第17話 お礼

 リーズに起こされたアメジアは、ベッドから飛び上がるようにして起き上がった。


 服装は、昨晩店を閉めた時と全く同じだ。

 清涼感を醸し出していた形の良い白衣は、今は随分とくたびれた装丁へと果てていた。皺が幾つも寄っている。


 アメジアは慌てて枕元に置いてあった眼鏡を掛けるが、少しだけ傾いてしまっていた。


 風の精霊に睡眠を促されたものの、その眠りは浅く、疲労は取りきれたとは言えない。

 彼女の目の下には、それを裏付ける紫の横筋が浮かんでいた。


「サフィアが目覚めた」


 その言葉を聞いて、アメジアはすぐさまサフィアの部屋へと向かう。

 しかし突然、サフィアの部屋の前で立ち止まった。

 まるで石像のように固まったまま、彼女は足を踏み出せないでいる。


「どうした?」


 後ろからリーズが声をかけるが、アメジアは、彼にただ一言返すことしかできなかった。


「こわいの」


 それは随分と小さな声だったが、リーズには十分届いたらしい。

 彼の尻尾が僅かに風を切る音が、アメジアの鼓膜を震わせた。


 サフィアの正体を知っていながら、ずっと隠し続けていた。

 しかも病気だと嘘までつき、外の世界と隔離し続けてきた。


 そのサフィアにどんな言葉でなじられるのか。

 アメジアはサフィアに責められることに怯えていたのだ。


 しかし、ここで永遠に立ち止まっているわけにもいかない。


 サフィアがどんな言葉を吐いても、それを受け止めなければならない。

 彼女が下すどんな罰も、自分は受けねばならない。


 アメジアは覚悟を決めた。


 深呼吸をし、乱れかけた心を静かに整える。

 そしてゆっくりと、サフィアの部屋のドアを開けた。


「おはよう」


 ドアが開いた気配を察知し、サフィアが先に朝の挨拶をしてきた。


 ベッドに上半身だけを起こした状態で、サフィアはアメジアに視線を送る。


 アメジアはサフィアの顔を見て、少しだけ安堵した。


 彼女が想像していたよりずっと、サフィアの表情は穏やかだったからだ。

 おそらく一晩中傍についていた、風の精霊のおかげだろう。

 だがその表情の下の本心まで、アメジアが推し量ることはできなかった。


「……おはよう」


 アメジアは懸命に、自然な笑顔を作ろうとした。

 だがうまくいかず、いびつな表情になってしまう。

 その顔を誤魔化すかのように、アメジアは眼鏡を掛け直しながら、先ほどまでリーズが座っていたベッドの前の椅子に腰掛けた。


「サフィア」


 アメジアは静かに少女の名を呼んだ後、頭を深く下げた。


「本当に、ごめんなさい」


「どうしたの? どうしてアメジアが謝るの?」

「だって……私は、あなたを――」


 そこまで言うとアメジアは唇を噛み、溢れようとする涙を堪えた。


 サフィアはそんなアメジアの手を静かに握ると、相好そうごうを崩す。

 それはこの雰囲気に似つかわしくないほどの、眩しい笑顔だった。


「アメジア、ありがとう」


 サフィアの口から出たのは、アメジアが覚悟していた罵倒ではなく、礼だった。


 アメジアはその礼の意味が、さっぱり理解できないでいる。

 双眸を見開き、サフィアの顔を呆然と見つめる。


 サフィアはアメジアの手を握ったまま続けた。


「アメジアは私が傷付くと思って、今まで黙っていてくれたんだよね。

 そして私が怪我をして自分の血を見ることのないように――他の人が私の正体を知ることのないように、ずっと家の中で見守っていてくれた。

 だから、ありがとうアメジア。出会った日からずっと私を守ってくれて、本当にありがとう」


「……あ……」


 アメジアの想いは伝わっていた。


 まだまだこの世界は、サフィアの存在を受け止めきれるほど、科学は発展していないとアメジアは思っていた。

 それなのに彼女の師は、たった一人で世界の常識を覆え返さねないことをやってしまった。


 サフィアの存在を誰も知ることのない世界。


 きっとそれが、サフィアにとっても皆にとっても幸せなのだと、自分に言い聞かせてきた。


 これは独りがりな実に勝手な想いなのかもしれないと、何度も自問自答した。苦しかった。


 アメジアが今まで押し黙っていた、サフィアに対する措置の本当の意味。

 それを少女は、言葉に出さずとも汲み取ってくれたのだ。


 アメジアの心に居座り続けていた鉛のように重い罪悪感が、徐々にその姿を消していく。


 礼を言われるようなことはしていない――。


 アメジアはサフィアにそう言いたかったのだが、彼女の口からは掠れた音が出るばかりで、意味のある集合体になろうとはしない。

 アメジアの目から、堰を切ったように涙が溢れ出す。


 驚いた眼差しで見つめてくる少女に、これだけは言わなきゃと、アメジアは喉の奥から声を絞り出した。


「私こそ、ありがとう。ずっと、傍にいてくれて」


 アメジアの言葉を聞いて感極まったサフィアは、ベッドから飛び出し、その胸に勢い良く飛び込んだ。


 少し開いたドアの向こう。

 二人の様子を腕を組みながら見守っていたリーズは、毛艶の良い尻尾を左右に振り、穏やかな笑みをこぼした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る