千年大祭
山田沙夜
第2話 屋根神さまの空っぽ祠
新月から数えて四日目の月が西へ傾き二〇階建マンションに隠れたころ、雲が月を隠して雪が降りはじめた。
降るというより舞うというささやかさだが、朝になれば一面の雪景色が見られるだろう。
雪は、屋根を見上げている水澤芙美の毛糸の帽子に舞い降り、顔にもダウンコートにも降りている。
雪はほんの一瞬とどまっては溶けていたが、だんだんとそこかしこに残りはじめていた。
芙美のかたわらで、隣家の中谷夫婦が寒そうに足踏みしている。
中谷貴美恵が窓から雪のなかにたたずむ芙美を見つけて声をかけてみたものの、芙美は家に戻らない。ほおってもおけず夫拓哉と外へ出た。
冷える。でも八六歳の芙美を雪の中でひとりにはしておけない。
貴美恵はさっと家に入り、ささっと拓哉と自分のコートを持って戻った。寒い夜はまず爪先から冷えてくる。しもやけにならなきゃいいけど。
どうすりゃいいんだ。拓哉も喜美恵も途方にくれた。
かすかに酒のにおいをさせながら、帰り道を急いでいた佐野実花が立ちどまり、中谷夫婦に会釈をしてから芙美の顔をのぞいた。
「やっぱり芙美おばちゃんだ。こんばんは。いまごろ屋根神さんをお参りしてるの? 雪降ってるがね。身体が冷えちゃうよ。
屋根神さまは昔々に氏神様へお札をお返ししたでしょ。だからもう祠にはなにもいらっしゃらないよ。祠は空っぽなんだよ。
お札納めの日は、わたし六年生だったんだ。よく覚えてるもん。
毎月の祭礼の日じゃなかったけど、子ども獅子をだしてお菓子をもらって、夜には祠の提灯と笹提灯も立てて灯りを入れたよね。きれいだった……懐かしいな」
芙美は「おばちゃん」と呼ばれて、ちょこっと肩をすくめる。「ばあちゃん」と呼ばれるほうが心が落ち着く。
「そうなんだわね。まだ三〇年は経っていない。だけどもう二五年も昔になっちゃったねぇ。
実花ちゃんの言うとおり祠は空っぽのはずなのに、このごろ何か棲みついとるみたいなんだわ。なんかいる気配みたいなもんがあるんだよ」
「猫かな。それに屋根裏にハクビシンとかアライグマなんかが住みついちゃうこともあるみたいだけど、屋根神さんの祠じゃハクビシンにもアライグマにも狭すぎるよね」
「やっぱり空っぽの祠を空っぽのまんまいつまでも置いといちゃかんね。悪いもんがいるわけじゃなさそうだけど」
実花の寒気は、ただ寒いだけのせいなのかもしれないが、ちょっとオカルトめいた芙美の話のせいのような気がしてくる。
そこに見えないなにかがいる、というのはなかなかゾクゾクして怖ろしい。
雪の夜、空っぽの屋根神さまの祠、なにかいる気配……芙美さんの感覚に同期しちゃったかな。見えてはいけないものが見えてしまいそうで、今夜は屋根神さまの祠を見られない。
雪が屋根の上の、すっかり古くなった祠を白く見せはじめている。
「実花ちゃん、ほろ酔いだね。信兵衞で飲んどったんか」
中谷拓哉の問いに、実花はムッとしながら「同僚と女子大小路で、ね」と答え、このタイミングを逃さず「じゃ、おやすみなさい」と高齢三人組に挨拶した。
高齢といっても中谷夫婦は芙美より一〇は若い。
イヤなじいさん。『いきおくれが夜ふけに酒飲んで帰ってくるたぁ、みっともない』という眼だよ、あれは。貴美さんはいいおばさんなのに。くそじじいにはもったいない。
今夜は二月最後の金曜の夜で、女子大小路は名古屋の夜の街だ。しかも冬の名残りとばかりの寒気が南下して、冷え冷えと雪まで降らしている。
昔、女子大小路には女子大があった。五七年ほどまえに女子大は名古屋市近郊へ引っ越して、繁華街として女子大小路の名前が残った。「栄ウォーク街」という正式名称で呼ばれても、「そこどこ?」と首を傾げる人のほうが多そうだ。
実花は三人分の「おやすみ」を背中で聞いて、背中を向けたまま手だけふってバイバイした。
「おう、佐野さんとこの……実花ちゃんだな。おかえり」
小走りでやってきた民生委員の小木曽悟とすれ違う。中谷さんに呼びつけられたな、実花は同情しながら自宅へ早足になった。
「どうも、こんばんは。冷えるねえ。芙美さん、とりあえず千年神社の神主を呼んだで、じきに来てくれるワ」
運動不足で肥満ぎみというより、とっくに肥満体型な小木曽は、一〇〇メートルほどを小走りしてゼイゼイいっている。
「悟くん、すまんかったな。千年神社とは、いかにも手近にすませるなぁ。ま、いいけどさ。自分とこの神さんじゃないのに、こんな雪の夜を千年神社の神主が来てくれるんか。頭がさがるワ。
ほんだで芙美さん。あとはわしらでやらせてもらうで、家ん中に入っとりゃぁ。寒いでかんて」
「それがいいよ。風邪ひいて肺炎にでもなったら一大事だでね」
喜美恵が添えたひと言が、芙美の頑なスイッチを入れたようだ。
「うちの神様の事ですで、ここにおります」
「千年神社の神主が来たら呼びますで」と小木曽がもうひと押し声をかけた。
「ここで待たせてもらいます」
芙美は背筋を伸ばす。丸くなった背が少しだけ伸びたようすをみせた。
