サイドストーリー その3

 その日も私は教室で数学の問題を解いていた。私の趣味の一つだ。しかも実益にもなる。おかげで私はいつも数学の成績は学年トップ。もう中学で学ぶ内容は全部把握してしまった。今は高校の数学にチャレンジしている。みんなが二次関数で四苦八苦しているときに、私は三次方程式や三角関数の問題を解いていた。


 難しい問題だと、解けただけでもすごく嬉しい。それに、他の科目と違って、数学は解き方がいくつもあるのが面白い。私は一つの問題が解けたら、その他の解き方を考えるのが好きだった。塾の先生が言ってたけど、よりエレガントな解き方……と言うのかな。なるべく簡潔で美しい解き方を見つけることに、私は熱中していた。


 だけど……


 最近、私の頭を悩ますものが登場した。


 複素数。


 まずこの、小文字の「i」。虚数単位ってヤツだけど、二乗したらマイナス1になるという……


 なんじゃそりゃ。そんなもん、現実にあってたまるか。


 だけど、高校数学ではそれを学ばされるみたい。何のために?


 まあ、一応私だって複素数の計算は普通に出来る。機械的にやればいいだけだ。複素平面の概念も理解できる。


 でも……


 それが一体、何の役に立つんだろう。


 それまで学んできた数学的概念は、どれも、これは何かの役に立つんだろうな、っていう想像がついた。三角関数なんか、考えたヤツはホントにすごいと思う。


 だけど、複素数ばかりは……正直、何の役に立つのか、全然わからない。


 ところが。


 ある日、私が図書室に行くと、私がいつも使っていた数学のテキストがない。カウンターで聞いてみても、貸し出されてはいないという。


 ということは。


 ここで、誰かが読んでいる、ってことだ。誰だろう。


 私はちらちらと机を見て回る。


 あった。


 いつものテキストを開いていたのは……同じクラスの、坂本翔太君だった。もう一人坂本君がいるので、彼はいつも下の名前で呼ばれている。


「翔太君」


「……え?」


 びっくりしたように、彼が振り返る。


「あ、瀬川さん」


「それ、高校の数学の本だよね?」


「うん。ちょっと、三角関数と複素数の勉強したくてさ」


「複素数!?」思わず大声を出してしまった私は、そこが図書室であることを思い出し、あわてて口に手を当てる。「なんで、複素数の勉強するの?」


「ほら、ぼく、電子工作部だからさ。しかもアナログ回路専門なもんでさ、交流理論を勉強しようと思って……そしたら三角関数、複素数、微分積分の知識が必要だ、ってことがわかってさ。それで、ちょっと勉強しようと思ったんだよ。だけど……やっぱ難しいね」


 そう言って、彼は苦笑する。


 ……。


 複素数って、役に立つんだ……てか、微積? 言葉だけは知ってるけど、私でもまだそこまで行ってないよ……


「どうしたの、瀬川さん」


 翔太君が怪訝そうに私の顔をのぞき込んでいた。いけない。ちょっと、呆然としてしまった。


「う、ううん。何でもない。交流理論って、なに?」


「電気で、直流と交流ってあるの、知ってるよね」


「うん」


「直流回路は常に一定の電圧、電流が流れるけど、交流回路は電圧と電流が時間に応じて変化するんだ。ほら、このコンセントの100ボルトの電源も、60ヘルツの交流だよ」


 そう言って、彼は壁のコンセントを指さす。


「それでね、ややこしいことに、交流の場合は電圧と電流の変化の仕方がズレることがあるんだ。専門用語で言うと、位相がずれる、って言うんだけどね。そういう場合、複素数を使うと、計算が簡単になるんだよ」


「へぇ……」


 初めて知った。


「だから、ちょっと勉強しようかな、って思ったんだけど……けっこう大変そうだなあ。ま、学校の勉強もしなきゃ、だから、ボチボチ勉強してくよ……あ」


 そこで翔太君は、バツの悪そうな顔になる。


「ひょっとして、瀬川さん、この本探してた……?」


「ううん。いいよ。家にも同じ本あるから」


「マジで!」翔太君の目が、まん丸になった。


「お兄ちゃんが買ったんだけど、もういらないからって私にくれたの。でも持ってくるのめんどくさいから、ここで読んでただけ。だから、いいよ。翔太君が自由に読んで」


「そうなんだ……この本、理解できるの?」


「まあ、今のところ、半分くらいはね」


「すごい……」翔太君が目を見張った。


「すごくないよ。私、それくらいしか取り柄がないんだもの。じゃあね、翔太君」


「あ、ああ……じゃあね」


 私は図書室を後にする。


 そうか……複素数って、実際に役に立つんだ……


 ようし。家に帰ったら、早速複素数の問題解くぞ!


