エメラルドの魔術師

朱鈴

序章

 イトゥス暦一一七六年


 村の家々から火の手が上がる。夜闇の空は炎で明々と照らし出され、辺りには血の臭いが充満し、村人たちの屍が丸太のように転がっている。響き渡るのは帝国軍の刃に倒れる村人たちの断末魔の悲鳴。それらはひっきりなしに続き、平和を謳歌していた村を凄惨な殺戮の舞台へと変える。


 荒々しい蹄の音を響かせ村を蹂躙するのは、大帝国ヴルグラルの誇る魔術師部隊を率いる帝国軍だ。兵士たちは剣や斧を振りかざし、魔術師たちはその魔力を以て操る風や炎を武器として、抵抗もできない村人たちを襲う。ひとりまたひとりと、女子供も構わず虫けらのように屠るその様は、かつて大陸を恐怖に陥れた死者の軍勢もかくやという蛮行だった。



 ***



 帝国軍による急襲から辛うじて逃れた幼いその子供は、祖母に言われるまま姉と共に逃げ込んだ砦の地下室で、村の女子供たちと息を潜めていた。隅にうずくまり恐怖と不安に震えるその身体を、姉がしっかりと抱き締めてくれる。だが、彼女もまた強張った青白い顔で、地下室の入り口から目を離さない。

 出入り口には、祖母によって封じと目眩ましの魔術が施されていた。中からも外からも決して開けられることはなく、また見つかることもない。それらの魔術が効いている限り、彼ら二人と村人たちは安全であるはずだった。強力な魔術師である彼女の魔術を破ることのできる者は、そうそういないのだ。少なくとも、彼は見たことがなかった。だから、ここにいる間はひとまず安心していいはずなのに、感じるこの胸騒ぎと不安は一体何なのだろう。


 ここエスタティス大陸東部の広大な領域を支配するヴルグラル帝国。その強大な軍事力は、精鋭の魔術師部隊によって支えられている。もちろん彼らも一人や二人ではないだろうから、砦の上で戦う祖母も苦戦していることだろう。だが、彼の祖母は周辺地域一帯には名の知れた大魔術師だ。彼女が負けるなどということは、天地がひっくり返ってもあり得ない。彼はそう信じていた。だが、彼女もまた、魔術師とは言えども一人の人間に過ぎなかった。


 その気配を感じたのは、彼一人だった。張り巡らされた糸がぷつりと切れた感覚。揺るぎない地盤が呆気なく崩れ去る音。そして、心の一部を深く抉る喪失感。これらが意味することはただひとつ。


「お婆様が亡くなられた……」


 彼は呆然と呟いた。凍りついたような静寂が訪れた。やがて、一人が押し殺した声ですすり泣きを始めると、室内は絶望と悲しみに包まれた。誰もが一族の要である魔術師を頼りにしていたのだ。その最後の頼みの綱を失った自分たちの命運は、もはや尽きたも同然だった。

 そして悪いことは彼女の死だけではなかった。魔術師が死ねば、魔術は効力を失う。それまで祖母の魔術で守られていた地下室の出入り口は、もはや隠す術がなかった。


 頭上で荒い足音が響く。どかどかと無遠慮に踏み鳴らされるその音に、地下室の避難民は息を殺す。見過ごされることを願った地下室の出入り口は、呆気なく見つかったようだった。木の扉が軋む耳障りな音と共に、出入り口が開かれた。そこから顔を覗かせたのは数人の帝国軍の兵士。彼らは、地下室に身を寄せ合って震える女子供を一人一人燻し出すように、じっくりと松明で照らし出す。その灯りの元に晒されぬよう、子供の顔を姉がしっかりと胸に押しつけ抱え込む。誰もが緊張と恐怖に顔を引きつらせていた。


「女と子供が二十人ほどおります。いかがいたしましょう」


 若い兵士の呼び掛けに、地上から「全員引きずり出せ」と野太い男の声が答える。


 兵士に引っ立てられるようにして地下室を追い出された村人たちは、砦の中庭に集められた。母親たちは我が子を抱き締め、兄弟友人同士固まって震えながら兵士たちを見上げる。


