第30話

 夕暮れの始まりと共に賑わい出す吉原の仲之町を、お凛を先頭に、梅、数人の禿を引き連れた紫花魁、若い衆と、一際目を惹く華々しい行列が練り歩く。この日、玉楼の店前に美しい反物が積み上げるように飾られ、引っ込み禿から振袖新造となったお凛と梅の新造出しが行われた。 


 二人の新造出しと言っても、お祝いの手拭いや餅には、お凛の新造名花里が明らかに多く染め抜かれ、後ろ盾となっている千歳屋の贔屓はあくまでお凛であることが見てとれる。しかし、そんな内事情など知らぬ野次馬根性の見物客達は、大見世玉楼の金を惜しまぬ豪華絢爛な新造出しを一目見ようと道に溢れ返っていた。


「さすが紫花魁、お凛と梅のためにこれほどの新造だしをしてやるとはな」

「紫花魁というか千歳屋だろ。あのすけべ親父、今はお凛にご執心みたいだからな。梅も上手いこと一緒に新造出しできて見世も願ったり叶ったりだろうよ。どちらにしろ、俺らにもしっかりおこぼれがくるよう女将にとりいっといてくれよ、伊蔵」

「…」

「伊蔵?」


 見物客の中に紛れ軽口を叩いていた忘八達が呼びかけるも、伊蔵は食い入るようにお凛を見つめたまま全く返事をしない。


「ダメだこりゃ、完全に惚けてる、おい!伊蔵さんよう!」


 肩を叩かれようやく伊蔵が反応すると、亡八の一人が呆れたように笑う。


「あんた見るからにお凛に惚れてるみたいだが、金のあるお大尽様じゃなきゃ触れられない、絶対に手の届かない女だぞ」

「…わかってる」


 伊蔵は不機嫌な声でそう応え立ち去っていった。


「全く辛気臭~男だぜ、女将に気に入られてるからって胸糞悪い」

「まあ、お凛に伊蔵が惚れるのもわかるけどな、昔は器量がいいだけの糞生意気なガキだったが、ほんといい女になったもんだぜ、一度は抱いてみたいもんだ」

「バーカ!抱けるわけねえだろ!お凛が足抜けでもすりゃ俺らにも棚からぼた餅なんてこともあるかもしれねーがな、俺らは指くわえて見てるしかねえってわけさ」




 体中が重い。玉楼の一大行事である新造だしを終えてから、千歳屋は、水揚げや突き出しも楽しみだと益々お凛に馴れ馴れしくなり、これから先のことを考えると、憂鬱と絶望に押し潰されてしまいそうだったが、今はそれよりも、頭の中は毅尚のことでいっぱいだった。


(見物客の中に毅尚さんはいなかった。やっぱりもう二度と、会えないのだろうか…)


 あの日、お凛が毅尚の手を握ったことは即座に伝わり、絵の稽古は丁重に断ったと、忌々しげにお吉に告げられた。絵を依頼され蔦谷に連れてこられただけの毅尚が、客として玉楼へやってくることも、お凛の絵を描くという約束が守られることもきっとないだろう。


 胡蝶や梅のように、毅尚と深い仲になりたかったわけではない。毅尚に惚れているというのは佐知の勘違いで、ただ、毅尚に絵を教わったあの時間が、新鮮で楽しかっただけ。  

 そうなのに、そうであるはずなのに、なぜこんなにも胸が苦しいのか。約束ですと言ってくれた毅尚の笑顔や、絡めた小指の感触を思い出すと、涙が溢れそうになるのか


 お凛は自らの懐に手を入れ、一枚の紙を取り出す。そこには、毅尚に手ほどきをうけて描いた鼓草が咲いており、心は幾らか息を吹き返したが、ふとお凛の脳裏に、内庭にあった本物の鼓草の姿が掠めた。


(あの鼓草は、まだあそこで咲いているだろうか?)


  そう思ったら居ても立ってもいられず、お凛は走って内庭が見渡せる廊下に向かう。しかし、下駄を履き庭へ飛びだしたお凛が見つけたのは、綿毛がすべて飛び去った後の緑色の茎だけだった。 

 茎を残し飛んで行った綿毛は、風に乗ってどこかへ舞い降り、新しい地でまた綺麗な花を咲かせるのだろう。だが自分はずっと、この場所から飛び去ることはできない。この茎のように、一人この場所に残され、見ず知らずの男達や千歳屋に毟り取られるだけ…。


 お凛はその場にしゃがみ込み、残された茎をそっと撫でた。全てを諦めるようにため息をつき、顔を上げたその時、少し低くなった目線の先の景色に違和感を覚える。低木や下草が見栄え良く茂った庭石の下の土が、微かにだが不自然に盛り上がっているように見えたのだ。好奇心に導かれ、お凛は目眩ましのように生い茂った草をそっとかき分け土を掘る。


「これは…」


  現れたのは、長さ4寸程の小さな短刀だった。恐る恐る鞘から抜くと、鋭い刃は生々しく光り、お凛は思わず息を呑む。


(なぜこんなところに短刀が?)


 それは、玉楼の部屋持ちである菊乃が、間夫だった斎藤海と心中を計るも失敗し、発覚を怖れこの場所に隠し埋めたものだったが、お凛には知る由も無い。銀色に光る鋭い刃に魅入られるように、お凛は短刀の鋒を自らの掌に乗せじっと見つめた。


(これがあれば…)

「花里!」


 と、突然佐知に声をかけられ、お凛は慌てて短刀を茂みの中へ隠す。後ろを振り返ると、佐知が厳しい顔つきで縁側に立っていた。


「何してるんだい?」

「鼓草、まだ咲いてるかなと思って…」


 お凛の咄嗟の言い訳に、佐知は目を伏せ首を振る。


「あんたはもう立派な新造なんだから、子供じみたことはいい加減にやめておくれ。紫花魁が呼んでる、早く来な」


 佐知はそれだけ言うと、すぐに踵を返し去っていった。勘のいい佐知に深く追求されたら隠し通すことはできないと冷や汗をかいたが、意外にもあっけなく緊張感から解放され力が抜ける。  

 お凛は、佐知の姿が見えなくなるのを確認すると、短刀を鞘に戻し、鼓草を描いた紙と共に胸の懐に隠し持った。


(これがあれば、自分はいつでもこの世から逃げ出せる…)


 心の臓を一突きし、朽ち果てる自分を想像した時、死への痛みや恐怖よりも、今の苦しみから逃れられる恍惚にも似た仄暗い胸の高鳴りが、お凛の心を支配する。


(どこかに早く隠さなくちゃ) 


 思いついたのは開かずの間。梅が皆の目を盗み、頻繁に訪れている場所だが、他に短刀を隠せるところなど思い浮かばない。


「花里!」

「はい、今行きます」


 再び奥から聞こえてきた佐知の呼びかけに、お凛は穏やかな声で返事をすると、懐に手をあてゆっくりと立ち上がった。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る