第3話 興味の芽生え
昼間の乱闘騒ぎの件は、その日の夕餉までには皇帝メトディオスの耳に入った。メトディオス帝は知らせを聞くなり烈火のごとく怒りを爆発させた。それは、先日宮廷に招き入れたばかりの魔術師が可愛い末の息子に危害を加えたからではない。皇帝自ら試験して登用した人物がその一週間後に問題を起こしたとあれば、皇帝の沽券に関わる。それを恐れた皇帝は、齢十三の少年に対して、四肢を引き裂き首を刎ねて晒してしまえとまで言ったのだ。怒りに任せたその発言は、まだ幼い子供を処刑したとあっては諸外国への外聞が悪いという宰相の執り成しでひとまず撤回され、かろうじて処刑は免れた。だからといってお咎めなしに、というわけにもいかず、イズメイルの宮廷魔術師としての資格は剥奪されることとなった。資格を剥奪されれば宮廷に残ることはまず不可能だ。彼の宮廷魔術師としての道は絶たれたも同然だった。
***
「ニクスール、お前、あいつのことどう思う?」
エウリアスはその夜、ニクスールに尋ねた。自室の寝台で寛いでいる時だった。そろそろ寝てもよかったのだが、眠れそうになかった。イズメイルのことが気になってしかたがない。だから従者の男に尋ねたのだが、「誰のことです?」ととぼけたように聞き返す彼は、確実にエウリアスの言いたいことを分かっている様子だ。
「だからさ、あのイズメイルのことだよ。あいつ、俺を殴ったのは許せないけど、この俺と互角で殴り合ったんだ。面白い奴だと思わないか?」
「でも、あの者は魔術師の分際で皇子である貴方に危害を加えたのですよ。子供とはいえ罰は受けて然るべきでしょう」
「それはそうだけど、父上に進言して何とかあいつを宮廷に残れるようにしてやれないかな?」
「無駄でしょう」
すげなく言われてしまい、エウリアスは唇を尖らせる。
「皇帝陛下が貴方の言うことに耳を傾けるなどと本気でお思いですか?」
そう言われてしまうと、彼に反論はできなかった。
ここエスタティス大陸に名だたる大帝国ヴルグラルの支配者メトディオス四世。彼の気質が傲岸不遜かつ専制的でひどく気まぐれであることは、自国のみならず他国にも知れ渡ることだ。かの父帝が、一皇子、それも末子で妾腹の子である彼の進言を聞き入れるとは到底思えない。
「そもそも、エウリアス様は何故そこまであの子供を気にかけるのです? あの者は貴方を殴ったのですよ。ご自身も先ほど許せないと仰っていたではありませんか」
心底不思議そうに問いかけられ、エウリアスは考え込む。そういえば何故だろう。
今までエウリアスは、自分や父帝、兄弟たちに危害を加えた人間が罰され、場合によっては死んでゆくのを悲観したこともなければ、相手に慈悲をかけようと思ったこともなかった。大帝国の皇族である自分たちを害さんとする者は、そのように処分されるのが当然だと思っていたからだ。
今回、相手は自分を殴った。皇子である自分を殴ったあいつは許せない。常であれば罰を受けることを渇望し、それが下されることを喜んだであろう。だが今、自分はその彼にここに残って欲しい、できれば無罪放免になって欲しいと思っている。何故か。それは言葉では言い表せなかった。このような気分になったのは初めてだった。
「……分からない。でも、俺、あいつともう会えないのは嫌なんだ」
エウリアスがそう言うと、ニクスールは呆れたようにあからさまなため息をつく。
「助けたい理由も分からないようでは、陛下を説得するなどできませんよ。下らないことを考えていないで早く寝ておしまいなさい。明日になればあの者のことなど忘れてしまうでしょう」
エウリアスは歯の奥に胡桃の欠片でもつまったかのような気分で寝台に潜り込んだ。ニクスールが部屋の蝋燭を吹き消す。彼が挨拶を済ませて部屋を出てゆくのを見やり、エウリアスは目を閉じた。
どれくらい時間が経ったのか分からない。だが、眠れない。エウリアスの目は珍しく冴えていた。目を閉じれば思い浮かぶのはイズメイルのことばかりだった。
