第41話

 紫の上客である蔦屋を引手茶屋まで迎えに行き、夜見世とともに玉楼で始まった宴席で、梅は、酒や料理の匂いにいつもの如く吐き気を覚えながらどうにか堪える。新造出しが終わった頃から、海に会えない悲しみも相まってか、身体に纏わりつくような気怠さは常に抜けない。

 それでもここ数日は、お凛と開かずの間で久々に腹を割って話せたおかげで心は幾分晴れやかになっていたが、水揚げが行われる今日は、お凛の憂鬱に引き摺られるように、再び気持ちが重くなっていた。


(お凛ちゃん大丈夫かな…)

「梅、おまえが得意な舞を、蔦屋様にも見せておやり」

「あ、はい」


 紫に声をかけられ、お凛のことを考え上の空になっていた梅は慌てて返事をし立ち上がる。だがその途端足がもつれ、倒れそうになってしまった。


「おいおい、舞の名手が立っただけでそんなによろけて大丈夫か?」

「申し訳ごさいんせん」


 蔦屋に揶揄われ、顔から火が出るほど恥ずかしくなり深謝するも、あくまで楽しそうに笑っている蔦屋に幾分安心する。蔦屋の機嫌を損ねてしまったら、お吉や佐知に何をされるかわかったものではない。

 とその時、突然座敷の外から男の怒声らしきものが聞こえてきた。


「なんだ?無粋に騒いでる客がいるようだな。

そういえば今日はお前が可愛がってる花里の水揚げの日だったが、逃げだして千歳屋が騒いでるんじゃないか?」

「蔦屋様ったら、妙なことを言んせんでくんなまし、花里が跳ねっ返りでありんしたのは禿だった頃の話でありんす 」


 紫はコロコロと笑ってそう言った後、丁度立ち上がっていた梅に、様子を見に行っておいでと命じる。梅はわかりんしたと返事をし、楚々とした足取りで座敷を出た。

 客前での緊張感から解放され思わず安堵したのも束の間、先程よりはっきりと聞こえてくる怒声が、蔦屋の言うとおり四季の間の方からだと気づいた梅は、まさかと青ざめ走りだす。


「ふざけるな!お凛にもこの玉楼にも、俺がどれだけ金を出してやったと思ってるんだ!」

「申し訳ありません!千歳屋様」


 案の定声の主は千歳屋だった。部屋の前には野次馬根性の客や遊女たちが何人か集まっており、激昂して怒鳴り散らす千歳屋に、お吉が必死に土下座して謝っている。しかしなぜか、そこにいるはずのお凛の姿が見当たらない。


(お凛ちゃんどこへ…?)


 目の前で起こっている状況に狼狽ながらも、お凛を探そうと踵を返した梅の脳裏に、開かずの間でしたお凛との会話がふとよぎった。


『ねえ、梅ちゃん…いっそのこと、ここで一緒に死んでしまわない?』

(もしかして…)


 確信はないまま階段を降り、行き着いたのは開かずの間。そこで梅は、一部始終を見てしまったのだ。

 お凛の自害を止めようとし、手の甲から血を流す源一郎。その源一郎を罵るお凛の悲痛な叫び。信じられない光景に思考が止まり、茫然とたちすくしていた梅だったが、突然後ろから乱暴に押し退けられ我に返る。


「源一郎!!」


 梅を退けたのは、先程四季の間で千歳屋に土下座をしていたお吉だった。お吉は恐ろしい形相でお凛を引っ叩き、後からやってきた忘八達がお凛の両腕を掴んで無理矢理立ち上がらせる。


「お凛ちゃん!」


 梅は咄嗟にお凛の名を呼んだが、お凛は魂を抜かれたような虚な瞳で通り過ぎていき、梅の姿などまるで見えていないようだった。折檻部屋に連れて行かれるお凛の後ろ姿を見つめたまま、梅の身体は今更のように震えだし膝から崩れ落ちる。

 

 忘八達の折檻は、今まで遣手達から受けてきた折檻とは比べものにならない。もし足抜けなどしようものなら、容赦ない男の力で血が吹き出すほど叩かれ続け地獄の苦しみを味わうと、源一郎や佐知に散々言い聞かせられてきた。

 お凛がそんな目にあうのは耐えられない。だが梅には、お吉や忘八達に逆らい、お凛を助けに行く勇気などなかった。

 

(倉稲魂命様…弁天様、どうか、どうかお凛ちゃんを助けてください)


 臆病で無力な自分を呪いながら、梅は必死に祈る。頭からは、座敷で待つ紫や蔦屋の存在など跡形もなく消え、やがて、全く帰ってこないことを不審に思った姉女郎が迎えに来るまで、梅はその場から動くことができなかった。














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