26話目 「あんた知ってたんでしょ」
「……」
「そろそろ機嫌なおさない?」
苦笑しながらカエンはぽんぽんとアーランの背を叩く。
「やだ」
ははは、とカエンは力無く笑う。
彼女にしては珍しい表情なので、アーランもいつまでもテーブルにうつ伏せて居ずに、その顔を拝んでやりたいような気もする。だがどうしても、一度抜けた気力はなかなか元には戻らない。
既に夜になりかかっていた。
二人は大陸横断列車の個室の中に居た。
式がどういう結末であろうと、出かけるという予定と出かける時間だけは決められていて変更はなかった。
皇后の顔を見た瞬間に大半の気が抜けてしまっていたアーランは、残りのほんの微かな気力でようやく身体を動かして列車に乗り込んだ。
窓から見送る人々に手を振り、顔の筋肉を総動員して笑みを浮かべた。得意な筈だったのに、気力がないとこうも難しいものか、とアーランは改めて思った。
その見送りの中に元凶を見いだした途端、なけなしの気力すら失せそうになった。気付いたカエンが慌てて支えたが、列車が発車するや否やこの始末である。
「じゃコーヒーをいれようか。あの寮舎くらいの設備だったら共同だけど、ついてるよ」
「やだ、ここに居て」
「あのね。だから何があってもびっくりするなって言ったでしょうに」
「それよ」
アーランは顔を上げ、友人を真っ直ぐ指さす。
「あんた知ってたんでしょ」
「まあ多少は」
「だったらどうして言わなかったの!」
「だから確証の無いことは言いたくないって言ったでしょう」
「確証」
カエンはやや困ったような顔になり、アーランの対面の座席に腰を下ろす。
「現在の皇后陛下の正式名称だって一応知ってはいたし。だいたいカラシュって通称を使える名前なんて、カラシェンカかカラシェイナぐらいしかないし。それに本当に歳を取らない方だってのも聞いてはいたし」
「本当に、歳を取らないの?」
「皇帝陛下を見たろう? 理屈はともかく、現実にそうなんだ」
理屈はともかく、とカエンの口から出るのはなかなか不思議なものがある、とアーランは思う。
だからもしかしたら彼女は認めたくなかったのかも、とも。
「で、いつ気付いたの」
「名前を聞いたとき、最初から何か妙な気はしたな。だけど決定的だったのは、あの時。傷が無かったんでね」
「傷?」
「教科書の記述、覚えているだろ? 在位の間は皇帝陛下は不老長寿、というの」
「うん」
眉唾ものではあったが。
「怪我しようがたちどころに治ってしまうとか、一瞬信じ難いあの記述のあれこれ」
「覚えている、けど」
「あの屋根裏から逃げ出す時、ワタシは確かに、カラシュがあの窓の割った破片で手を怪我していたのを見たんだ。彼女、一瞬声を立てたし、朱が大丈夫ですか、とか聞いてたし。帰ってからも、袖口に染みができているのも見えたし。けど、手自体は何ごともなかったように綺麗なものだったと」
「はあ」
さらりと述べてはいたが、言ったカエン自身も非常に説明に困っているのは明らかだった。
そもそもが理詰めの性格なので、たとえ自分の目で見たことでも理屈が通らないことを認めるのは苦しいのだろう。
「じゃ、あの私達が捕まった場所のことは? あの時カラシュは、違うって言ったけれど、結局犯人は保存庁長官だった訳じゃない」
「それについてはね、外にいる誰かさんが答えてくれるさ」
なあ、とカエンは勢いよく個室の扉を開けた。
黄色いリボンで黒い髪を一つに束ねた少女が大きなトランクを一つ持って立っていた。
アーランは思わず彼女の名を呼んでしまった。
「山吹」
彼女を入れ、カエンはぴったりと扉を閉めた。
カエンはアーランの横に座り、彼女には自分達の前に座るように勧めた。では、と礼儀正しく彼女は音もさせずに座った。
「皇后カラシュさまの命により、わたくし山吹ことヤガノ・コズエ・サコン、お二方にお供させていただきます。どうか到着後は本名でお呼び下さい」
「お供って…… 連合まで?」
アーランは身を乗り出す。山吹はうなづく。
「はい。あなた方を当分お守りすることがわたくしの使命となりました」
カエンはそれを聞くと立ち上がり、缶と漉し袋を持って扉の外へ出た。
問われない限り、じっと行儀よくしている山吹に対してどう反応していいのか困った。
何せアーランは誰かの世話を焼いたことはあっても、誰かに主人扱いされたことは一度もなかったのである。
四半時ほどして、開けて、という声がした。アーランは飛び上がって慌てて扉を開けた。
一気に個室中にコーヒーの香りが広がった。
カップは備え付けのものだったし、ミルクも無かったが、甘味だけは借りてきたらしく、トレイにしっかりと乗せられている。
いつもの倍入れるんだ、とカエンはアーランに言う。アーランもさすがに苦いのは嫌なので、言われる通りにする。
「君も飲んで」
「いえ、わたくしは」
「一緒に行くんだろう? だったらただの学生に勧められたもの位、口にするんだ。向こうでもそんな馬鹿丁寧な言葉つかいで、ただの留学生につきまとう気か?」
「は、はい。わかりました」
「あ、甘味入れた方が」
カエンはアーランを制した。そのまま口をつけた彼女の顔は明らかに不快そうだった。
「申し訳こざいません。これは」
「何が必要だ? 欲しいものを欲しいと言うこと」
「はい。じゃ、甘味をお願いいたします」
カエンはアーランにうなづく。アーランは抱えていたポットを彼女に渡す。
「ありがとうございます」
「山吹、君は残桜衆だろう?」
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