竜の帝冠
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第1章 仮面の使者
第1話
本当に、これでいいのだろうか。
剣をぶつけ、刃を交わしながら思う。
他に方法はないのか、と。
光が世界を照らした時に生まれた影。
それは必然ではないのか。
どちらかを消し去ることに意味があるのか。
影が消滅した時、光は光たりえるか──。
答えを見出すためには戦うしかない。
生と死の狭間で、戦い続ける。
自分自身の影と。
光と。
* * *
シャルの世継ぎパジーズ王子は得意の絶頂だった。
長年のライバルを退け、帝都ラアルを実質的に手中に収めたばかりか、皇家最後の姫を娶った。これで彼はシャル一国の世継ぎではなく、皇帝に──
パジーズは母国とその同盟国の家臣たちが連なる宴席を悦に入って見渡し、傍らに座っている花嫁を眺めた。婚約を告げた時には耳を覆いたくなるような罵詈雑言をもって拒絶されたが、諦めがついたのか、今はすっかりおとなしい。
どのみち彼女に選択権などないのだ。皇家はすでに竜の加護を失っており、直系傍系ともに主な皇族は軒並み内紛で自滅した。先々帝の末子である彼女だけが、すっかりその存在を忘れ去られていたがゆえに、たまたま生き残っていたのである。
権威も権力も失った皇家の姫が生き延びる術は、新皇家の妃となる以外にない。生活力のない深窓の姫君など、放逐されたら野垂れ死にするだけだ。
シャルの国王──パジーズの父が、特別な儀式用のワイン壺をふたつ両手に捧げ持ってやってきた。新郎新婦の並んだテーブルの上には、お揃いのゴブレットがふたつ置かれている。シャル王は両手に持った壺から同時に赤と白のワインをふたつのゴブレットに注いだ。
混じり合ったワインがクリスタルのゴブレットの中で美しく輝く。パジーズがワインを一気に飲み干すと、家臣たちから歓声が湧いた。
満面に笑みをたたえたパジーズが傍らを見やると、花嫁はゴブレットを持ったまま戸惑った様子で固まっていた。
「おお、両手が塞がっていてはヴェールを上げられぬな」
酒の勢いも手伝って強気になり、パジーズは花嫁の顔を慎ましく覆っているヴェールを捲り上げた。隔てるものなく花嫁と顔を付き合わせ、花婿は硬直した。
ふたつの巨大な目玉がじっと彼を見ていた。
それは今飲んだワインのように真っ赤で、白目の部分がほとんどない。そして顔面は真っ白な短い毛に覆われていた。
要するにそれは人間の目ではなく、つまるところ彼が付き合わせているのは人間の顔ではなかったのである。
ヴェールで押さえ付けられていた長い耳が、天井に向かってびょんと伸びる。桃色の鼻がひくひくうごめき、それにつれてピンと伸びた白いヒゲが揺れた。
花婿よりもひとまわり大きな顔をした巨大なウサギは、妙に人間臭くにんまりするとゴブレットを勢いよく空にした。そして酸欠の魚みたいに口をぱくぱくさせている花婿を愛しげにガバと抱きすくめた。
「ぅっっぎゃあああああああああああああああ!!!!!」
裏返った素っ頓狂なわめき声が、喉も張り裂けんばかりに花婿の喉から躍り出る。
めでたいはずの婚儀の宴席は、かくて馬鹿げた狂騒状態へと突入したのであった。
「……で、カワウサギを身代わりにした、と?」
「そーなの。いい気味よね。あの脂下がった顔が花嫁を見てどうなったか、確かめられなくて残念だわぁ」
さも可笑しそうに腹を抱えて笑う少女を、キリアスは呆れ顔で眺めた。
燃えるような真紅のくせっ毛が、肩や背中に盛大になだれ落ちている。鮮やかな翠の瞳を悪戯っぽくきらめかせた、まるで跳ねっ返りの小妖精といった風情のこの少女こそ、最後の皇族にしてキリアスの幼なじみ、アーシファ姫だ。
彼女は確かに深窓の姫君ではあったが、生活力という面ではパジーズ王子よりもよほどしっかりしている。その点、王子の予想はまったく的外れだった。彼女は愛用の弓矢と短剣で武装して、たったひとりで馬を駆り、ヴァストの王城までやってきた。
「カワウサギって肉食だろ?」
「小魚しか食べないよ。あとね、お酒が大好きなの。美味しいワインがたくさん飲めるよ~、って頼んだら、身代わり承知してくれた。カワウサギってすっごく頭いいんだよね~。人間を化かすのも大好きだし」
