第47話 「あそこであたしは、窒息していたから」

「嫌いだからよ」

「どうして」

「あそこであたしは、窒息していたから」


 窒息しそう、ではない。していた、と彼女は言った。


「最初は、小学生の時だったよ。教師は自分の体面のほうが大事で、あたしをたった一つの質問からずっと、嫌っていたよ。そんなの、態度で判るよね。今のあたし達くらいの年齢の教師だったよ。男で」


 あの時コーヒーショップで言ってた。電流が流れるっていうのはおかしい、と反論したサラダの子供の頃。彼女は口元を歪めた。


「大人げないよね。子供が怖かったんだよ、その教師。だからあたしを嫌うように、同じクラスの連中をたきつけたんだ。別に、嘘を吹き込んだ訳じゃあないよ。でも確実に、皆あたしを嫌いになってった。そりゃそーよね。あのくらいの、今じゃなくて、あの頃の小学生ってそうじゃん。先生が何だかんだ言って、結構左右するじゃない」


 それは。私はそのあたりをするすると逃げたが、確かにそれは、感じられた。今ではない、同じ時代。


「だんだん遊んでくれる友達もなくなって、あたしは学校に行くのが怖くなったよ。だってそうじゃない。授業では先生にできないと判ってることを指されて、できなければなじられてさあ。そんなこと、当たり前だっちゅーの。でもそんなこと、今なら判るよ。だけどその頃のあたしに判る訳がないじゃない。それを誰かに言おうと思っても、誰も聞いてくれない。誰も、よ?」


 四面楚歌、という言葉がぱっと脳裏に浮かんだ。


「とうとう学校に行きたくない、って泣いてわめいたわよ。家でも。だけどそれをどうしてもさせてくれなくて、母親は引きずってまで、あたしを学校に連れてった。だからあたしは学校に行ってから逃げる方法を考えた。だけどそれを学校が母親に言うのよ。そうすると今度はそれをさせないように監視がつくのよ。朝から晩まで!」


 そんな話、誰が普通、聞きたい? と彼女は苦笑する。続けて、と私は彼女の肩を掴んだまま、促した。


「逃げ場が無い、と思った。だから、逃げるにはこれしかない、って……」


 彼女は言葉を切った。


「三階の窓から、飛び降りたのよ」


 私は思わず目を見開いた。


「……って」

「あたし、生きてるでしょ?」


 彼女は笑った。どうしてここで笑えるのだろう。


「だけど、それで終わりじゃないのよ? 確かに事件が起きてしまったから、教師のやってたことは、上の連中、校長とかね、結構判ってきたみたい。だからその教師はクビになったのよね」

「それは…… 良かったっていうことよね?」

「それ自体、はね」

「まだあるの?」

「あるの。って言うか、それが始まりよね。確かに教師はいなくなったわ。だけど、クラスの連中はだから、ってあたしを手のひら返したように仲良くすることなんてできる?」

「ううん」


 私は首を横に振った。できっこない。

 私達の頃にもいじめはあった。そして一度あったいじめられる対象を、これこれこういう訳でそれは間違ってましたから明日から仲良くしなさい、って言ったところではいそうですかと言うことを聞ける訳がない。

 そして大人のように、表面上だけでつきあってくことができる程器用でもない。


「その教師が悪いってことが判ったけれど、だけどそいつも、確かにあたしの中にある部分を大げさに言ってただけなので、大本はあたしの中にあったのよ。でもそれは普通なら見過ごされるとこよ。大げさだから嫌われる。だけど、一度立ったものは修正できないのよ」

「……ずっと」

「そう、ずっと、あたしは小学校で、仲間はずれ扱いだったわよ。三階から飛び降りるなんて、危ない奴、とか何とか言われて、それまでより、下手すると、遠巻きにされて。って言うか、お家のほうが、できるだけあの子とは付き合ってはいけませんって言ったみたいよねー。不安定な子と居ると不安定になるって。確かに不安定だったわよ。誰のせいだと思ってるのよ」


 彼女の目がぎらぎらと輝いてきた。


「それでも小学校は、何とかだましだまし行ったわよ。だけど中学校はもう駄目。本当に駄目。田舎だったから、幾つかの小学校が集まって、中学校一つになってたんだけど、周りの小学校から来た子は、そんな詳しい事情なんか知らないじゃない。もう始めっからあの子は危ない、って自分達の噂でも、親からの話でも聞いててね。一学期、保たなかった」


 どう言っていいものか、私は困った。


「今だったら、引きこもり、っていうのかなー。外に出るのが、怖かったよ」


 今の彼女からは、想像ができない。


「心地よかったのは、自分の部屋の中だけだった。食事とか風呂とか、そういうのは仕方ないから、家の中歩き回ったけれど、できるだけ親とも顔会わせたく無かった。だってあの時、何もしてくれなかった。逆にあたしを疑った。あたしを守ってくれなくてはならない人達なのに、あたしを見捨てたのよ。聞こえが悪いから、って」


 きちんとしているという母親の姿がふと目に浮かぶようだった。手を綺麗に保っているという。


「でも自殺もできない。だって今度失敗したら、もっとあたしは絶望することになるじゃない。どうしようどうしよう、って毎日毎日考えてた。本当に、毎日毎日、よね。運動不足だから、ろくに食欲も湧かなくて、痩せちゃったわよ。それでいて、二の腕だけぷよぷよになったりしてね」


 笑えない冗談だ。


「二年、そんな生活してたのよ。退屈だから、教科書ぱらぱらしていたし、本は読んだから、国語とか社会とかはまだいいけど、人に教わることができないから、数学とか理科とかもう駄目よね。あたしの理系ってそこで終わってるのよ。でもおかしいよね。あたし今の生活で、それで困ったことなんてないよ」


 彼女は笑った。半ば誇らしげに。


「ホント、筋肉思いっきり落ちたのよ。……ホントに、外に出るのが、怖かった」


 ぽつん、と彼女は言った。


「ところが、よ」


 そして顔を上げた。



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