あいつが宮廷を追放になったら、もう二度と会えないのだろうか。少女のように愛らしく可憐で、あまりにも幻想的な魔法を操るあの少年とは。
彼の生み出した炎の蝶と氷の鳥が、瞼の裏でひらりひらりと誘うように妖艶に舞い踊っていた。目の前に飛んできた蝶は、貴婦人が衣装の裾を翻すように優雅に羽根を羽ばたかせて宙を漂っている。無意識の内に手を伸ばすと蝶は逃げるように遠ざかり、また別の一匹が目の前に現れては離れてゆく。その間を揺らめくのは、波打つ白金の長い髪。振り向いたその顔は少女のようで、印象的な瞳がエメラルドのように煌めき――。
エウリアスは目を開いた。夢だったのだろうか。だが、眠っていたという気がしない。瞼の裏で繰り広げられる不思議な光景を眺めている間、確かに自分の意識ははっきりとしていた。まるで、底知れない幻影と魔術の世界に迷い込んだかのようで、得も言われぬ不思議な気分だった。もしかしたら、自分はイズメイルを殴り、彼に触れたことで、不可思議な術に掛けられたのではないかとさえ思えてくる。
イズメイルと、もう一度話がしたい。
エウリアスは布団をはね除けて起き上がる。
もう一度、あの少年と話をしなければ。
衝動に突き動かされるままに、エウリアスは寝台を降りる。彼の行動は早かった。
***
エウリアスは寝間着の上から濃い色の上着を羽織っただけの姿で、外に飛び出した。目指すのは宮殿の西、政務を行う区画の一番端、寂れた一画。そこに罪人を一時的に収容する半地下の牢獄がある。イズメイルはそこに捕らえられているはずだった。
彼は驚く牢番を言いくるめて――脅したと言ってもよかった――中に入れてもらうと、地下に通じる階段を降り、途中で松明を拝借して石造りのじめじめした地下通路を進む。今現在、地下牢にはイズメイル以外収容されていない。だから牢はほぼ空だった。とはいえ、数百年もの間、数多の罪人を収容してきたこの場所には彼らの怨嗟が染み付いているようで、背筋に悪寒が走る。今にも彼らの亡霊が黒く落ち込んだ影の中から姿を現すのではないか、と思わずにはいられなかった。
「イズメイル?」
気味の悪さと孤独に耐えきれず、そっと呼び掛けてみると、思いの外声は響いた。石壁に反響した声が四方から返ってくる。
呼び掛けに反応した何かが牢の一番奥で動く気配がした。エウリアスはそこを目指して一目散に駆け出した。
件の牢の中では、両手を拘束された少年が、膝を抱えて座り込んだまま、目を細めて松明の光を見上げていた。
「……誰?」
目が慣れたのだろう。目の前にいる人間が誰であるかを認めた彼は、血相を変えて鉄格子にしがみついた。両腕を拘束する手枷と、昼間の喧嘩で負った怪我が痛々しい。
「なんでここに……!」
イズメイルが噛み付くように言う。
「お前のことが気になって仕方がなくて」
「何故? 僕を馬鹿にしに来たのか?」
イズメイルの眼差しには激しい怒りと抑えきれない嫌悪が溢れている。もし、この地下牢に魔術師の魔力を封じる特殊な術が掛けられていなければ、彼の魔力で髪に火をつけられるくらいはされていたに違いない。相手の自分に対する印象が最悪なことに内心落胆しつつも、エウリアスは牢の中の少年を見下ろした。
「俺はただ、お前と話がしたかっただけだ」
「そう。でも僕に話したいことなんかない。帰って」
イズメイルは、険の宿る眼差しを緩めることなく、彼を睨み付けていた。
「そんな目で見るなって。別に取って喰うわけじゃないし、今ここでお前を殺そうってわけでもないんだから」
呆れたようにエウリアスが肩を竦めると、イズメイルは、しばらく彼を睨み付けた後、ふと気まずそうに彼から目を逸らした。
「……まさか、貴方がこの国の皇子だったなんて知らなかった。知っていたら僕はあんなこと……」
「しなかったってか?」
エウリアスが問いかけると、イズメイルは黙り込み、俯いて自分の足元を見つめる。やがて、眉間に皺を寄せながら「殴りはしなかったと思う。怒ってはいたと思うけど」と不貞腐れたように呟いた。正直な物言いに、思わずエウリアスは笑いそうになる。