 彼は、震えながら自分を抱える姉の肩越しに、兵士たちを見つめていた。自分たちの運命は、目の前のヴルグラル帝国軍にかかっている。もしも彼らが自分たちを害するようなら、祖母の後継者である自分が姉を、皆を守らなくてはならない。だが、震える足が言うことを聞いてくれなかった。心臓は砦全体に響き渡らんばかりに激しく鼓動し、根の合わない歯ががちがちと音を立てる。あれほど祖母に叩き込まれた呪文は、ひとつとして思い出せず、かき集めたような断片だけが浮かんでは雪のように消えていった。


 十になったばかりの幼い子供は、自らの命の危機に瀕した今、とてつもない恐怖の中にいた。それは、幼い彼の思考を麻痺させ、冷静さを奪った。


「カハディーン殿下、こいつらはいかがいたしましょう。奴隷として連れ帰りますか?」


 兵士の声に、守られるように兵士たちの背後に佇んでいた男が姿を現した。大柄な男だった。兜を身につけておらず、深い彫りと端正な顔立ちが窺える。年は二十歳を少し過ぎた頃だろうか。体つきはがっしりとしており、長身で、身に纏う武具や赤い外套はどれを取っても仕立てがいい。身分の高い人物に違いなかった。

 カハディーン殿下と呼ばれたその男は、前に進み出ると、縮こまって震える村人たちを尊大な態度で睨めつける。獲物を吟味するかのようなその眼差しは、決して人間に向けられるべきものではない。その眼差しが自身と姉に向いた瞬間、彼は姉の服に強くしがみついて決して目を合わせないよう顔を伏せた。感情を感じさせないその眼差しが酷く恐ろしかった。

 やがて、男は口元を歪めて残忍な笑みを浮かべた。


「何百年もぬくぬく守られてきただけの腑抜けどもが何の役に立つものか。生かすだけ無駄というもの。一人残らず射殺せ」


 ひゅっと息を呑む声が聞こえた。兵士たちが一斉に矢をつがえる。村の女の一人が、命だけは助けてくれと悲鳴を上げたのを皮切りに、一斉に矢が放たれた。矢は雨あられのように無慈悲に降り注ぎ、恐ろしい悲鳴が上がった。瞬く間にむせ返るような血の臭いが充満し、先程まで命のあった者たちが次々と物言わぬ屍と化してゆく。


 阿鼻叫喚の中で、姉が突如悲鳴を上げ、彼の上に覆い被さるように倒れ込んだ。その口から血が流れ、胸元から矢じりが突き出しているのを見て、彼は姉の身に起こったことを悟った。叫ぼうとした彼の口を、姉は最期の力を振り絞って塞いだ。


「駄目、死んだ、ふりをして……。貴方は、必ず、生き延びるのよ……。そして……必ず……」


 掠れた声で呟かれたその言葉に、子供は呆然と目を見開いた。言葉を伝え終わった姉の身体から力が抜け、開かれたままの目が虚ろになり、命が滑り出てゆく。

 姉の死を悲しむ間もなく、左肩に衝撃と熱い血潮を感じた。一瞬で頭が真っ白になった。かろうじて動く視線を左に向けると、肩口に矢が突き刺さっているのが見えた。


 死ぬのだろうか。姉の遺言を果たすこともできずに?


 子供は薄れゆく意識の中で、ぼんやりと考える。意識を失う直前、彼は姉の肩越しに、大柄な男の顔を見た。


 ヴルグラル帝国のカハディーン。姉を、村の皆を殺した男。


 彼はその姿を、声を、脳裏に焼き付ける。決して忘れはすまい。例え、冥府に落ちたとしても。全身が引き裂かれるような激しい憎悪と怒りが胸を満たす。

 例え、自分はここで果てようとも、この恨みだけは忘れるものか。未来永劫お前を呪ってやる。お前が無惨に、惨めに、苦しみながら果てるように。

  果てしない怨憎と悲しみで錯乱したまま、彼は意識を手離した。同胞の断末魔と、殺戮者たちの高笑いが最後まで響いていた。


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