第53話 夢を夢でしておくのは楽しいけれど、現実にしてしまったほうがもっと楽しい。
一方私の方だが。
兄貴達には今までとまるで変わらない私、という奴を見せつけるがごとく動き回っていたりするのだが、水面下ではまた別の動きをしつつあった。
その一つが、引っ越しである。
*
「家賃もっと安くしようよ」
とサラダが提案した。
そこで私達は、更新時期でもあったことであるし、と2DKくらいの広さのアパートに引っ越すことにしたのだ。つまりは同居することにしたのだ。
だいたい今までだって、結構同居していたみたいなものだ。隣同士だし、よく一緒に食事していた。
無論同居はそれだけではない。つまりは台所とトイレと風呂が一緒なのだ。朝起きて夜寝る時に相手がこの部屋に居るのだ。そこで一応、プライバシイを考えて、二部屋プラス共同部分、という感じの部屋を探したのだ。
家賃は格安だ。何ったって、築三十年以上経っている物件である。一部屋の作りや、「ユニットバス」な部屋の広さが尋常ではない。
ユニットバスというと、だいたいあのホテルにある、トイレと風呂がくっついているものを想像するだろうが、この場合は違う。単に水回りが一つの部屋に入ってしまった、という感じで、台所と同じくらいの大きさあるのではないか、と思える。
さすがに床のタイルは古い。壁のタイルも、昔通った学校のそれを思わせるが、大家さんがなかなか太っ腹なひとで、「綺麗にするなら改装してもいいよ」と言ってくれた。お言葉に甘えて、いずれはこの風呂場/トイレの壁をクリーム色に一面塗り替えてやろう、とサラダと画策している。
どん、と置かれた浴槽のそばには大きなすのこを置いた。トイレとの間にはカーテンを吊った。
キッチンも、今までよりずっと広い。さすがに古いだけあって、給湯器もついていないのだが、まあそれは後で何とかしよう。
私が持ってきたタイルつきのワゴンは元々の役割である調理台兼、に戻り、二人して行った中古家具屋で買ったテーブルと椅子を置いた。椅子は揃いではない。だけど一緒に置くと、サラダが塗り直した色合いのせいだろうか、結構まとまって見える。ペンキ塗りの腕も、慣れたものだ。
引っ越した日には、さすがにその日から料理を作ろう、という気力が起きなかったので、「CUTPLATE」まで食べに出かけた。生活費を切りつめようというのに、最初から外食というのも何だが、そもそも切りつめようという目的が、カフェを本当に作ってしまおう、ということからなのだから、そう無駄でもあるまい。
夢を夢でしておくのは楽しいけれど、現実にしてしまったほうがもっと楽しい。そうサラダは言った。だから一緒にやろう。お金貯めて、場所借りて、内装を思い通りにして。
そんな訳で、まずは先立つものだったのだ。
しかし私は一介のOLに過ぎないし、彼女はフリーターだ。この都会で一人暮らしをしている以上、それだけてお金がかかって、貯金どころではない。
ところが二人暮らしになると、まず家賃ががくん、と下がる。その上に古い物件なら尚更だ。
私達は、それまで一人で出していた家賃で、二人で充分広々と暮らせることになったのだ。古さは、改造次第で何とかなる。それこそ未来に作るカフェの内装の予行演習だと思えばいい。とにかくそれで、月に二人で5~6万は浮く訳だ。
そして公共料金。電話の権利の解約はしないが、それでも話相手が常に居る、ということは、必要以上の会話の相手を外に求めなくていい訳で。ガスや電気代水道代も、どう考えても、一人の時点より割安になる。
そして食費。これもそうだ。一人分作るよりは、二人分作るほうが楽なのだ。まとめ買いも可能だし、ごはんだって、たくさん一度に炊いたほうが美味しい。
兄貴がちょくちょく誰かと同居していた気持ちも分からなくはない。
彼は人の居る気配、という奴には鈍感だったり、もしくはそれを心地よいと思う人種だ。
私も彼ほどではないが、それが大丈夫なタイプで本当に良かったと思う。いや、正直言えば、誰かと一緒に居たいのだ。私という人間は。
「一月に家賃分で六万。その他で銘々持ち出しで何とか、四万で、まとめて十万貯めようよ」
通帳はミサキさんの名義にしておいてね、とサラダは言った。
「何でよ。共同出資するんだから、そういう名義を作ればいいじゃないの」
「だって作るあかつきには、あたしミサキさんがオーナーになって欲しいもん。あたしはそうゆうタイプじゃないもん」
「タイプってねー」
「ともかく、ミサキさんが持ってるほうが安心なんだってば」
そう言われたので、私はとりあえず、郵便貯金に新しく口座を開いた。不況だ何だで、何処の銀行にしたものか、とつい考えた結果だ。
「で、あたしがボーナス期に二、三十万はいけるね」
「そんなに出せるの?」
サラダは目を丸くした。
「普通の企業ってのは、案外出るもんよ」
「だからOLさん達って、海外旅行とかぽんぽん行くんだあ」
へえ、と彼女は肩をすくめた。
「そう。だからさ、月給そのものはフリーターもそう変わらないんだけど、正社員の特権ってのはそこにある訳よね。福利厚生とボーナス…… そーいえばサラダ、ちゃんとあんた、健康保険料、払ってる?」
「払ってるよぉ!」
なら良かった、と私は笑った。
「病気にはかからないようにしてるけどね」
「そういうもの?」
「そういうもの。かからないって思ってれば、かからないってば」
確かに彼女が風邪一つ引いたところ見たことが無いが。
「っとじゃあ、年間に、単純に十二ヶ月だから、120万、とボーナスにいくらかプラスして」
「でもボーナスのほうにあまり期待したくないよ。不公平じゃない」
「あたしは出せる立場なんだからいいよ」
「ううん、それはそれ。だからまあ…… 年間、150万は貯められる、かな。上手く行けば」
「上手く行かせなくちゃ意味がないでしょうが」
多少嫌みまじりに言ってやったが、彼女は真剣に紙の上で計算をしている。確かにあまり計算は得意そうではない。何処の小学生が計算してるんだ、って大きさで筆算をしていたりする。私はそんな姿につい見入ってしまう。
「えーと、じゃあとんとんと上手くいったとしたら、二年で会社作るための資金はたまるね」
「そうだね。だけどそれだけじゃあ足りないから」
「うーん」
目標は、三~四年だろう、と私達は予測をつけた。その間にやることは山ほどある。それも仕事の合間だから、目も回る忙しさだろう、と予想された。
「あたしカフェのバイト、どっかで仕入れてみるからね」
「じゃああたしはもう少し、ちゃんと料理のほうを何とかしなくちゃね」
必要な知識。体験。そして資格。そう言ったものを、私達はチェックし始めていた。
不思議なもので、そういうものができると、普段の仕事でどれだけ面倒だろうが厄介だろうが、とりあえずそれを横に置いておくことができる。
ああそうか、と私はようやくその時思った。
兄貴のように強烈なものではない。だけどそれは確かに、兄貴の音楽とよく似たものだった。大切な、ものだ。
それがあれば、足元がふらつくことが無い。そんな、たった一つの大切なものなのだ、と私は最近判り始めていた。
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