第3話

 アルフレートは無言で仮面を踏みつけた。白く着色された木片が床に散らばる。彼は不快げにそれを蹴散らし、家臣たちに命じた。

「香草と一緒に燃やせ。念のため城内を捜索しろ。一緒に来い、エドゥアルド。キリアス、おまえは奥方と姫を部屋にお連れして、そのまま警備につけ。後で行く」

「了解」

 キリアスはほんの少しだけ不満そうな顔で頷き、急ぎ出て行く兄たちを見送った。アーシファは青ざめたアナベルに寄り添い、守るようにしっかりとその肩を抱いた。



「……大丈夫かしら」

 梢の間に見え隠れする城塔を振り返りながら、アーシファは呟いた。前を行くキリアスが手綱を引いて馬を止める。

「大丈夫に決まってるだろ。ほら、急がないと日が暮れちまう」

 そうねと頷き、アーシファは馬の腹に軽く踵を当てた。ふたりはヴァストの王城を離れ、馬で約一日行程の距離にある離宮へ向かうところだ。離宮に隠棲している叔母が急病なので見舞いに行けと、急遽アルフレートに命じられたのである。

「叔母様のお加減、相当悪いの?」

「別に生死にかかわるようなものじゃないみたいだけど。一人暮らしだから何かと心細いだろうって、兄上が。俺たちにとって叔母上は母親代わりだったしな」

 物心つかぬうちに母を亡くしたキリアスは、特にその思いが強い。一方叔母のエレオノーラも、実子に恵まれなかったこともあってキリアスを我が子のように可愛がった。

 アーシファが母とともにヴァストに身を寄せた頃、二度目の嫁ぎ先から出戻ってきたエレオノーラも王城に住んでいて、ずいぶん可愛がってもらった。その時分はまだ先王──キリアスの父が健在だった。

 その後、彼女は兄の命令でみたび嫁したが、子ができぬまま夫は病没した。その時には兄は戦死しており、アルフレートが後を継いで和平の盟約が結ばれると彼女は故郷へ戻ってきた。そしてまたしばらく王城で暮らしたが、アルフレートが結婚すると願い出て離宮に移ったのだ。

「たまにこっちから様子を見に行ったり、向こうが訪ねてきたりして、元気だと思ってたんだけどな。そういや、ここ半年は手紙のやりとりだけだった」

「やっぱりお寂しいんじゃない? 召使がいるから暮らしに不自由はしないだろうけど」

「義姉上もそう言って、一緒に住もうと誘ってるんだけど。遠慮してんのかな」

 そんな会話を交わしながら、ふたりは森の中の道を進んだ。護衛として二名の家士が後ろに従っている。

 アーシファは何だか気になってふたたび振り返った。とっくに王城は見えなくなっている。気付いたキリアスが呆れ顔になる。

「何をそんなに気にしてんだよ。あの妙な仮面野郎のことか? あんなのただの虚仮威こけおどしだ。おまえに振られた腹いせに、シャルが悪あがきしてんのさ」

「うん……」

「〈竜の宝珠〉は無事だったんだし、城内に異常はなかった。領内に怪しい軍勢が入り込んでるなんて報告もない。それでも念のため宝珠は厳重に警備してある。盗み出すのは不可能さ。もっとも、盗んだところで意味ないけどな。宝珠は皇帝から下賜されてこそ王位の証となるんだから」

「でも、宝石としてほしがる人だっているかもよ?」

「そうかぁ? あんな不気味な石、下手に飾ると呪われそうでヤだ」

「なんて罰当たりな。あれをあんたの先祖にあげたの、あたしのご先祖様なんだけど?」

 その皇家もすでに崩壊した。後継者たる男子は直系傍系ともにひとりも残っていない。女子には継承権がないため、アーシファが後を継ぐわけにはいかないのだ。

 新たな王朝を興すのは誰か。シャルが一歩先んじたとはいえまだ帝位の行方は混沌としている。伝説によれば、王たちは異議なくアーシファの先祖を〈竜の申し子〉だと認めたという。彼には神竜に認められた〈しるし〉があったのだ。残念ながら、それが何だったのか、伝わっていない。

「……兄上が新しい皇帝になればいい」

 キリアスが独りごちるように呟いた。

「兄上にはその器量がある。父上が亡くなった時、兄上は今の俺と同じくらいだった。それから今まで一度も負けたことがない」

 誇らしげなキリアスの口調に、アーシファは微笑んだ。幼い頃に父を亡くしたキリアスが、ひとまわり年の離れた長兄に対して憧れと畏敬の念を抱いていることはアーシファもよくわかっている。

