石化と作り置き

 出張から帰ると夫が石化していた。

 夫はキッチンで包丁を握りながら人参を切ろうとしているところで石化していた。作り置きをしようとしていたみたいでタッパーの中には卵焼きだとか、野菜炒めだとか、牛肉のしぐれ煮だとか、サランラップで包んだ小ぶりのハンバーグだとか、小分けされたチャーハンだとか、豚肉とピーマンの細切り炒めなんかが作られている。人参の他にキッチンに置かれている材料からしてカレーにでもしようと思っていたのだろう。全て時間が経っていて、もうダメになっているようだった。


 世の中では石化が進んでいる。


 原因は不明で、人々は石化する。ゆっくりと、体の一部から硬化して、全身が石化する。人から人へ感染するわけでもなく、家に引きこもっていた人であっても石化しているものだから万人にランダムで訪れる現象と化していて世界は混迷を極めている。

 それがほんの一週間で起こったというのだから冗談にもなりはしない。

 出張先では商談相手が石化の途中だった。名刺交換の際、私へ名刺を渡す手が硬化しつつあるせいで上手く動かずギクシャクとしていた。

 彼は「いやぁお恥ずかしい」と私にゆっくりと微笑んだ。

「どうしてこの状態になっても働くのだろう、と思っていたりしますか?」

 彼にそう言われて、少しギクリとする。顔に出ていたのだろうか、と思うが彼はそれを予想していたように言葉を続ける。


「ああ、いえ。会社でも散々言われましてね、なぜ仕事を続けるのかと。辞めても、残りを好きに生きても良いと」


 そうだ。石化現象が世界で頻発してから仕事もろくに回らなくなっている。明日死ぬかもしれない世界で、数年先、数十年先の未来のために働く人は多くなかった。


「それで、こうしていらっしゃるんですか」

「ええ、ただ私はこうすることが好きだったんです」


 そう言って、もう一度彼は微笑んだ。




 そうして仕事を終えて、私は大急ぎで家へと帰ってきた。夫はもう石化していた。

 私はただ好きで仕事を続けていた。

 私が働き続けたのはこの生活を大切に続けたかったからだ。

 私が働き続けたのはただあなたとの未来を守り、日々を過ごしていきたかったからだ。

 私は自分が好きに働いて、あなたと明日も明後日も続いていく日常が大好きだっただけだ。

 それだったのに、あなたは私をおいて一人で石化してしまっている。

「どうしてこうなってしまったんだろうねえ」


 私の体の動きが遅くなる。爪先はもう石化していて、遠くまでは歩けない。

 あなたが食事を作っていたのは私と今よりも先を過ごしていこうとしていたからだ。帰ってきた私と、同じ時間を過ごすためだったからだ。


「いや、もしかしたら私だけに食べさせようと作り置きをしていたのかな」


 それももうわからない。あなたは硬化しきっていて、私も直にそうなる。


「包丁の持ちかたがなっていないよ。ほんとう」


 私と暮らすまでろくに料理をしてこなかったあなたに料理を教えたのは私で、それ以来あなたは私よりもずっと料理をしてくれたのだけど、それでも全然なっていない。もっと、もっと私には教えたいことも話したいこともあったのに。

 夫の手に触れて、私がまな板の人参をうまく切れるように誘導するように後ろから二人羽織みたいになる。


「こうやるんだよ、こうやって切るの」


 そう呟きながら、全身が硬化していって、ああもういよいよだなと思う。

 最後に思うことは、あなたが作り置きをしておいてくれたのは一緒に食べるにしても、私一人で食べるにしても、最後に私を思って作っておいてくれたということだ。

 ピシリ、と音がして私が固まる。

 全てが静止した時の中で、あなたが私との未来を思い描いていてくれたことだけが、ただ暖かくて、ありがたい。〈了〉

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