第16話 叙事詩

「そんなところに突っ立てないで、用があるならこっち来いよ」


 用がないならさっさと帰れ邪魔すんな、とエウリアスがぶっきらぼうに言えば、イズメイルは苦笑しながらも彼の元へ歩み寄り、手に持っていた盃を差し出した。


「気分が悪そうだったから持ってきてやった。いらないなら自分で飲むけど」


 そう言って小さく微笑むイズメイル。エウリアスがその顔と水の入った盃を交互に見比べていると、イズメイルが一瞬眉をひそめて「酒臭い」と呟いた。エウリアスは怒りに任せて盃をひったくり、一気に飲み干そうと口を近づけ、そして怪訝そうに眉を寄せた。


「なんだこれ?」


 ただの水にしては温かくて、色がついているような気がする。不思議に思って鼻を近づけてみれば、林檎にも似た甘い香りが鼻腔を貫いた。それが幼い頃、風邪を引く度に乳母が飲ませてくれた薬草茶を思い出させて、ふと懐かしい気分になる。


「カミツレ茶だよ。飲み過ぎたり、気分が悪い時によく効くんだ」


 黄色味がかった液体を眺めながら、エウリアスは納得がいったというように唸る。なるほど、乳母の薬草茶を思い出すわけだ。明らかに具合の悪そうな自分を見かねて持ってきてくれたのだろう。自分など放っておいてもよかったのに、わざわざ手間をかけてこんなものまで用意して。


「……もしかして毒味とかした方がよかった?」


 盃の中身を凝視しながら何も言わないエウリアスに、さすがのイズメイルも不安に駆られたのか。珍しく機嫌を伺うように躊躇いがちに尋ねてくる。エウリアスは友の不安を払拭してやるように首を振ると、温かな茶をゆっくりと口に含んでみた。ほろ苦さと甘みが入り混じった懐かしい味が口の中に広がった。


「……お前って馬鹿だよな」


 小さな呟きが意図せず零れ落ちた。よく聞こえなかったらしいイズメイルが呑気に首を傾げるのが可笑しくて、乾いた笑い声が口から漏れる。


「お前は馬鹿だって言ったんだよ。だってそうだろう? お前は兄上の近衛魔術師なんだから兄上の機嫌でも取っていればいいのに、俺なんかにかまかけてさ。わざわざ茶まで持ってきて。ほんと何やってんだよ……」


 掠れた声に自嘲が混ざる。友に背を向け、行儀悪く手すりに肘をつきながら馬鹿だ阿呆だと悪態をつく。それが酷く子供じみた行いだという自覚はあったが、今の彼にはこうやって憎まれ口を叩くのが精一杯だった。そうでもしなければ、無様な姿を晒してしまいそうで怖かったのだ。

 目に滲んだものを見られぬよう意地になるエウリアスの背後で、イズメイルはしばらく何も言わずに佇んでいた。やがて、衣擦れの音が聞こえ、彼がそっとため息をつきながら隣にやって来る。


「別に、お前のためだけじゃない。勘違いするなよ」


 呆れと嘲笑と、どこか歪な親愛が入り混じった声音。緩慢な動作で友の顔を仰ぎ見たエウリアスに、イズメイルは大袈裟に肩を竦めてみせた。


「正直に言うと、俺はああいう乱痴気騒ぎみたいなのって苦手なんだ。だから、何とか逃げ出せないものかと思っていたんだけど、そうしたらお前が酷い顔で出ていくのがたまたま見えてね。これ幸いとばかりに席を外す口実にさせてもらったんだよ。それだけさ」


 そう言ってぷいと顔を背けるイズメイル。その整った横顔はどこかきまりが悪そうで。

 エウリアスは、だらしなく手すりにもたれ掛かりながら友を見つめていたが、ふと表情を緩めて微笑んだ。

 彼の言葉が見え透いた言い訳であることは一目瞭然だった。単なる口実に過ぎないというのであれば、わざわざ薬草茶まで用意して来た理由は何だというのだ。


 ああ、そうか。そういうことか。


 エウリアスは理解した。この男もまた不器用で、素直になるには矜持が高すぎる人間なのだ。

 

「……好きにしろ」


 ぶっきらぼうに言葉を投げつけたつもりであったが、それは思いの外優しげに響いた。静かに茶を啜るエウリアスの隣で、彼と同じように手すりに肘をついたイズメイルが「不味いだろう?」と笑う。エウリアスはわざとしかめっ面を作り頷いた。


 二人はしばらくの間、黙って手すりに身を持たせかけながら、夜風が髪や衣服をなぶるのに任せていた。無言の時が流れたが、決して気まずくはない。むしろ、友の気配を傍らに感じながら過ごす時間に、この上もない安らぎを覚えている。一人になりたかったはずなのに、不思議だった。先ほどまでの鬱憤もいつの間にか綺麗さっぱり消え失せ、エウリアスの心中は穏やかな気持ちで満たされていた。


