第80話 氷の試練
アライサルはリルレマと出掛け、帰って来たのは次の日になってからだった。
「アライサル。」
帰ってきたアライサルは、今まで見てきた様な顔ではなく、険しい表情をしていた。そして何より、何かを諦めた様な寂しそうな表情だった。思わず声を掛けた。
「マコト…」
「どうしたんだ?リルレマとかいう奴に何か言われたのか?」
「いや。彼はただの連絡係だ。彼が原因ではない。」
「…じゃあ何故そんな…」
「…気にするな。これを。」
そう言って手渡してきたのは、美しい透き通る様な水色の鱗。アライサルの鱗だ。
「……」
「今まで引き止めてしまってすまなかった。これで私の試練は終了だ。」
「一体何が…?」
「行け。時間が無いのだろう?」
「アライサル…」
「早く行け。」
そう言って笑った彼女の笑顔にはやはり寂しさが見えた。しかし、振り返り遠ざかる背中は、声を掛けるなと言っている様に感じた。
「真琴様…」
「……行こう。」
「…はい。」
話したく無いことを無理に聞き出すのは野暮というものだ。相手がこの世界で最強の存在ならばそれは尚のことだろう。俺達にはやらねばならないことがある。それを達成する事に専念しよう。
最後に一度だけアライサルの背中に目をやってから先へと進む。
ーー・ーー・ーー・ーー・ーー・ーー・ーー
ビュオッと吹き付ける風が頬に当たる度に顔を
強風に巻き上げられた雪が常に視界に軽いモヤを掛けている。
美しい水の森を抜けた先に待っていたのは真っ白な氷と雪の世界。
「寒いーー!」
両手で自分を抱き、叫ぶ健の足がザクザクと音を立てて雪を踏みしめる。声は風に掻き消され殆ど聞こえない。
地面を覆い尽くす雪と、所々に見える十メートルはある大きな氷柱。
この凍てつく世界に足を踏み入れてから数時間経つが、その間ずっとこの調子だ。今のところ、天気の回復は望めそうにない。
健が叫びたくなる気持ちは理解出来る。それで解決するならば全員声を大にして叫んでいるだろう。だが叫んだ所で風が止んだり、寒さが収まる事は無い。
健を先頭に、ゆっくりではあるが一歩一歩確実に前進していく。だが、こんな天気の中で進める距離はたかが知れている。このまますすんでも、疲労が溜まってしまうだけで距離を稼げない。であれば、天気の回復を待った方が良い。一先ず風を凌げる場所に留まる事に決め、大きな氷柱が何本か生えている根元に移動する。魔法を使って氷柱に横穴を作りその中に避難する。
「寒いー!!」
横穴の中を健の声が木霊する。
「こんな場所で叫ばないで下さい。不愉快極まりないです。」
「そんな事言ったって寒いもんは寒い!」
「足元あったまーる君二号出してやるから落ち着け。」
「嗚呼!我が心の友よ!」
「感涙する程気に入ってくれたのは嬉しいが、張りついているとそのうち火傷するぞ。」
「それでも俺は構わない!」
「そ、そうか…」
「気色の悪い…」
「コラ!そこ!ボソッと言うな!その方が言われた方は傷付くんだぞ!」
「良い事を聞きました。」
「傷付ける気満々?!」
健と凛はいつもの調子で言い合いしているし直ぐに暖まるだろう。
「ここは間違いなく氷のドラゴン、ピュレーナの縄張りだよな?」
「だろうな。これだけ寒いんだ。標高が高いわけでも無いのに龍脈山の頂上付近より寒いぞ。」
「明日は天気が回復してくれると良いのですが…」
横穴から見える景色を強い風が吹き抜けていく。
凛の願いが通じたのか、翌日は風も無く快晴。あんなにも嫌だった雪や氷なのに、太陽の光に照らされてキラキラと輝く様はとても感動的だ。
「今日は距離を稼げそうですね。」
「またいつ天気が崩れるか分からない。行ける時に一気に進むぞ。」
「はい!」
外は完全な無風。雪を踏むとギュムギュムと新雪を踏んだ時の独特な音を奏でる。気持ちのいい天気はその日一日続いたが、風が出たり、雪が降ったりと、この地域の天候はかなり変わりやすいらしい。
数日間雪の上をひたすらあるきつづけていたが、見えるのは真っ白な雪と氷の柱だけ。他に変わったものは特に見えない。
久しぶりに朝から快晴が続いていた日の昼過ぎの事。いつもの様に雪を踏みながら先へと進んでいると、嫌な音が聞こえてくる。
ズズ…ズズズ……
「なんかヤバい音するよな?」
「地面が…少し動いている気もしますね……」
ズズズ…
「音がする度に雪が沈んでいる気がするのですが…?」
「……」
ズズズズ!
