第20話 疲労は蓄積する。
忙しさが一段落ついた年明け、上司が私を呼びだした。
簡単な面接という奴だ。私はこれが好きではない。鬱陶しい。まあ好きなひとはいないと思うのだが。
この上司というひとは、悪いひとではない。歳の頃は三十代後半の妻子持ち、人当たりは穏やか。私達OLからしてみたら、「ラーメンをおごってと頼めば、少し苦笑しながら連れてってくれる」タイプだ。実際後輩OLちゃんは連れてってもらったことがあるそうだ。
私は、と言えば、彼女より誘われる率が低い上に「ガードが堅い」ので、あまり会社の男達と食べたり呑んだりする機会も無い。まあそれはいい。問題はその上司だ。
穏やかな口調で、言うのだ。
君はこの先ここで何をしたいの?
何を言いたいのだろう、と私はこのひとが問いかけるたび、いつも思う。
奥歯に物が挟まっている。
一人暮らしなんだろう? 今の給料で足りているのか?
足りてますよ、足りているように生活を工夫しているのだから。
だけど彼は言う。
もっと大きな部屋に引っ越したいとか、服を買いたいとか海外旅行に行きたいとか、そういう望みがあるだろう?
かちん、と来る。決めつけるなよ、と。
確かにそういう望みが無い訳じゃない。今の部屋も決して拾い訳じゃないし、海外どころか国内だってあちこちにそうふらふらと行ける訳じゃあない。だけどそれはあんたに言われることじゃあない、と。
そうしたかったら、もっとちゃんと仕事やってる態度を見せてくれよ。
だから何を言いたいのだろう。私は自分に与えられたことはやっているつもりだった。元々成果が飛び抜けて良くてどうの、ということではない仕事なのだ。それ以上を望まれても困る。
けどまあ君はまだいいよ。あの子なんて見てると甘すぎて、時々怒鳴りたくなってくる。
私の一つ上のひとのことだ。
こっちが仕事多くてなかなか家に早く帰れないのに、あっさり定時で帰ったりしてしまうだろ。会社を甘く見てるんだよな。そりゃあ確かに自分の仕事はやってるかもしれないけど。
うんざりする。
ああはならないでくれよ。彼女はもう結構長いから、今更言ったって無駄だけど、君はまだそう長くはないから、今のうちに言っておくんだ。そうそうあのひとは凄いね。仕事に前向きで。
ボス的OLの彼女の名を出す。私は微妙に目を細めた。話の間中、私はなるべく表情を変えないか、笑みを作っていた。まあ確かにそうだ。あのひとは、前向きだ。
そりゃあそうだ。彼女は会社というところと、その仕事が好きなのだから。
好きでなくてはああも色んなことに、部署に、足を突っ込もうとはしないだろう。子会社とは言え、親会社とのつながりが全く無い訳ではない。彼女のデスクマットの中には、そんな親会社の知り合いの名刺がたくさんはさまっている。社内のオンライン化にも何かと口を出す。非常に立派な姿勢だ。
かと言って、私はああなりたいとは思っていないのだ。ではどうしたいか、と言ったら、答えらしい答えは出ないのが辛いところで。
こういう時、つい兄貴のことを思いだしてしまう自分が、悔しかった。
彼には音楽がある。音楽しかない、と言ってもいいけれど、でも、音楽がある。音楽さえあれば、あとのことはどうでもいい。私のようなこんな堂々巡りの考えとは彼は無縁だ。
彼にとって、未来は今日のつながりなのだ。だから今日をつまらなくないように、と生きてるように思える。
私の上司など、見えない将来のために、とりあえず今を犠牲にしろ、というタイプだ。
でも私は知ってる。そんなことをして、今日をどれだけつまらないものにしてきたか。そしてやってくる未来において、それは後悔に他ならない。
サラダの部屋で、あんたこんなもの聞いてるの、と驚いた、実にメジャーでメジャーでメジャーなアーティストがこう歌ってた。
譲れないものを一つ持つことが本当の自由。
そういう意味では兄貴は自由だ。そして私はずっと不自由なままなのだ。何か一つ、そんなものがあれば。
だけどそれは見つけようとして見つかるものなのだろうか?
よく「彼氏が欲しい」という理由で恋の相手を捜す女の子を見るけれど、その問いに似ている。
……そんな堂々巡りの考えを、会社で、上司やボス的OLさんを見るたびに思い起こしてしまい、それだけで疲れてしまう。彼や彼女がそこに居ないとほっとする。
できるだけ、できるだけ仕事はさっさと切り上げて帰りたい、と思う。
一人になりたかった。会社という空間が、重いのだ。なのに、そういう時に限って忙しかったり、ミスをして、その修正に時間が掛かる。ああ全く。
帰ると真っ暗な部屋。安心する。
誰も私のことを考えていない。そんな一人きりの空間に帰ると、すごくほっとする。
誰の声も、私のことを考えていない空間がひたすら嬉しい。
ヒーターをつけて、ホットカーペットをつけて、しばらくその上に、着替えもせずにごろごろと転がる。
つけたほっぺたがじんわりと暖かくなる頃、重い体をゆっくりと起こして、コーヒーを入れに行く。食事は途中のコンビニで買ってきた弁当。それもレンジに入れて。
温まる間に部屋着に着替えて、コーヒーが入るのを待つ。少し濃いめのコーヒーにはミルクと砂糖をたっぷり入れる。TVからはニュースが流れてくる。不吉なニュースならスイッチは切ってしまう。
うるさい。聞きたくない。
食事を終えたら風呂を用意して、ゆっくりとそこで時間を過ごす。
なるべく楽しいことを考えよう。
少なくとも会社のことなんか考えない。将来のことなんて、もっと考えてはいけない。
楽しいこと楽しいこと。ああそうだこんどの休みには何処に行こう。兄貴のバンドのライヴはいつだっけ。のよりちゃんもずいぶんと慣れてきたよな……
眠りに落ちそうになるのを必死でこらえて、温まった体が冷めないうちに、ベッドに入る。疲れている身体と頭は、とっとと眠りに入ろうとする。
だけど、ヒーターを切った部屋は、時間が経つにつれてどんどん冷えていくから、時々不意に私の足やら腕を凍らせる。
どうしてこんなところが冷たいのか判らない。
二の腕だったり、足先だったり、いくら身体を折り曲げて他のところで暖めようとしても、駄目なのだ。羽毛ふとんは身体の熱を逃がさないはずなのに、ひどくすかすかとして、寒い。
寒いのだ。
誰か。
思わずつぶやいている。
誰でもいい。私をすっぽりと、抱きしめてほしい。
抱きしめてくれなくてもいい、せめて、私に、触れて。
体温を。何処でもいい。分けてほしい。
寒くて、仕方がないの。
どうしようも、なく。
昔の彼の手を思い出そうとする。だけど、思い出せない。彼は私を抱きしめてくれたことはあっただろうか?
眠りはそのまま浅くだらだらと続き、いつ眠ったのか判らないままに、朝になり、布団の中に入っていても寒いのならばと私は起きてしまう。
まだ六時とかそんな時間だ。カーテンの向こうの窓が結露している。外はもっと寒いのだろう。
外は暗い。ヒーターをつけて、朝の支度をし、窓辺の花とグリーンに水をやって、寝不足で重い体を私は少しでも温めようと動き回る。
そして疲労は蓄積するのだ。
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