はぁ、とキリアスは嘆息して眉間を揉んだ。
「何でうちに逃げて来るんだよ。面倒くせぇなぁ」
「だってここしか行く当てがなかったんだもん。いいじゃない、幼なじみなんだから匿ってくれたって。絶対迷惑かけないから」
「もうかかってるよ。おまえの行き先がここしかないことくらい、シャルの奴らもわかってるさ」
五歳から十三歳までの八年間、アーシファはとある事情で帝都の宮城を離れ、母とふたりこのヴァストの王城で過ごしたのである。アーシファにとってヴァストは第二の故郷だ。
アーシファは髪を指にからめながら肩をすくめた。
「それにしてもアタマ古いよね~、シャルの奴ら! 皇家はもう滅んだも同然だし、権威はとっくに失墜してるんだから。何もあたしを嫁にしなくても、ねぇ?」
「まったくだ。おまえみたいな跳ねっ返り、嫁になんかしたら苦労するだけなのにな」
「なにおー! 久しぶりに会ったってのに、お世辞の一言もなしなわけ? しばらく見ないうちに綺麗になったなぁ、くらい言ってくれてもいいんじゃない?」
「全然変わってねぇよ。ますます野性味が増したくらいだ。いていて! 髪引っぱんなっ」
「まぁ、相変わらず仲がよろしいですわねぇ」
クスクスと笑う涼やかな声に、アーシファは振り向いた。その隙にキリアスが手の届かぬ距離にさっと逃げる。入ってきたのは優しい顔立ちの若い女性だった。
「アナベル! キリアスってばひどいんだよ。あたしのこと野性児だなんて」
「野性児とは言ってない。野性味が増したと言っただけだ」
「姫様、それはきっと彼独特の褒め言葉なんですわ。キリアスは照れ屋さんだから、素直に綺麗だと言えないのです」
「なーんだ、そうなの。素直じゃないなぁ」
「誰が照れ屋だ。変なこと言わないでくれ、義姉上」
キリアスはニコニコ微笑んでいる兄嫁を恨みがましげに睨んだ。
アナベルはアーシファの母が帝都から伴ってきたかつての侍女である。皇家に仕える武官貴族の娘だった彼女は、キリアスの兄に見初められてその妻となった。
アーシファがヴァストに逃げてきたのは、ここが馴染みのある場所というだけでなく、姉のように親しみ深いアナベルが王妃になっていて心安かったことが大きい。
「アナベル。あたしがここにいたら迷惑?」
「とんでもない。お好きなだけいてくださっていいのですよ」
「そうそう。なんなら愚弟の花嫁になってくださらんかな? 身びいきかもしらんが、これでもシャルの世継ぎよりは幾分マシだと思いますぞ」
アナベルの後ろから響きのよい声が聞こえてきた。ヴァスト王アルフレートが、黒褐色の短い顎鬚を撫でながらニヤニヤしている。キリアスはぶすくれ顔で兄を睨んだ。
「冗談じゃないよ、誰がこんな野性児」
「あっ、野性児って言った!」
「事実だろ」
「ふんっ、だ。あんたみたいな極楽トンボ、こっちからお断りよ」
「誰が極楽トンボだ」
「事実でしょ」
べーっと舌を出し、アーシファは隣に腰を下ろしたアナベルに身を寄せた。膨らんだ彼女の腹部にそっと手を添えて話しかける。
「あんな叔父さんを見習っちゃダメだからねー」
「まぁ、姫様ったら」
「赤ちゃん、いつ生まれるの? アナベル」
「まだしばらく先ですわ。あと二か月くらいかしら」
「楽しみ~。あたしにもお世話させてね、アナベル」
「はい、お願いしますわ」
「──兄上、こちらにおいででしたか。おや、皆さんお揃いで」
ひょいと顔を出したのはキリアスの次兄エドゥアルドだ。いかにも武人然としたアルフレートとは対照的な白皙の美青年だが、澄んだ双眸には怜悧な光が宿っている。事実彼は兄の右腕といってよく、参謀役として兄をよく補佐していた。
「どうした?」
「帝都から早馬で書状が……」
差し出された巻紙を開き、アルフレートは呵呵大笑した。
「知らんと言って追い返せ」
「……ひょっとしてあたしのこと?」
さすがに不安そうな顔でアーシファは尋ねた。アルフレートはニヤリと顎を撫でた。
「さよう。なに、心配めさるな。姫様を引き渡したりはいたしません。あけすけに言って、我々にとっても姫様はそれなりに利用価値がございますからな」
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