女は皇后を支えるようにして退出してゆく。

 獅子は久方ぶりの餌を存分に堪能している様子だった。もはや動き回ることもなくなった人間の胴を悠然とむさぼり、食い千切った腕や足に食らいつく。胴の少し離れたところでは、頭だけになった男が見開いた目や絶叫の形のまま固まった口もそのままに、貴賓席を見上げていた。


「見たか、エウリアス! なんとも愉快な光景ではないか! 大逆人の最期とはかくも無様で惨めなものなのだ! そなたもしかと目に焼きつけておくがよかろう!」


 立ち上がり、狂ったように哄笑する兄の横で、エウリアスはただただ呆然と目を見開いていた。観客の声も兄の笑い声もどこか遠くから聞こえるようだった。

 男の最期の瞬間。ほんの僅かな時間であったが、彼が驚愕したように見据えていた先。そこにいたのは、イズメイルだ。


「イズ……」


 カハディーンの背後で、イズメイルは真っ直ぐに男の首を見つめていた。エウリアスの呼び掛けにも振り向くことさえしない。血が巡ることを止めてしまったような顔も、玻璃玉を思わせる空虚な瞳も、何もかもがぞっとするほどに冷酷で、エウリアスは言いようのない不安に襲われる。

 何故、彼はこの残酷な光景を目の当たりにして、あんなにも冷静でいられるのだろう。何故、表情ひとつ変えることなく見つめることができるのか。彼は――イズメイルは、人が娯楽のようになぶり殺されるのを平然と見ていられるような、酷薄な人間ではないはずなのに。


 エウリアスの視線に気づいたのか、イズメイルが彼に目を向けた。こちらに焦点を定めた生気のない瞳にひたと見据えられ、思わず背筋が強張る。するりと感情の抜けた顔はまるで仮面のようで、なまじ整っているだけに、酷く不気味だった。

 エウリアスはいたたまれずに目を逸らした。自分のよく知る友の得体の知れない姿が恐ろしかった。あの空っぽの目をこれ以上見ていたくはないと思ってしまった。


 だからこの時、黒衣の襞に隠されたイズメイルの右手が、白くなる程に強く握り締められ震えていたことにも、凍てついた眼差しの奥で数多の感情が渦巻いていたことにも、エウリアスは何一つ気がつかなかったのだ。

 


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