第2話

ガサガサと風圧で耳がうるさい。

髪を切るのが面倒で、伸ばしっぱなしになっていた黒髪が頭の後ろへ持っていかれ、風に吹かれてうねっている。

目は開けていられないほどの風圧に、着ている衣服は薄いしで寒い。

とりあえずと、絵美は空の上から願った。


ーー助けてくれ、と。



百合が「いってらっしゃい!」と手を振った瞬間、手元にあった絵画が尋常ではないほどの光を放った。

それは目をくらますほどの光で、絵美は反射的に目を閉じたのだ。

そして次に目を開いた時は、何故か真っ赤な絵具の海にいたと思ったら、それは次には空色へと変化して、今まで床だと思っていたものは急に形をなくして本当の大空へと変化し、絵美は真っ逆さまに落ちている。

本当なら悲鳴ものであるが、引きつった喉が張り付いて声も出ない。

むしろ悲鳴を上げたところで、誰か助けに来るのだろうか。

だいたいなぜ落ちる羽目になったのか皆目見当もつかない。

母はどこにいったのだろう。祖母の家は。絵画は。


(ーーっ、こんなとこで死にたくない)


「ーーなんだお前、しばらく顔を見せない間に飛び方も忘れたのか」


馬鹿にしたような、けれど優しげな壮年の男の声が聞こえたと思ったら、がくりと身体が固まった。

指先一つピクリとも動かすことが出来ない。


(落下が、止まった…?)


