第23話
自分が持っている中でも一番仕立てのいい小袖に着替え、今朝向島まで買いに行った、きよが好きな山本やの桜餅を手に持つと、毅尚は大きく深呼吸をして立ち上がった。
「よし!行くぞ」
しかし、誰にともなく声をあげたかと思いきや、突然不安に襲われ、ブツブツ言いながらしゃがみ込んでしまう。実は先程から何度も、毅尚は同じ行動を繰り返していた。
最初に家を出た時は、勢いも決意も強くあって良かったのだ。ところが途中、きよの描いた、お守りがわりの似顔絵を忘れたことに気付き、一端戻ってきたのがよくなかった。
こんな大事なものを忘れるとは、もしや天の神様が、行くのをやめておけと暗に自分に知らせているのでは?と悲観的になり、きよに冷たくあしらわれる自分の姿しか思い浮かばなくなってしまったのだ。
「だから振られてもいいと決めただろ!行くぞ!」
尻込みする自分に発破をかけ、再び立ち上がり引き戸に手をかけた途端、毅尚とは別の力ですんなり戸が開く。
「久しぶりだな、毅尚」
驚く毅尚の目の前に立っていたのは、かつて同じ門下で共に絵を学んできた友人、光楽だった。
「ど、どうしたんだよおまえ、なにしにきたんだ?」
長身の体躯に、観世水と水鳥が色鮮やかに織り込まれた、雄黄色の着物を来た光楽の姿は、毅尚の住む長家にはあまりにも場違いで、まるで鶏小屋に鶴が迷い込んでしまったような違和感がある。意外な客人に動揺する毅尚を尻目に、光楽はズカズカと中に上がり込んできた。
「なにしにきたってのは冷てえじゃねえか、旧友が久しぶりに遊びにきてやったってのに」
「いや、それはそうだけど」
確かに、普段の毅尚なら、光楽が遊びにきてくれたことを素直に喜んでいただろう。きよのところへ行く勢いをまた削がれたような気がして、毅尚はつい昔からの親友に、歓迎ではなく戸惑いの言葉を口にしてしまったことを反省した。
だが、非難がましい口調と裏腹に、光楽がやけにニヤニヤして自分を見ていることに気づいた毅尚は、不審に思い尋ねる。
「どうした?なにが可笑しいんだ?」
「おまえ、女ができたんだって?」
「は?違う違う!女なんてできてない!」
毅尚は動揺した。光楽は裏表のない気のいい奴ではあるが、何かとことを大きくするこの友人にきよとの事を知られたら、必ず根掘り葉掘り聞かれ面倒なことになるのは目に見えている。
「隠すな隠すな、で、どんな女なんだ?堅物なおまえが好きになるほどの女だ、よっぽどいい女なんだろう?もう抱いたのか?」
「だ!だ!抱くわけないだろ!おまえと一緒にするな!それにそんな尻軽な子じゃない!」
そこまで言って、毅尚はしまったというように口を押さえたが、もうすでに遅い。
「ほう、こりゃよっぽど惚れてるな、その女に」
してやったりとばかりに微笑み、正直に話すまでここを動かねえぞと言い張る光楽に、これ以上とぼけられないと観念した毅尚は、きよのことをすべて光楽に打ち明けた。
きよは自分の絵を、初めて買ってくれた人であること。一緒にいると楽しくて、時間が経つのも忘れてしまうこと。なのに、自分の臆病さからきよを傷つけてしまったこと…
「なるほどな、で、おまえはそのきよとどうなりたいと思ってるんだ?」
しばらく黙って話を聞いていた光楽が、核心をつくように毅尚に問いかけてくる。
「どうなりたいって、俺はただ、彼女の誤解を解いて謝りたい」
「んなこと聞いてんじゃねえんだよ、きよを嫁にしたいのかどうかって聞いてんの!」
「そんな、いきなり嫁だなんだなんてわからないよ。俺は、おまえみたいな人気絵師じゃないし、彼女も、彼女の親だって、俺みたいな男と一緒にしてくれるとは思えないし…」
と、いい終わらぬうちに、光楽は突然立ち上がり、毅尚に凄んでくる。
「ほんとにウダウダと情けねえ男だな!彼女の親がどうとかなんて聞いてねんだよ。おまえがきよをどうしてえのかって聞いてんの!本気で好きなら、その家からかっさらうくらいの根性見せろや!」
「そ、そんなことできるわけないだろ!」
「いや、本気ならできるね!おまえは自分の立場とやらを盾に言い分けしてるだけで、きよに対する思いも結局その程度のものなんだ」
「違う!」