「……お前ならなんだってできるよ」


 ややあって小さな声で呟かれた言葉は、エウリアスの嘘偽りのない本心だった。彼は友の顔を見上げてにっと笑う。


「お前ならどこでも、どんなことでもやっていける。兄上だってお前のことを重宝するだろうし、お前は間違いなくこの国一番の大魔術師になれるよ。お前にはそれだけの才能がある。だから、その……がんばれ」


 驚いたように見開かれた二つのエメラルドに、自分の顔が写り込んでいた。エウリアスは思わず目を伏せる。恥ずかしさと照れ臭さが一気に押し寄せた。指先で頬を掻きながら視線をさ迷わせたり足を組み換えたりと落ち着かなさげにしていると、イズメイルが堪えきれないというようにぷっと吹き出した。


「随分と柄にもないことを言うじゃないか。やっぱりお前、飲み過ぎなんじゃない? 本当に大丈夫?」


 笑いながら、「まあ、お前の激励はありがたく受け取ってやってもいいけど」などとうそぶく親友の態度は全くもって素直ではないと、エウリアスは心の中で舌打ちする。

 彼は適当な悪態を投げつけるとイズメイルから目を背け、手すりの遥か向こう側に広がるカルコリスの街に目を向けた。


 常であれば、街の半分以上が寝静まっている夜も更けたこの時間。だが、戦勝祝いの宴を開いているとおぼしき貴族や軍人の邸からは、仄かに橙の灯りが漏れ出ている。夜空の星々と相まって、それらはまるで夜闇に散りばめられた宝石のようだ。星空が女神の外套だとすれば、この地上の光はいったい何になるのだろうと、ぼんやり考えていると、傍らのイズメイルがエウル、と小さな声で呼び掛けた。

 

「……お前は今、幸せか?」


 唐突な問い掛けに振り向くと、エメラルド色の瞳が真っ直ぐにエウリアスを見据えていた。その面差しは真剣で、戯れ半分に発せられた問いではないことを物語っている。そうでなければふざけて皮肉のひとつでも叩きつけてやろうと思っていたのだが、エウリアスは何も言えずに開きかけた口をそのままにするしかできなかった。


 自分は今、幸せか。


 そう聞かれると、エウリアスには即答できなかった。

 自分の境遇が、決して絵に描いたような幸福なものではないということは、自分自身が一番よく分かっている。妾腹の生まれで兄姉たちには蔑まれ、父からも顧みられることなく、宮廷での立場も未だ確固たるものとは言えないのだから。だが一方で、自身の軍人としての功績は宮廷内でも徐々に認められつつあるし、上に立つ者としてせめて誇り高くあろうと努めた結果、慕ってくれる部下にも恵まれた。何より目の前のこの小憎らしくも愛すべき友の存在が、彼の人生を決して不幸なだけではない、彩りあるものにしてくれたのだと、エウリアスは信じている。


 イズメイルは彼の恩人であり、友であり、そしてよき好敵手であり、同じ年同じ日に魂を分け合った兄弟だ。その彼が側にいる人生は、今のエウリアスにとって何にも変え難いものに思えた。幸せかと聞かれたら、イズメイルと共にある今は、間違いなく幸せだと言えるだろう。


「……幸せだよ」


 エウリアスは上体を起こし、親友の目を真っ直ぐ見つめながら破顔した。


「お前という兄弟がいるから俺は幸せ者だ」


 こんなことを臆面もなく言えてしまうのは、まだ酒気が完全に抜けていないせいに違いない。案の定イズメイルは驚いたように目を見張ったが、その表情はすぐに嬉しそうな笑顔へと変わる。エウリアスは羞恥心を誤魔化すように咳払いした。


「ラバーシュ王だってセンナリムと過ごした半生は幸福だったって歌っているんだ。俺が親友のお前と過ごせて幸せでないはずがないだろう?」


 道理に背いたことは言っていないはずなのに、妙に後ろめたい気分だった。やはり自分はこのように好意を大っぴらにさらけ出すのは苦手なのだと思いながら友の顔を窺えば、彼は不思議そうに首を傾げながら「ラバーシュ王?」と呟いたところだった。


「は? お前、知らないのか?」


 エウリアスは思わず目を剥いて大声を上げた。


「我が国の人間なら子供でも知ってる有名な話だぞ! それを知らないなんて……お前何年帝国人やってんだよ!」


 信じられないとでも言うように大袈裟に驚いてみせると、イズメイルは気を悪くしたように顔を歪め、「知らなくて悪かったな」と言い捨ててそっぽを向く。

 意外だった。イズメイルが知らなくて自分が知っている物事というのは、実はとても珍しい。それが誰もが知る英雄譚となればなおさらだ。些細なことではあったが聡明な彼の優位に立てた気がして、エウリアスの鼻は否応なしに高くなった。