「まずい!」
何が起きているのか気が付いた時には既に落ちていた。
クレバス。
俺達の立っていた場所はそのクレバスの上。風も無く暖かい天気のせいで雪が溶けて、クレバス上の雪が緩んで一緒に落ちたのだ。当然最下部の雪は既に雪ではなく氷になっているため叩き付けられれば水風船の様に潰れるだろう。視界は共に落ちた雪で塞がれているが、皆の位置は分かっている。全員が範囲内に入る様に落ち着いてグラビティコントロールを発動する。なんとか全員の落下が止まり、事なきを得る。
「……し、死ぬかと思った…」
皆顔を真っ青にしている。俺も恐らく同じ顔をしているだろう。クレバスは幅が2m程。深さは数十メートルという巨大なものだった。クレバスの壁からは氷柱がいくつか伸びていて、それだけ見れば美しい光景だろう。そんな余裕は無いが…
「結構奥まで続いていますね。」
「……風が流れていますね。」
「風?どこかに繋がっているのか?」
「現状で認識出来る範囲には外に繋がる場所はありませんが…」
「……下に降りて進んでみるか。」
「分かりました。」
ゆっくりと下降していきクレバスの底辺に着地する。
「おわっ?!」
「滑るから気を付けろよ。」
「危ねぇ…下は完全に凍ってるな。」
「確かに先の方から微かな風が流れてきているな。」
「行ってみましょう。」
明かりで照らしてクレバスの底を歩いて進む。コツコツと足音がクレバス内を反射しながら離れていく。暫く進んでいくと、急激に幅が狭くなり、人一人がギリギリ通れる広さになる。
「これ以上狭くなると通れないぞ。」
「行けるところまで行ってみよう。」
「それは構わないが……いや。なんか広い所に出るぞ。」
健が無理矢理体を奥へと滑り込ませる。俺もクレバスの先に体を捩じ込み、抜けた先を見渡す。
直径数十メートルを円形にくり抜いた様な地形。そのど真ん中に水晶の様な形の氷柱が何本も生えている。その氷柱も数十メートルという巨大な物で、太陽の光が当たり宝石のように煌めいている。
太陽の光の中を、氷の粒がキラキラと舞い、どこか
そして、その氷柱達が根元では一点に集まっていて、それを護る様に寝ているのは氷のドラゴン。
全長は大体15m前後。水晶の結晶に似た形の氷が全身を覆い尽くし、刺々しい尻尾を持つ。同じく、結晶の様な形をした角と、氷の鱗に、翼。俺達の到着と同時に開かれた青眼。どこか気品を感じる風貌だ。
「来ましたね。」
寝ていた体勢から首だけを
「氷のドラゴン。ピュレーナ。だよな?」
「如何にも。私が氷のドラゴン。ピュレーです。
想像していたよりもずっと早くここまで来ましたね。」
「どれくらい掛かる予想だったんだ?」
「正直に申しますと、三年は掛かると思っておりました。どうやら認識を改める必要がありそうですね。」
「そいつはどうも。」
「それでは、早速試練を始めましょう。」
ピュレーナが僅かに目を細めると、目の前に大きな氷柱が生成される。
「その氷柱は、一人一人の力に合わせて作り出しました。それを、ただ破壊して下さい。」
「破壊するだけか?」
「はい。但し、今持てる力を全て乗せた一撃でなければ壊せません。」
「俺達の出せる限界の力って事か?」
「はい。少しでも力を緩めれば破壊出来ないはずです。それでは頑張って下さいね。」
そう言うと、ピュレーナは目を閉じて、眠りに入る。
「全力の一撃ねぇ…」
「限界ギリギリの一撃か…一発の威力を最大まで引き出す為の試練という事か。」
「思い切り攻撃すれば良いだけの話だろ?」
「そんな簡単な話じゃない。」
「なんでだ?」
「今持てる全ての力を一撃に乗せる。つまり、その一撃を放ったら立っていられなくなる一撃。」
「俺達は魔力を全て使った一撃って事になるし判断し易いが、健達…特に健は難しいかもな。」
刀を一回振っただけで立てなくなるなんて、普通に考えたら有り得ない。だが、ピュレーナが求めている事はその一撃に他ならない。
「やってみるしかねぇよな。」
健が刀に手を置いて、目の前に立っている氷柱に意識を集中させる。全身を気が包み込んでいく。
「はぁっ!!」
ガキンッ!!