かろうじて開けることのできたまぶたを恐る恐る開くと、息が止まるほど驚いて、心臓は早鐘のようにうるさくなった。

一面の若草色が広がっている。

確かに絵美の身体はもう落ちてはいなかった。

けれど一歩間違えばこのよく手入れされた芝生は、絵美の血で真っ赤に染まっていたことだろう。

想像して、瞬時に血の気が引いていく。


「どうしたアル。その黒髪は?リーネに感化されて色でも付けたか。それになんだか一回り、いや二回り、小さい気が……」


再び聞こえた男の声は、先ほどよりも近づき無遠慮に絵美の髪の毛を持ち上げた。

そして、ドサッと音を立てて絵美の身体は10センチほどを落下する。


「ーー痛っ、た」

「!?…女?確かにアルの魔力を感じたのだが…」


受け身も取れない状態だった絵美は、顔から芝生へ突っ込んでいき、痛さに悶えながらもこれだけで済んだことを喜ばなければならない。

いったい何が起きたのかわからないが、助けてくれたのはこの目の前の男であろう。

先ほどまでの空中遊泳という嫌な緊張感がまだ残っているのか、絵美はよろよろと上半身を起こした。


「いや、すまんっ、若い娘に対して酷い扱いをした!」


慌てたように視界の端にふしくれだった皺のある大きな手が伸びてくる。

それをありがたく掴んで、絵美は立ち上がった。


「いえ、大丈夫です。助けていただいて本当にありがとうございます」


緩く首を振りながら面をあげると、初めて男の顔が見えた。

年老いて色が抜け落ちた白髪に、皺のよる顔はそれでもよく整っていて、おじいさんと呼ぶには失礼な紳士が立っていた。

まるで外国映画にでも出てきそうな初老の紳士は、絵美と良く似た銀の瞳を驚いたように丸くしている。

絵美も正直驚いていた。

あまりに良く似ていたからだ。写真でしか知り得ない祖父。

きっとあの白髪を夕陽のような赤毛にしたら、もっと似るだろう。


「ーー…おじいちゃん?」


思わず絵美はそう口走って、慌てて口を押さえた。

いくら似ていても、祖父はとっくに亡くなっているのだ。

失礼なことを、そう思って謝ろうとした絵美の握られたままだった右手に、先ほどよりも力が込められた。

別に痛いわけでも、特に恐ろしいと思ったわけでもない。

驚いて見開かれていた銀の瞳が、ややあって優しげにどこか嬉しそうに細められた。


「ーー君は、アルフォンスの孫か。どうりで魔力が似ているはずだ」


納得したというように、頷いた祖父に似たその人は、そっと絵美の手を離した。


ーーアルフォンス。


そんな名前、絵美が知っている中で1人しか思い浮かばない。


「ーー…祖父をご存知なんですか」

「ああ、もちろん。君の母親のことも良く知っている」

「母も?」

「ユリだろう?その名はアルフォンスのセカンドネームからつけられたんだ」

「…アルフォンス・ユリウス……」

「そう、ユリウスからユリ。安直だろう?」


確かにと思ってしまったが、名前をつけたのが誰だか絵美にはすぐに分かった。


「祖母は祖父を生涯愛していましたから」


愛おしい娘に、愛おしい人の名前をつけたのだろう。

絵美の言葉に祖父に良く似た紳士は悲しそうに、眉を下げた。


「…生涯愛していた、か。リーネは逝ってしまったのだな」

「……はい、ちょうど1週間前に」


言葉にしたらまた涙腺がはじけそうになって、ぐっと耐えた。

そうか、とただ静かに頷いて静寂が訪れる。

少しの静寂のあと、紳士は聞くのを躊躇うように言葉を紡いだ。


「ーー…アル、アルフォンスは、息災だろうか」


顔を見た時から気になっていた。

祖父に良く似たこの紳士。

祖父も順調よく歳を重ねていれば、これぐらいの年齢になっていたはずだ。


「ーー…祖父は、もう26年前に亡くなっています」


絵美が産まれた年に、入れ替わるように亡くなった祖父を絵美は知らない。

一瞬、目の前の銀の瞳が揺らいだ。

けれどそれも一瞬で、次には優しげな微笑みを絵美に向けた。


「ーー…ちょうどアルがこちら側へ来なくなってからだな。聞けてよかったよ。それだけがずっと心残りだった…だから性懲りなくここへ来ては落胆を繰り返したが…そうか、2人とも逝ってしまったか」


サーと吹き抜けていく風が、大きく絵美の髪を遊んだ。

先ほどまでは周りを確認することさえできなかった絵美は、紳士が背後を振り返ったのに続いて覗き込む。


「ーー…っ……ここは」

「アルとリンネとユリ、3人がこちら側へ来た時の隠れ家だ」


どくりと心臓がひときわ大きな音を立てた。


(…ここは、あの絵の景色だ)


不意に、凛音の言葉が頭を過ぎる。


ーー私は昔世界を超えたのよ。


美しい白塗りの洋館は、美しい木々の中に隠れるように建っていた。

食い入るようにじっと見入っていた絵美は、自分が今おかしな状況にあることを自覚せねばならなかった。

祖母の家はここにはない。

母もここにはいないだろう。

落ちてきた空を見上げた。

それはどこまでも青く、青く、どこにでもあるような空なのに、ここはいつもの場所ではない。

凛音が何度も口にした、世界の名がある。

ただの不思議なお伽話ほどにしか、考えていなかった。


「君がアルの孫で、ユリの娘であるなら、私は君を保護する義務がある」

「ーー…あなたは、いったい」

「私はーー」


祖父に似た人。

笑うとしわが増して、優しげだけれどどことなく威厳があった。


「私は、バームバッハ王国、国王アーノルド三世。アルフォンスの双子の兄であり、君の大伯父にあたる。ーーようこそ、ファルファームへ」


歓迎するように、花びらがどこからもなしにヒラヒラと舞い落ちる。


「ーー…ファルファーム…」


何度も何度も凛音の口から聞いた世界の名前だった。

絵美は、紳士ーーアーノルドを見た。

写真でしか知らない祖父に、よく似ているわけだと、納得する。


(ーーおばあちゃん…)


ここは地球ではない。


(ーー…来ちゃった)


ファルファーム、御伽の世界へ。






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