第45話 「それじゃあ、駄目なんだ」

「お帰りなさい」


 と扉を開けた彼に、私は言った。あれから会社に行って、だけど定時で帰ってきた。買い物をして、食事を作って。

 待っていたという訳ではない。ない、と思う。


「ただいま帰りました。ごめんなさい。連絡しなくて。心配した?」

「まあね」


 私は苦笑した。


「休んだの?」

「まさか。でも定時で切り上げたのはホントよ」

「ごめんなさい」


 めぐみ君は軽くうなだれた。彼は私が結構いつも残業していることを知っている。

 別に残業が好きだとは思っていないだろうが、定時で帰るのが厄介な場所だ、ということは判っているのかもしれない。


「まあいいわ。それより、せっかくあたしも早いのだから、ごはん、つきあってちょうだいよ」


 私は立ち上がり、温めるだけにしていた料理に手を出す。コーヒーメーカーをセットする。


「美咲さん」

「ごはん食べてきた? じゃあ、お茶だけでもいいのよ。コーヒー入れるから」

「美咲さん!」


 引き止めるような声。私はゆっくりと振り向いた。でも今は、それ以上言わせたくはない。


「いーい? とにかく、食事なのよ」


 私はそう言うと、何度かレンジを鳴らした。

 彼はテーブルの脇に立って、私の様子を眺めている。背を向けていても、それは判る。

 私は自分の側に、ご飯とおかずと、何品か並べて、彼の前にカフェオレを置いた。彼は黙ってしばらくそれをすすっていた。

 今日は和食だ。ひじきの煮物に、魚の西京焼き。みそ汁はやっぱり赤だしに限る。

 赤だしの香りとカフェオレの香りが混じると、奇妙なことは奇妙だ。


「出てくって言うんでしょ?」


 不意に私は言ってみた。彼ははっと顔を上げた。

 不意打ちくらい食らわせたっていいじゃないか。私の手には相変わらず箸が握られたままだったし、手には茶碗もあった。

 だけど彼はうん、と即座に返していた。


「そんな気はしていたけど」

「そう?」

「そう。帰ってきた時、そう思った」

「何で?」

「何でだろ? 声が」

「声が?」

「声が、弾んでいたからかな」


 彼は首を傾げた。


「めぐみちゃんは、すごく声に出るから」

「出る?」

「あなたを拾った時、何かもう、何をしゃべっていても、どうなってもいい、って感じだったわよ」

「……そう……  だったの?」


 やっぱり気付いていなかったか。


「そう」


 だから私はあえて断定した。

 食事を終えた私は茶碗や皿をまとめた。そしてキッチンでミルクティを入れて、また彼のもとに戻る。ミルクは入れない。そういう気分ではないのだ。


「でも、もういいんでしょ? 何がどうあったのか、知らないけれど」


 私は目を伏せた。あまり真っ直ぐ彼の顔を見られない。めぐみ君はつぶやいた。


「あなたのこと、好きだったよ」

「ありがと」

「本当。そして感謝してる。あなたが居たから、僕は休むことができたよ。何も考えずに、とにかく、動くことができた。暖かくて、気持ちよかった」


 どうして。


「気持ちよかったなら、ずっと居れば、いいのに」


 どうして、それでは駄目なのだろう。


「でもそれは駄目なんだ」


 彼はカフェオレのカップを置いた。聞きたくない言葉が近づいて来るのを私は感じた。


「それじゃあ、駄目なんだ」


 彼は繰り返す。顔を上げた私の視界に入ったのは、それまでとは違う視線だった。


「学校に、ちゃんと行き直すよ。……思い出したんだ」


 思い出した? ああそうか。彼はもともとデザインをやりたくて上京してきたんだ。兄貴のせいで、遠回りしてしまったけれど、軌道を戻そうとするんだ。

 彼はバッグを引き寄せると、中から一枚のCDジャケットをとりだした。テーブルの上に乗せ、私の前に押し出した。綺麗な、写真を加工したデザインだ。


「これ、あなたが持ってて欲しいんだ。前に僕が作るつもりだったもの。もう用は無いだろうけど、僕は」


 彼は言葉を探しているようだった。私もその言葉を待った。待つしか無かった。


「ケンショーのように、ああいう風に、自分の中から、わき出てくる様なものは、僕には無いし、それは歌じゃなかったし…… でも、僕は、そこにこうやって『はじめからそこにあるもの』を、並び替えて、別の形に置き換えることはできる…… かもしれないから」


 はっ、とする。そこにあるもので。

 そういう方法で。人の作ったものを利用して、置き換えて、並び替えて、その並び替えという作業そのもので、自分を表現する、ということもあったのか。

 私はそのCDジャケットを手に取る。


「めぐみちゃんが、作ったの?」

「うん。これが僕の、今の精一杯」


 彼は微かに笑った。


「別にCDジャケの専門になる訳じゃあないけれど…… どんなものをするつもりだか、判らないけど、こういうのが、好きだってことは思い出したんだ。誰に言われるでもなく、好きだったってこと。だから」

「もういいわ」


 ひらひら、と私は手を振った。……聞きたくない、と思った。だけど顔は、あえて笑顔を作ろうとする。顔がこわばっているかもしれない。のよりさんの時よりずっと。

 あのひとの時は、私がそれでも甘えることができた。だけど彼の場合は。


「だったら、そうよね。あなたもうここに居ることはないわ」

「美咲さん」

「あたしは、守ってやれる子が好きなのよ。あなたもう、そうじゃあないわ」


 そう言って、にっ、と口元を上げた。大げさなまでに。


「兄貴に、渡してもいいの?」

「どちらでも。美咲さんの思うように」


 その言葉で、既に彼が、兄貴のことが過去になりつつあるのに気付いた。

 彼は知っているのだ。兄貴はこれを見ても別段自分を追わないだろうということを。既に他人なのだ、と。


「考えておくわ。いつ出てくの? 行き先は?」

「とりあえずは、友人のアハネって奴のとこに転がり込んで…… でも長くはいない。すぐに部屋見つけますよ。学費稼がなくちゃ。どこの単位の分からか忘れたけど、まずその欠けてる部分を探して」


 ああ、現実的な問題まで考えてるんだ。


 考えに沈み込みそうな彼の前に、私はとん、とグラスを置いた。冷蔵庫から、イタリアのワインを取り出す。

 サラダが来た時に時々出すのだ。そうだねあんたの言った通りだ。この子はこうやって、私の手の中から飛び立って行ってしまう。

 それがいいことだ、と判っていても。

 私は軽く酔ったふりをして、彼にこう言った。


「せっかくだから、おねーさんにキスの一つでもちょうだいな」

「そうですね」


 彼はふっと笑った。


「僕は、美咲さん、好きだったよ」

「そういう言葉は、安売りしちゃだめよ」


 でも知ってる。この子はそういう言葉を安売りはしない。

 そして好きだとしても。それでもその「好き」は、あくまで、それだけなのだ。


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