 それにしても……


 翔太君って、ちょっとオタクっぽいかな、って思ってたけど……意外に、爽やかだったな……


 しかも。


 彼は、ちゃんと自分のしたいことに数学を役立てようとしている。私みたいに、ただ好きなだけで数学やってるわけじゃない。


 私、数学で何がしたいんだろう……


---


 その日の技術家庭は、パソコン教室での授業だった。プレゼンテーションソフトの使い方。この授業で一番生き生きしてるのは、やっぱり翔太君だ。彼はとにかくタイピングが早い。自分のノートパソコンを持ってるんだから、当然だと思うけど。いいなあ。私も自分専用のパソコン欲しいなあ。家ではパソコンもスマホもタブレットも全然使わせてもらえないからな……


 速攻で自分の課題を終わらせてしまった彼は、他の生徒たちの「教えてクレクレ」リクエストで引っ張りだこになっていた。忙しそうにあっちこっち飛び回っている。


 ……あれっ!? なにこれ?


 私、変なキー操作しちゃったんだろうか?


 スライドに文字入力してたら、いきなりそれまでに作ったスライドが全部表示される画面になっちゃったよ……


 これ……どうやって戻したらいいの?……


「ん? あ、それ、スライド一覧画面だね」


「!」


 後ろを振り向くと、翔太君だった。


「これさ、『表示』メニューの『プレゼンテーションの表示』にすると……」


 言いながら、彼は私の使っていたパソコンのマウスを、すいすいと操作する。


「ね? 『スライド一覧』になってるでしょ? 編集画面にしたいときは、『標準』をクリックすればいい。ほら、戻った」


 画面がさっきまで私が見ていたものに戻る。すごい……ちらっと見ただけで、そこまでわかっちゃうんだ……


「あとは、文字編集だったら、この『ホーム』を押して、文字編集用のリボンを出せば完璧だよ。でもね、実はもっと簡単なやり方があるんだ」


 そう言って、彼はまた矢継ぎ早にマウスを操作して、スライド一覧画面を表示させる。なによ……せっかく戻ったのに……


「ほら、ここ。枠で囲まれてるだろ? これが今編集していたスライド。だから、これをダブルクリックすれば……ほら! 一瞬で戻るだろ?」


 あ……ほんとだ。


「こっちの方が、エレガントだよね?」


 ……!


 思わず、私は翔太君の顔をのぞき込む。


「ほら、数学の解答みたいにさ、パソコンの操作もいろいろ複数のやり方があるんだよね。ぼくはいつも、一番エレガントなやり方でできればいいな、って思ってるんだ」


 ……それ、私の、数学の問題に対する考えと同じだ……


 彼を呼ぶ声が、後ろの席から聞こえた。


「おう。今行く」


 翔太君はそそくさと声のした方に向かう。私は、課題の作品を作るのも忘れて、その姿を目で追っていた。


 なんだろう。


 今の、すごくオタクっぽかった。だけど……


 めちゃくちゃ共感してしまった……


 私、オタク女、なのかなあ……


---


 それ以来、私は翔太君のことが気になるようになってしまった。気づけばいつも、彼を目で追っている。


 でも。


 最近、知ってしまった。


 彼がいつも目で追っている、女の子がいる。


 高科 瑞貴。


 彼女は彼と去年も同じクラスだった。ピアノの天才。私とは幼なじみだ。昔は仲良しだったが、今は全く没交渉になってしまっている。冷たい感じのいつも無表情な、だけどとても綺麗な顔立ちの子。


 クラスの中ではかなり浮いた存在になってるけど、いじめの対象にはなってない。たぶん、いじめても常に無表情で反応が薄いから、いじめる側の張り合いがなくなってしまうのだろう。そしてそれは、彼女が過去に身につけた、彼女なりの処世術だ。


 そう。私は知っている。本当の彼女は、繊細で、優しくて、でもちょっとお茶目な女の子。繊細すぎて傷つきやすいから、本当の自分を鉄面皮の中に、完全に隠している。


 私は彼女が好きだった。今だって、出来ればまた仲良くしたいと思ってる。でも……彼女は、せっかく心が通じかけたときに転校してしまった私のことを、恨んでいるかもしれない。実際、今年は同じクラスになれたのに、今までほとんど話をしたことがない。


 そう。ほんとに、いい子なんだよな……翔太君、いい趣味してるよ……


 だから……悔しいけど、あきらめた方がいいのかな……私、瑞貴には勝てる気しないからな……


 でも、こうして彼のことを目で追ってるだけなら、別にいいよね。

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