金属音と、周囲に広がる衝撃。あのカナサイスの鱗を斬った健の一撃だ。弱いはずが無い。だが、その一撃を無傷で受け止めた氷柱。
「ダメか。」
「まだ立っていられるから全力じゃない。」
「分かってるけどよ…」
健が言いたい事は分かる。基本的に戦闘で動けなくなるという事は即ち死を意味する。最高の一撃を放ったとしても、それを避けられたり決めきる事が出来なければ一気に窮地に立たされるからだ。そんな事は赤子でも分かる事。特に、俺達の方が人数が少ないという状況が多く、下手に魔力や体力を切らしたらそこで詰むという状況ばかりだった。そのため、ピュレーナが望む自分の出せる全てを乗せた一撃。至高の一撃は、今までの人生では一度も放った事が無い。これは俺達に限らず殆どの人に当てはまることだろう。
バチバチ!!
シャルが全身に大量の赤雷を纏わせる。今まで見た事の無い程の量だ。
「はー。」
ズガンッ!
バリバリッ!
シャルの腕が氷柱を叩くと、地面が揺れて赤雷が爆ぜる。シャルの拳から煙が上がっていき、膝が笑ってその場にペタリと座り込む。
「これでも…ダメ……」
魔力の殆どを使い切ったシャル。それでも氷柱はそこに立っている。
「はぁー!」
プリネラが二本の刃に闇魔法を集中させる。プリネラも殆ど全ての魔力を吐き出している。
「たぁっ!」
ギィーン!!
「ダメだったー…」
リーシャも凛も同じ様に全力を出した一撃を放つが、傷一つ付けることが出来ない。
俺もマッドドラゴンを屠ったクリスタルフォールを作り出して、氷柱に落とす。
ズガンッ!
地震のような揺れは生じるが、氷柱の先端がクリスタルに触れると、クリスタルの方が粉々に砕けてしまう。
視界が揺れ、体の力が抜けてその場に膝を付いてしまう。自分では全力を出したつもりだった。それでも壊れないとなると、まだ足りない…という事になる。
人間という生き物はよく出来ていて、100の力を持っていて、全力を出そうとして使えるのは90くらいがせいぜい。無意識下で力をセーブしてしまうのだ。
俺達が思っていたよりもこの試練はずっと難しいのかもしれない。何より、時間が掛かる。完全に全てを出し切ったわけではないが、暫く動けなくなる程度には消耗するし、回復するまでには時間が掛かる。それらを加味すると、一日に挑戦できるのは二、三回が限度だろう。
「ぐはぁ!辛い!」
「魔力が……」
数日間試したが、攻撃した後は倦怠感が酷い。
全員が一気に倒れてしまわない様に時間をズラして挑戦しているが、未だ一人も成功していない。
「どうしても力をどこかで抑えてしまっているんだろうな…」
「それを無理矢理に引き出す…というのもなかなか難しいのですね。初めて知りました。」
「俺もだよ。何度でもやってみて、自分の限界値を知ろう。」
「分かりました。」
それから毎日、誰かが必ず弱っているという状況が続いた。一度挑戦した後、体を休め、また挑戦する。そうして何度も繰り返していると、90だった力を91、92と引き出して行けるようになっていく。
体感で大体98の力を出せる様になってきた頃。いつもの様に俺は中空にクリスタルフォールを生成していく。
パキパキ…
「うっ…」
魔力を注ぎ込んでいたが、突然視界が歪み、体が言う事を聞かなくなり、その場に倒れてしまう。クリスタルフォールは魔法として完成せずに霧散していく所が最後に見えた。
「……」
「目が覚めましたか?」
「……倒れたのか…?」
「……はい。」
「そうか…」
テントの中で目が覚めると、俺を介抱してくれている凛に詳しく話を聞いた。と言っても、魔法を使おうとして倒れた。という事だが。
「…大丈夫ですか?」
「少し目眩がする程度だよ。大丈夫。」
「それは大丈夫とは言わないですよ。ですが…何故…?」
「無理矢理魔力を放出しているんだ。体が危険と判断して強制的に意識を刈り取ったんだろう。」
「…体が…」
「簡単に言えば限界値を越えたんだ。」
「行き過ぎた…という事ですか?」
「そうだな。恐らくだが。」
前回よりも更に力を出そうとして倒れた。つまり、98から99の力の間に限界値があるという事になる。
「あと少しですね。」
「だと良いのだが…」
「どういうことでしょうか?」
「前回と今回。それ程使った魔力量の差は無いはずなんだ。前回は氷柱を壊せず、今回は意識を失った。その間にある限界値を探るのはかなり難しいかもしれない…」