「別に、俺はお前をどうこうしようなんて気はない。どちらかと言うとお前を助けてやりたいんだ」
エウリアスが言うと、イズメイルは鋭い目つきで彼を睨み上げた。
「こんな時間にお前ひとりでやって来て何ができるんだよ。鍵も持ってないくせに。お前、本当に何しに来たんだ」
「だからさっきも言っただろう。お前と話がしたいって」
「じゃあこっちももう一度言うけど、僕にはお前と話したいことなんか何もない。早く帰れ」
そう言ってイズメイルは再び膝の間に顔を埋める。
この子供は思った以上に強情な気質のようだ。今まさに牢に放り込まれ、危機的な状況に立たされているというのに、非礼を詫びることすらしない。不敬極まりない態度だったが、決して媚びないその態度は新鮮でもあり、どこか好ましく感じるのも事実だった。
「帰ってもどうせ眠れないから、お前、俺の話し相手になれ」
「嫌だ。そんなものお付きの従者様にでもしてもらえばいいじゃないか」
「あいつはもう寝てるよ。それにあいつ、俺のこと馬鹿にしてるからあまり好きじゃない」
「だからってなんで僕がお前の相手をしないといけないんだ」
「お前に興味があるから」
イズメイルは顔を上げ、目を瞬かせた。目の前の皇子をしげしげと見つめ、不審そうな表情で首を傾げて「なんで?」と問いかける。初めて相手から問いが返ってきたことにエウリアスの心は浮き立ち、満面の笑みを浮かべた。松明を壁に掛けるとイズメイルの前に腰を下ろし、彼と向き合った。
「お前みたいな魔術師を見たのは初めてなんだ。女の子みたいに綺麗な顔してるくせに喧嘩には強いし、ちょっとここら辺では見たことのない見た目だし、何より……」
「お前、まだ僕を女みたいだって言うのか!?」
言葉を遮られるとは思わず、エウリアスは面食らったように目を丸くする。イズメイルは憤怒で顔を真っ赤に染め、食いしばった歯を剥き出しにして怒り心頭だった。
「僕はれっきとした男だ! 女なんかじゃない! さっきもそうだったけど、お前が皇子だろうがなんだろうが、こんな屈辱黙って見過ごせるものか!」
イズメイルは鉄格子にしがみついた。
「謝れ! 女みたいだと言ったことを撤回しろ!」
鉄格子を壊さんばかりに激しく揺さぶるイズメイルの姿に、さすがのエウリアスも怯み、仰け反る。正直自分の何がここまで彼を怒らせたのか分からなかった。確かに自分は彼に対して女のようだとは言ったが、それは衝動的に殴りかかったり、このように激怒するほどのことなのだろうか。言われたことのない彼には想像もつかない。
「そんなに怒るなよ。減るもんじゃあるまいし」
そう言えば、イズメイルはますます激昂する。
「怒るに決まってんだろ! お前、自分が女みたいだと言われたら腹が立たないか? 分からないなら想像してみろ!」
エウリアスはいささかムッとしながらも、自分を睨み付けるイズメイルの気迫に負け、言われた通り頭の中で自身の行いをなぞってみた。自分があの時、何をして何を言ったか。必死で頭を巡らせ思い返し、イズメイルの立場に自分を当てはめる。
見ず知らずの子供がいきなり自分を指差し、不躾に名前を叫ぶ。そいつは品定めするかのようにじろじろと全身を眺め回し、挙げ句へらへら笑いながら「お前、女みたいだな。男には見えない」などといけしゃあしゃあと宣う。しかも、牢にまで押し掛けてきたかと思えば謝りもせずに「別に減るもんじゃないんだから怒るな」などと偉そうに言ってのけるのだ――。
確かに腹が立つ。その行いはあまりにも無礼だし、一体何様のつもりなのだと、詰め寄っていたに違いない。
そういうことか。
すとんと腑に落ちた気がした。そして、自分が彼に何をしたのか、何故、彼はこれほどまでに激しく怒ったのか、想像してみて初めて分かった気がした。
自分は相手への敬意を欠いた行いをした。
それを、エウリアスはようやく理解した。
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