 事実、アルフレートは総大将としても一人の武人としても傑出した人物として他国にも知られていた。

 キリアスが暢気なのも無理ないか、とアーシファは思った。それぞれ武勇と知略に優れた兄たちがいて、そのふたりが揃いも揃って末弟には甘い。不憫がる叔母や古参の家臣たちからも可愛がられた。

 我が儘放題に育ってもおかしくなかったが、元々の性質がよかったのか、身内が甘やかしつつも躾けはしっかりしていたのか、太平楽が玉に疵とはいえ性格が歪むこともなく素直に育った。

 たぶん、一番彼にきつくあたったのはアーシファだろう。城に来たばかりのアーシファは何かと不機嫌で、遊び相手のキリアスによく当たり散らしたものだ。

「アルフレートが次の皇帝なら文句ないわ。あたしも安心してのんびり暮せそうだし。早くラァルに入って目障りなシャルの王子を放逐してくれるといいな」

「……おまえさ、本当に兄さんと結婚すんの?」

「ええ? やだ、なに妬いてんのぉ?」

 目を丸くしてキャハハと笑いだすと、キリアスはフンとそっぽを向いた。

「ばーか。おまえを義姉さんなんて呼びたくないだけさ」

「ほーんと、素直じゃないんだから」

 キリアスはムッとした顔で馬の腹を蹴る。アーシファは笑いながら後を追った。



 叔母の住む離宮に着いた頃には日が暮れかかっていた。途中でキリアスが雉を手土産にしようと言い出し、突発的に狩に興じていたため遅くなってしまったのだ。

 大きな雉をぶら下げたキリアスは、自ら迎えに出てきた叔母をまじまじと見つめた。

「叔母上……。ご病気なのでは?」

「病気? 誰が?」

 きょとんと小首を傾げ、エレオノーラは不思議そうに甥を見上げた。一瞬、ずいぶん小さくなったなぁとアーシファは思ったが、実際にはキリアスの背が伸びただけだ。もちろん自分も。

「だって兄上が……」

「アルフレートが? まぁ、いったい何の冗談かしらね。あら、素敵な雉だこと。いただいていいの? さっそく料理させるわ。一緒にいただきましょ……、あらっ? あらあらまぁ、誰かと思ったら、ひょっとして姫様? アーシファ姫様じゃございませんこと?」

「う、うん。久しぶり……」

 まだ呆然としている甥を押し退け、エレオノーラはうやうやしく裾を摘んでお辞儀した。

「しばらく見ないうちにお綺麗になられたこと……。ますます母上様に似てらっしゃいましたね」

「ありがと。叔母様も元気そうで安心したわ」

「はい。年を取るにつれて丈夫になってきたような気がします。きっと何の憂いもないからでございましょう」

 上品に笑うエレオノーラは今でも充分に美しい。かつては絶世の美姫と謳われ、戦乱の世の中で兄の命令により三度も政略結婚を強いられた。

 出戻ってからは城の女主人の代役として采配をふるい、甥たちの世話に明け暮れた。隠棲した今は、確かに心安らぐ日々であろう。

「何はともあれ、入ってくつろいでちょうだい。アルフレートの悪戯については後でゆっくり聞かせていただくわ。お疲れでしょう、姫様。すぐに湯浴みの支度をさせますから」

 召使に雉を渡したキリアスは、まだ腑に落ちない様子ながら叔母の言葉に従った。

 その夜、雉料理を囲んで歓談しながら叔母はとても楽しそうだった。

 兄がどういうつもりで嘘をついたのかわからないが、叔母の嬉しそうな顔を見れば騙されたと怒る気にはなれない。ただ単にアーシファを連れて叔母のご機嫌伺いに行けと言ったら面倒がるとでも思ったのだろう。

 子ども好きなのに実子には恵まれず、三人の甥はもちろん男ばかりだから、キリアスと年の近いアーシファをエレオノーラは実の娘のように可愛がった。アーシファがラァルに戻ってからは会う機会もなく、帝都が混乱していて手紙のやりとりも思うに任せなかった。

 久しぶりの再会に喜んだ叔母は、しばらく滞在してほしいと熱心に頼んだ。アーシファにも異存はなさそうだ。

 もっぱらふたりの会話にたまに相槌を打ちながら、キリアスは明日一旦ひとりで城に帰ろうと考えていた。ひょっとしたら兄はアーシファを離宮に隠しておくつもりなのかもしれない。ここでアーシファの警護をするのは別にかまわないが、いちおう兄の意向を確かめておきたかった。

 夜半過ぎ、床についていたキリアスは扉を叩く音に目を覚ました。押さえた声で呼びかけているのは、伴ってきた家士のものだ。キリアスは手早く服を身につけ、扉を開けた。ふたりの家士は身支度を整え、緊張した面持ちで立っている。

「どうした? 何かあったのか」

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