俺の不安は的中する事になる。
それから何度か魔法を行使したが、僅かな違いに過ぎなかった。体感で言えば0.01の違いを探っている様なもの。あまりにも僅かな違いに、僅かでも行き過ぎれば意識が飛び、少なければ氷柱が壊れない。
俺だけでなく、全員がこの僅かな差を行ったり来たりしながら探っている。
「……うっ…」
「起きたか。」
「真琴様…」
「まだ寝てろ。」
「…はい…」
「なかなか難しいな。あと少しのはずなんだがな…
次は俺の番だ。行ってくるよ。」
「はい。」
凛の横を離れて自分の壊したい氷柱の前へと向かう。
「やるか……」
この試練を乗り越える為に必要である自身の力の正確な認識。それを俺達は既にショルーテから教わっている。後は自分達で掴み取るしかない。
パキパキ…
徐々に巨大化していくクリスタル。自分の中にある魔力が抜けていくのを感じる。
「まだ…」
魔力の残量を正確に認識しながら少しずつ魔法を完成させていく。
グラッと視界が揺れる。
「もう少し…」
集中力が切れそうになるのを無理矢理掴み取って踏ん張る。
「ここだ!」
意識が飛ぶか飛ばないかという絶妙なタイミングで魔法を完成させる。
「うっ……」
完成と同時に視界が黒く染まっていく。このまま気を失えば、完成した魔法が霧散してしまう。最後はただの意地だった。
ガラガラッ!
クリスタルが氷柱に当たると、クリスタルが砕けてしまう。だが、それと同時に氷柱も崩れていく。
「や……た……」
意識が飛んで視界が暗転する。
「………」
「おはようございます。真琴様。」
目が覚めると、笑顔の凛が目の前にいた。
「おはよう。」
「やりましたね!成功ですよ!」
「あぁ。」
最後の瞬間に確かに氷柱が崩れ去る所を見た。
「他の皆は?」
「シャルさんと、筋肉バカ、プリネラは成功です。」
「残るは凛とリーシャだけか。」
「はい。」
「俺はもう大丈夫だ。」
「…分かりました。」
凛と一緒に外に出ると、六本あった氷柱が、残り二本となっている。
「まずは私から。」
リーシャが弓を構える。使うのは普通の矢。そこに全ての魔力を注ぎ込んでいく。貫通力と破壊力の両方が高まっていく。それが、傍から見た俺にさえ分かる。
俺の時と同じ様にリーシャの体が一瞬揺れるが、なんとか持ち堪える。
「ここです!」
矢を放つと、真っ直ぐに氷柱へと向かって飛んでいく。今までは全ての矢が氷柱に弾かれてきた。
ゴウッという矢が飛んでいく音とは思えない音が聞こえてくる。
矢の先端が氷柱へと到達すると、氷柱の表面が吹き飛び、尚も止まらない勢い。
バキンッ!
結局リーシャの放った矢は、氷柱の中央を完全にくり抜いて壁に刺さる。
それを見届けたリーシャの意識が途切れ、倒れそうになる。当然倒れない様に受け止める。綺麗な緑色の前髪。その下にあるリーシャの表情は満足そうに笑っていた。
テントの中に寝かせてやり、凛の所に戻る。
「私が最後ですね…」
「気負うなよ。失敗してもまた明日挑戦すれば良いんだからな。」
「…はい。」
凛が杖を構える。
「アイアンウッド!」
凛の目の前に生成される円錐形のアイアンウッド。
「っ…」
一気に魔力を持っていかれたのか、倒れそうになる凛。思わず差し出しそうになった手を無理矢理抑え込む。まだ彼女の意識は途切れていない。
「行きます!」
そう言うと、アイアンウッドが氷柱に向けて飛んでいく。
ガンッ!
アイアンウッドの先端部が氷柱へと突き刺さる。
そこで凛の意識が途切れてしまい、倒れそうになる。
受け止めてやるが、アイアンウッドもまた霧散していく。
突き刺さったということは限界値ではあったのだろう。もう少し意識を保っていたならば…悔やまれる結果だ。
ピキッ!
そう思っていた俺の耳に届いた音。氷柱へと目を向けると、アイアンウッドが刺さっていた場所から氷柱全体へヒビが走っている。
ビキビキッ!
蜘蛛の巣状に走ったヒビが更に別のヒビを呼ぶ。
バカンッ!
全身に入ったヒビに耐えきれず、氷柱が粉々になってガラガラと崩れて行く。
「やったな。」
気を失い、俺の腕の中で目を瞑る凛に声を掛ける。
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