第15話 何で私じゃないの。
それがどういう意味なのか、私はしばらく理解できなかった。
兄貴にそれだけの学校に行かせてあげるだけの余裕、という奴はあったはずだ。彼がこの家を見捨てたなら、それなら今度は私が。
口には出さなかったけれど、たぶんそんな気持ちが私の中にはあった。
兄貴は戻ってこない、と思っていた。だったらいつかはこの家は私が。
短大なら行けばいいわ。その方が高卒より就職に有利じゃないの?
そうだな別にお前にどうこうしろと言わないから、自由にやってみろ。
ちょっと待て。
私はその時どう答えたろう?
ただ判っていたのは、彼等は私に何の期待もしていなかったということだ。
どれだけ成績が良かろうが、何の問題も起こさない子でいようが、それは別に彼等にとって大した問題ではなかった、ということだったのだ。
私の性格を知っていて、その上で、私に自由に、好きに生きてみろと言ったのかもしれない。
人に動かされるのは嫌いだ。それは常々言ってきた。言わなかったとしても、態度に出る。外面はいいけど、内心という奴が。
それはいい。それは。だけど。
そして彼等は言った。
お兄ちゃんが帰ってきたらねえ。
ノリアキの奴、何をやってるんだ全く。
忘れてはいないのだ。いつか帰ってくる、と思っていたのだ。
私がとうの昔に見切ってしまったことを、いつまでもいつまでも思っている。
いつかはこの故郷に帰ってきて、彼等の思う「真っ当な」生活をすると、できると信じている。
どうしてそんなことを信じられるのか判らなかった。
彼はそんなことできやしない。できないことが判っているから、背水の陣、それしかない所に行ったのではないか。
どうしてそれが判らないのだろう。彼は私と違う。あなた達と違う。違うんだ。
私はそれをもう口にはしなかった。言っても無駄だ、と思っていた。彼等は親だから、それを願うのだ。きょうだいだから私はそれを見切ってしまっているのだ。
その時、彼等に対して何かが自分の中で切れる音を聞いた。
ああそうだ。
別に格別に努力をしていた訳ではない。優等生でいることも、何の問題も起こさないことも、私の性には合っていたのだから、努力してきた訳ではない。
だけどそれをいいことに、冒険の一つもしなくなっていた自分が居た。できなくなっていた自分が居た。
してしまえば。
そしてまずいことが起きたら、家に迷惑がかかると。
ただでさえ兄貴のことで頭が痛いだろう両親にそれ以上の厄介ごとを抱えさせたくはないと。
そんな理由をつけて、自分で自分の手足に枷をつけてきた。
自分の四畳半の部屋で、机に向かって、私は唇を噛んだ。
だけど振り下ろした拳は、机の上で寸止めにした。
気付かれるな。
悔しいなどと、考えているということを。
気付かれるな。
彼等には気を許すな。
私は彼ほどに彼等には思われてはいないのだから。
声を殺して、泣いた。どうしようもなく、涙が机の上でぽたぽたと落ちた。
止められなかった。
彼等に気を許すな、と自分に命令するその一方で、どうして自分ではないのか、と叫ぶ自分が居た。
何で私じゃないの。何で兄貴なの。
いつだって。いつだって。いつだって。
本当は、壁に全身を打ち付けたい程の、悔しさがあった。
手も、打ち付けてしまえば、その痛みで、少しは救われると思った。だけどそれをしなかった。できなかった。
まだ私の中で、それはうずいている。
痛めつけてくれ、とわめいている。
凶暴な衝動。兄貴の言う「化け物」とは違うけれど、私の中にもある、どうしようもない、衝動。
その後の三年、私はこの家で居候の様な気持ちで居た。
出て行く日を待った。無論自分で四年制へ行くと言う手もあっただろう。
短大に行く程度の余裕はあったのだから、後の二年を自力で稼ぐ、という手も。
ただ私にはその気持ちは無かった。そもそも大学に進学して、勉強したいものというものも無かった。
そこは「行くもの」だった。行って、そしてそこで何をしたいのか見つけるところだ、と思っていた。
でも違った。だからもう、行く意味は見つけられなかった。
私は短大に進学した。やっぱりしたいことは見つけられなかった。
だが就職活動だけは真面目にやった。そうすれば、この家を出て行く口実がつけられた。口実は必要だった。それが私なのだ。
兄貴には口実も何も無い。彼はそうしたいから、そうしたのだ。彼の意志は、彼の行動そのものだった。
私には「そうしたい」ものは彼の様には無い。
「居たくない」から出るだけで、「出たい」訳ではないのだ。
ただそれは口にはしない。
口にするとそんな考えは良くない、と友達は言ってきた。
教師も言ってきた。
お前ってそんな無気力な考え方してたっけ。
当時のつきあっていたひとも言った。
そんなこと言われても、困る。
何でそれではいけないのか、誰もその答えを持っていないくせに、そんな消極的な発想は良くない、という。
そんなこと言われても困る。
私はそんな風にしか考えられないのだ。
もしそれがいけないと言うならば、私にそれほどに思わせる程の何かをくれ、というものだ。
見せつけてくれ、というものだ。
私の心を、それほどに鷲掴みにして、揺り動かして、離さない程の。
それができないくせに、私に言うんじゃない。
兄貴に関して、一つだけ感心することがあるとすれば、彼が私に何の強制もしないことだろう。
考え方とか、態度とか、そんなことについて、何も気にしないことだ。
私の考えが前向きであろうが無かろうが、どうでもいいと思っているのだろう。
それでいい。
それがいい。
誰も、私のそんな部分まで、入り込まないで欲しい。
本当にこちらを向かせたくて、強引に、引きずり込むような勢いと覚悟が無い限り、そんなことをしないで欲しい。
中途半端な同情やら善意やら好意やら良識やら心配やらは鬱陶しい。
そんなものを中途半端にくれるくらいだったら、無視していて欲しい。
私が欲しいのは。
そこでいつも思考停止する。
それを口にするな、と自分の中の何かが叫ぶ。口にしてしまったらおしまいだ、と。
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