14話目 カエンの理由と世界の見方

「逃げ?」

「その頃ワタシの家の水道に毒が盛られてな」

「毒!」

「何故だと思う? 政敵は父を消すために、一番簡単な方法を選んだのさ。家族全員、果ては家に住む使用人全部を一度に抹殺しようとした。だって何しろ簡単だろう? 誰でもいい。全く面の割れてない風来坊でも雇って、ただの消毒薬だとか何とか言って家の水源に放り込ませればいい。ひどく簡単なことさ」


 アーランは背がぞくり、とした。その事実ではない。それを淡々と言ってしまうカエンに、だった。


「使用人が何人か死んだ。朝一番に起きる庭師と、調理場で働く者だ。早起きだった母は、死ぬには至らなかったが、ひどくそこで身体を壊した」


 心臓がどきどきするのが判る。


「それが判った時、ワタシ達は脱出の手配が整うまで、何も口にすることができなかった。いや違う、向こうの街にたどり着くまで、だ。さすがに横断鉄道に乗ってしまえば水は飲めたが、何もワタシ達は持って来なかったし、何しろ恐怖でそれどころではなかった。母は母で身体を壊しながらも同行していたし。あれ程身近に医者が欲しいと思ったことはなかったな。ああ、だからか。それがワタシのきっかけだ」

「たどり着くまで」

「そう。たどり着くまで」


 うなづく気配がする。


「それが最初だった。父が今の地位を安定させるまで、手を変え品を変え、何度も家の連中は命を狙われた。君の言い方を使えば、『好き好んでそう生まれた訳じゃない』だな」

「……」


 そうかもしれない。

 痛い所をつかれた、とアーランは思った。少なくともあの施設で、彼女は自分が殺されると思ったことはなかった。


「アーランには悪いが、不公平は当然だ。どんなに社会が変わろうとも、絶対そこに完全な平等なんて存在しないさ」


 だがその言い方にはやや神経を逆なでするものがあった。なのでやや声を荒げる。


「それが正しいと思っているの?」


 カエンは再び首を振る。


「正しいとか正しくないじゃない。そういうものだ、とワタシは言っているだけだ。事実を言っているだけだ」

「そうやってあんた達貴族は、自分達の立場を正当化するんだわ」

「貴族か。貴族の存在が特別正しいと考えたことはない。無ければあんなもの無くたっていいんだ」


 カエンは目をそらす。


「確かにワタシは金銭的に、とか社会的に、とかでは自分が恵まれた環境に生まれたとは思う。生まれてこのかた、生きてゆけるかという心配はしたことがない。確かに暗殺の不安はあったがな。だが逆に、どう生きるか、ということは心配したことがある」

「何それ。どうって…… 生まれてきたら、生きるしかないじゃない。考える余地なんてないわ。とにかく死ぬまで生きるのよ。どんなことをしたって。それが当然じゃない」


 そう、それが当然だ。カエンのその疑問がどうして出てくるかが彼女には判らない。だがカエンはうなづく。


「そう。それでいい。それが正しいんだ。そんなことは、そんなことをわざわざ考えない人の方がよっぽど良く知ってるんだ。だがワタシは馬鹿だからその問題に何年もとりつかれてしまった」

「それで見つかったの?」

「ワタシなりに、ならな」

「何?」

「人間の、唯一平等な部分を見つけたんだ」

「何よ。そんなもの無いって言ったじゃない」

「平等ではない、と言ったが、平等な部分が無い、とは言ってはいないさ。病気さ。怪我さ。死さ。そういったものには貴族だろうが平民だろうが、全く関係がない。皆同じように死病には殺されるんだ。名家の令嬢に生まれて名家の貴夫人と呼ばれた母は結局その毒物が身体にずっと残ったままでな、ワタシが幼いうちに亡くなった」

「亡くなったの?」

「アーランは、その中でも医者にかかる金がないから死ぬ者が居る、とか反駁したいのだろう?」

「……もちろんよ!」


 アーランは声を荒げていた。だがそれは先ほどのものより威勢は少なかった。


「……どれだけの人々が、生まれたばかりで死んでしまう羽目になるか知ってる? どういうふうに死んでいくのか知ってる? あんたには判らないわ。私の母さんは、働きすぎで過労でとうとう病気になった。お金は無かったから救護院に拾われるしかなかったわ。でも救護院だって大した余裕がある訳じゃない。通りいっぺんの治療をしておしまいよ。医者は言ったわ。もう少し十分な薬があれば、とか、もう少し栄養のあるものを長い間食べさせることが出来れば、って。救護院には余裕がないのよ」

「……それ本当?」


 突然カラシュが口をはさんだ。


「だって国は、救護院には充分な費用を送っているはずよ」


 意外な、という顔で訊ねる。


「本当よ! ……途中でピンハネされてるのよ」

「途中で」


 カラシュは真剣な顔つきになる。


「こんなこと言うと不敬罪にあたるのかもしれないけれど、どれだけ皇帝陛下が素晴らしい方で、善政を敷いたとしても、間にのさばるものが腐っていちゃしょうがないわ」

「腐った肉の入ったサンドイッチは食べられない訳ね」

「そうよ」

 「確かにな」


 声が揃った。


「だがそれはそれとして、その誰もが平等に持っている部分に関わっていきたい、とワタシは思ってしまったんだ。何はともあれ、何処の誰だって、手をつくせば治るかもしれないし、どれだけ金を積もうが寄付をしようが、何もしなければ治らない。だったらやるだけのことをすれば、何らかの結果が見えるんじゃないかと思ってしまったんだ。平等だが、それこそ『好きでもないのに』決められてる何とやらに、一矢報いることができるんじゃないか、と何だか判らんが闘志が湧いてしまってな」

「物好き」

「あまり君と変わらんと思うがな」

「どうしてよ」

「カラシュはどうだか知らんが」


 カエンはちらと彼女の方へ視線を飛ばす。 


「少なくともアーラン、君はその点だけはワタシと近いよ」

「どうして」

「さあ、どうしてだろうな」


 カエンははっきりとは答えなかった。

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