「ちがくねえだろ?だいたいおまえ、最初からきよはお前に気がないと決めてかかってるが、もしきよもおまえのこと好いてたらどうするつもりなんだよ?あ、ありがとうございます、でも親が許してくれないし仕方ないですね、はいさよならか?好きな女一人かっさらって一緒になるくらいの覚悟もねえんなら、気持ち伝えに行く意味なんてねえんだよ!」
光楽の容赦ない言葉に、毅尚は何もこたえられず俯いて黙り混む。確かに毅尚は、きよに謝り自分の想いを伝えると決めていたが、その後のことは敢えて考えないようにしていた。どうせ叶わないことを望んでも、失望が大きく傷つくだけだと諦め、考えることを拒否していたのだ。
じっと毅尚を見つめ、返答を待っているようだった光楽は、やがてため息をつき背中を向ける。
「もういい、おまえはそうやって、一生欲しいものを欲しくないふりして生きてろ」
「…」
捨て台詞を吐く光楽に、気づけば毅尚は小さく呟いていた。
「…たいよ」
「え?」
聞き返して来る光楽を見上げ、毅尚は、今度は、はっきりとした声で告げる。
「一緒になりたいよ!なりたいに決まってるだろ!あの子と一緒にいられたら、どんなに幸せだろうってずっと考えてた。だけど俺は、おまえみたいな人気絵師じゃない、自信ないのなんて当たり前だろ!誰でもおまえみたいになれるわけじゃない!なのに、そんなことわかってるはずなのに、好きになっちゃったんだよ!二度と会えなくなるなんて耐えられない!ずっと一緒にいたいんだよ!」
突然感情が爆発し、言葉が止まらなくなる毅尚を、光楽は面食らった表情で見やったが、その顔は直ぐに人懐っこい笑顔に変わっていた。
「そうこなくっちゃ」
「ふう…」
きよを送り届けた時に、一度だけ来たことのある立派な酒屋の暖簾の前で、毅尚は大きく深呼吸をする。ここまで来たからには、もう逃げるわけにはいかない。
『いいか、行くからには言い分けは無用だ。嫁に来てくれっつってそのままここにつれてきちまえ、 結局女ってのは、男の強引さに弱いもんなんだ』
あの後、本当かよ?と心の片隅で疑いつつも、光楽の説得に心動かされた毅尚は、自らを奮い立たせきよの家へやってきた。
後ろを振り向けば、光楽が少し離れたところから、さも楽しそうな表情で、行け!と口だけ動かし毅尚を煽っている。絶対に面白がっているだけだろうが、それでも、ここまで付いて来てくれた光楽の存在に心強さを感じ、いざ店に入ろうと一歩踏み出したまさにその時
「いやなもんはいや!」
聞き間違いようのない声が響き渡り、突然店からきよがとびだしてきた。きよは毅尚に気づくや、先日のことなどすっかり忘れたかのように、毅尚さん!と駆け寄ってくる。
「きよちゃん、どうしたの?」
全く予期していなかった状況に毅尚が戸惑っていると、その後ろから、きよの母親と、父親らしき男がきよを追うように現れた。
「待ちなさい!」
その声から逃れるように、きよは毅尚の背中の後に隠れる。
「なんなんだおまえは!」
「いや、あのっ、仲沢毅尚です」
一体何が起こってるのか訳がわからないながらも、毅尚はきよを庇うように二人の前に立ちふさがり、間抜けな自己紹介をしてしまった。
「毅尚だと?」
すると男は顔を歪め、怒りもあらわに毅尚の胸ぐらに掴みかかってくる。
「おまえがあのわけのわからん絵を描く絵師か!娘をたぶらかしおって!」
「ち、違います!確かに僕はきよさんを好いていますが、僕ときよさんはまだ決してそのような…」
「そうよ!私は毅尚さんと一緒になる約束してるの!だからお見合いなんて絶対しないから!」
「え?」
きよの言葉に毅尚が息をのんだ次の瞬間、男の拳が毅尚の顔面を直撃し、その衝撃と痛みに、まるで時間の流れが止まったかのように、ゆっくりと自分の回りの世界が反転する。後頭部に衝撃が走り、同時に真っ暗になる視界。
「毅尚さん!」
(お見合い?一緒になる約束?)
頭の中にあはゆる疑問が駆け巡ったが、叫ぶように自分を呼ぶきよの声を最後に、そこからぶつりと何も聞こえなくなった。
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