ラストノート1

 年頃の少女が衆人に囲まれた中で粗相をする場面を想像していただきたい。

 同じく年頃の男子が好気の目で舐めまわし、女子からは侮蔑と嘲笑の的にされる。無遠慮なる視姦を一身に受け、どれだけの人間が心に傷を負わずにいられるだろうか。もしチクリとも感じぬぬであればそれは精神異常者か限度のない馬鹿物であり、残念ながら香織はいずれも当て嵌まらないのであった。おまけに、これが最も深刻な問題なのだが、漏らした尿からは彼女が香水と言って回っていた香りと同じ匂いが漂い、むせ返る程の芳香が教室中に立ち込めたのである。つまりそれは香織の社会的死を意味していた。香水と偽り自身の尿を振っていたという倒錯的変態行為の絶対的な根拠を提示してしまったからである。その場にいた全員が香織の香りを知っている。言い逃れなどできるはずもない。


「死ぬしかないでしょうか」


 部屋で丸まる香織は誰かに問うようにぽつりと言葉を落とした。が、部屋には一人。返事があるはずもなく、無音が続く。


 あの日以来、教室で大量の小水を吐き出して以来、香織はずっと部屋に引きこもり布団に包まっている。読みかけの本も、今まで瓶に溜め込んでいた尿も全て捨て、部屋にはまったく何もなくってしまっていた。独房の方がまだ飾り気のある。


 どうして私は他人と違うのかしら。


 布団の中でふと思う。


「どうして私は他人と違うのかしら」


 今度ははっきりと声となり、誰に投げかけるべくもない疑問を口にした。無論、返事はない。


「他人と同じだったら、おしっこの臭いが同じだったら、こんな風にならなかったのかしら」


 レーゾンデートルが揺らぐ。今まで誇らしく思っていた気品高い尿の香りが、今はただ、鼻をつく。

 香織は生まれて以来ずっと付き添ってきた芳しき尿臭に疑問と嫌悪をはじめて覚えた。何故自分の排泄物にはアンモニアの刺激がないのか。何故自分だけ他人と違うのか。そんな事ばかりを考えてしまう。


 もし自分の尿が他人と等しく醜悪なものであればこんな事態にはならなかっただろう。もしそうであれば尿を振り撒く人間にはならなかっただろうし、天花にも尿を渡さなかったに違いない。香織は諸悪の根源を自らの体質に定める以外になかった。全てが尿のせいだと、思う他なかった。


「他人と、同じだったら」


 そんな無益な仮定を巡らせ、たらればに儚み夢を見る。直視できない現実の代わりとしては心許ない。


「私が普通だった。普通のおしっこがおかしくなかったら……」


 そこまで至り、香織はたとした。その先に何が待っているのかは容易に想像ができる。そして想像してしまったら、もう自分の否定ができない。もし、彼女の尿が、その辺りの人間から排出される凡百な汚物であったなら、彼女は天花に恋などしなかっただろうから。


「そんなの、やだよぉ……」


 一度涙が溢れ出るとそれは五月雨のように止め処なく、行くあてもなく流れ落ち床布が悲嘆に染まる。天花への想いが、恋心が、自己の拒絶を完遂を阻止だのだった。


「どうして……どうして……」


 香織はずっと繰り返す。何に対して、誰に対して投げる言葉なのかも定まらず、心はしんと冷たく、枯れる事なく落ちていく涙は熱い。


 





 カーテンが締め切られた部屋は変わらず暗かったが陽は上っていた。いつの間にか寝入っていた香織に起きる気配がない。平時であればとっくに朝食の準備をしている時間であるが、今の彼女にそれは不可能である。


「香織ちゃん。大丈夫?」


 ノックとほぼ同時に入ってきた母親は香織の身を案じた。目の腫れた我が娘が死人のように横たわる姿を見て何を思ったか分からないが、そっと扉を閉め部屋から出ていく。その顔には不安と嘆きが混在していた。

 香織の母は香織を産んでから今日まで子育てを片手間にできていた。自立心の強い香織が極力両親を煩わせないようにしていたからである。母とてそれは承知しており、いつかは香織に子供もらしい、自分は母親らしい生活ができたらと考えてはいたのだが、差し迫る仕事が多忙であり、まさに心亡くなる日々であったため叶う事なかった。

 それが怠惰というのであればまさしくその通りであり彼女は間違いなく母親としての責務を果たせなかったわけであるが、果たして、真に母として子を育てられる人間がこの世界にどれだけいようか。彼女とて人。誰彼と同じく人間である。過ちや失敗など星の数ほどしてきたし、それ以上に歯を食いしばり直向きな努力はしてきた。確かに子育ては疎かとなっていたかもしれないが、彼女が香織について考えぬ日は一日たりとてありはしなかっただろう。その証拠に彼女は香織から誕生日に贈られた腕時計をいつも身につけ、ふとした時に眺める癖ができていた。針が一つ動く度に、成長した香織の姿を思い出すような遠い目をして耽るのだ。それはまごう事なき母の顔であり、家族を持つ女であった。





「どうしましょうか」


 香織の代わりに厨に立つ母。慣れた手付きで卵を掻き混ぜ、手際よく四角いフライパンに伸ばして巻いていく。

 実は香織の母は料理が達者であり、香織に料理を教えたのも彼女である。たまに暇な時間に一緒に料理を作る時が、彼女と香織にとって数少ない親子の時間であった。




 順序よく作られていく朝食と弁当。

 人生も、決まった手順を踏んで並べていくだけでいいのであれば、多少は楽になるのだが……

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