「分かった。知らないならこの俺様が教えてやるからよぉく聞いとけ。ラバーシュ王っていうのはヴルグラル帝国が成立する前、だから今から二千年以上も前に生きた伝説の王だ。この王はとても腕力のある強い王で、センナリムっていうのはその王の親友だった大魔術師のことさ」

「へぇ。魔術師と王の物語なのか?」


 イズメイルが興味を惹かれたように身を乗り出したので、エウリアスは得意気に胸を反らした。話して聞かせる声にも張りが生まれる。自分のお気に入りの叙事詩に友が興味を示したとあれば、悪い気はしなかった。


「そうさ。ラバーシュ王は実は王の子じゃなくて、羊飼いの息子だったんだ。センナリムはその頃からのラバーシュ王の幼馴染みで、二人は貧乏なんだけど兄弟のように仲良く育っていくんだ」


 やがて青年になったラバーシュとセンナリムは、十年にも及ぶ旅に出ることになる。魔女の島での冒険、海神ディオンとの知恵比べに九つの頭を持つ怪鳥との戦い。獅子の身体に女の首を持つ怪物の謎解きに付き合ったかと思えば、さる女王の要望に応えるべく黄金の羊毛を求めて山をいくつも越え、果てには不死の妙薬を手に入れるべく冥界下りまでやってのける。

 やがて、数々の偉業と共にその名を大陸中に知らしめ、名実ともに英雄となったラバーシュはリューディアという国を興して王となり、センナリムはその側近としてラバーシュ王に仕える身となった。


「だけど、二人の仲は長くは続かなかったんだ。というのも、ラバーシュ王が妃に迎えたアスタルテという女がとんでもなく悪い魔女でな、そいつに操られたラバーシュ王は次第に暴虐な王になっていくんだ。もちろんセンナリムはそれを諫めた。でも王は聞き入れない」


 やがて、魔女の策略によって国を二分する戦争が起こり、ラバーシュ王とセンナリムは各陣の旗頭として真っ向から対立してしまう。かつて共に冒険の旅を繰り広げ永遠の友情を誓い合った若者同士は、敵同士となり互いの首を狙い合う関係となった。


「それでも、二人はお互いへの友情を捨てなかった。ついに彼らは直接対決をすることになる。ラバーシュ王は国で一番の武術の達人で、センナリムは国一番の大魔術師だったから戦いは拮抗した。でも、とうとうラバーシュ王の剣がセンナリムの胸を貫いた」

「……殺したのか?」

「そうだ。でもセンナリムはこれほどまでに敵対する関係になっても、王を親友として慕い続けていたんだ。だから、彼の死の間際にこう言うんだ。”おお、我が最大の敵にして、最大の友よ”って」

「最大の敵にして、最大の友……」


 イズメイルが、噛み締めるようにゆっくりと、その言葉を呟いた。エウリアスにとってもセンナリムの最期の言葉は感慨深いものだ。初めて物語に触れた日からその言葉は深く心に刻み込まれ、時々思い出しては考えるのだ。センナリムはいったいどんな気持ちでこの言葉を王に送り、王はどんな気持ちでこの言葉を聞いたのだろう、と。


「友を死に追いやった自らの行いを深く反省したラバーシュ王は、妻のアスタルテを処刑して国を統一し、二十年間平和に国を治める。でもある日、王は一人の若者に殺されるんだ。その若者というのがなんと、アスタルテが死ぬ直前に産んで、家臣の計らいで生き延びていた王の実の息子だったんだよ。叙事詩はその息子が父王の後を継いで王になるところで終わってる」


 なかなか波乱万丈な物語だろう? とイズメイルの顔を見上げてみれば、彼は目を細めて「お前が好きそうな話だな」と笑った。


「本当に知らなかったんだな。全く……呆れたぜ。俺がここまで話してやったんだから、これからはちゃんと覚えとけよ。それで、俺とお前、なんだか似ていると思うんだ。その……ラバーシュ王とセンナリムに」


 エウリアスが気恥ずかしそうに鼻を掻きながら言えば、イズメイルは彼をひたと見据えたまま、僅かに口の端を持ち上げてみせる。


「お前が英雄王ラバーシュで、俺が大魔術師センナリム?」

「それ以外何だって言うんだよ。まあ、俺は王じゃないけど」

「……もし、センナリムじゃなくてアスタルテの方だったら?」

「何言ってるんだ。縁起でもない」

「ははっ。冗談だよ」


 そう言って軽やかに笑いながら手すりの向こう側に目を向けたイズメイルの表情は、どこか寂しげだった。


「……何故アスタルテは王を操ったりなどしたのだろう?」

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