ここで四人は言葉を失くし、屋根神さまの祠を見上げるばかりだった。
貴美恵が芙美の帽子に積もった雪をそっと払っている。
「千年神社は氏子がおらんのだろ。寄進の申し出を断られたって話もよう聞くけど、金はどこから来とるんだ」
「無粋なことを聞くなよ。大御座神社の交差点な……」
「大御座神社ぁ?」
「だから、千年神社なんてのはなくて、あそこは大御座神社と言うの。ここんとこへ刻み込んどけ」
小木曽はイライラを隠すことなく指で自分の頭をつついた。小木曽は、自分より年長の中谷にはタメ口で遠慮がない。
大御座神社には昼夜問わず一年中、墨で「千年大祭」と書いた五メートルはある幟が立っている。なので、このあたりのたいていの者は大御座神社を千年神社だと思っている。
「あの幟は一年に一度、大晦日に新調することにしとるらしい。大晦日に間に合わんかったら節分には間に合うように新調するんだそうだ。そういうとこはいい加減だがな。
神主の天土鎮梦くんは神社に向き合う大通りの角にあるビルの地主だ。ビル三つ分の地代で十二分にやってけるだろうさ。なんたって名古屋の真ん中あたりの大通りの交差点角だぜ」
「たんまり、だなぁ」
中谷は俗物候のため息をつくのだった。
昔々その昔の大昔、大御座神社は直径一里ほど森を持っていた。
けれど時代の流れと変容、変動に添わせるように、時の神主は大御座神社の森を削り取るように小さくしていった。なにより御神体を護らなければいけない。
現在は北東角に大御座神社、南東に第一、南西に第二、北西に第三とアマトビルを建て、必要最小限の森を保守してご神体守護を果たしている。
「神社の北の奥のあたりな、無駄に広い森になっとるだろ。あのあたり駐車場にでもすりゃあいいのによ」
いかにも中谷らしい発言に、小木曽はやれやれとため息をついた。
「いや、だめだな。森の下には大御座神社の御神体の磐座が地中深く横たわっとるそうだ。鎮梦くんは『ここの土地は怖くて触れん』とか言っとったぞ」
「あの、ちょこんと頭出しとる御神体の石はそんなにでっかい岩なんか。なんか氷山みたいだな。
神主が怖くて触れんってえと、触ると障りでもあるんか。そりゃ、触らぬ神になんとかだワ。古い神社だとは聞いとるが。どれくらい古いんだ?」
「大御座神社は縁起も祀り事も、なにしろ口伝だから証明はできんらしいんだが、一万年以上は遡るらしい」
「一万年……なんだそりゃ。一万年前たあ、いったいいつのこった」
「縄文時代の前だな。鎮梦くんによると、神社などなかった時代の、磐座の守護者のような一族だったということだ」
「吹っかけるなぁ、おい」
そう言って高らかに嘲笑する中谷を、小木曽はギロリと睨んだ。
雪は強くもならずやみもせず、ひらひらふわふわ舞いつづけている。
ノーマルタイヤの車が遠慮がちに通っていった。車一台分の狭い道路だが、一方通行になっていない。
頭や肩にかかる雪を払いながら町内の顔見知りが、「こんばんは」と言いながら歩いていく。
キッ…… 小木曽の背後で自転車がブレーキをかけて止まった。
「鎮梦くん、わるいなぁ。自転車で来て大丈夫か」
「まだ雪が凍ってませんし、この降りかたならたいして積もらないでしょうから」
天土鎮梦は小木曽に頭を下げ、自転車を道路脇に移動させた。
鎮梦は背が高く、筋肉質のしっかりした体躯なのに、いつ見ても幽霊のように重みを感じさせない。
「中谷さん。こんばんは」
中谷は一連の天土の動きを、まるで蝶々か雪女みたいだ、と思いながら眺め、はっと我に帰った。
あかん。この男はなんか苦手だワ。
「やっ、天土くん。お疲れさん。じゃあ、あとのことはお任せするんで、わたしらはこれで失礼させてもらうワ。おやすみ」
さっさと家に戻っていく亭主をひと睨みして、貴美恵は「神主さん、こんな夜に来てもらってわるかったねぇ。お世話かけます」と深々とお辞儀をした。
貴美恵は自分のコートを芙美にかけて、「これ、明日の午前中に返してもらいにいくでね。気にせんと、あったかくして寝やあね」と芙美の背中をなんどか撫でてから家へ戻っていく。
「貴美ちゃん、ありがとね。いろいろお世話かけたね。これまで、よう気にかけてくださって、感謝しとります。ほんとうにありがとうね」
芙美の言葉に、貴美恵ははっとしたように外へ戻りかけ、ほんのしばらく問うように芙美を見つめる。貴美恵の眼がかすかにうるみはじめていた。
「芙美さん、おやすみね。あったかくしてね」
笑みを浮かべてうなずく芙美に、貴美恵は繰りかえし繰りかえしそう言いながら玄関の引き戸を閉めた。
「おやすみなさい」
鎮梦の声が貴美恵を追った。
毎月一日と十五日は屋根神さまの祠に紫の幕を張り、細長い筒のような提灯を掲げていた。真ん中に熱田皇大神宮、向かって左に津嶋神社、右に秋葉神社。お供えはお神酒に洗米、野菜に菓子。
陽が暮れると提灯に御神燈をともし、お供えを下げて、火が消えるまで見張りをおいてお護りした。
小木曽はすっかり忘れていた幼い日の記憶をくっきりと思いだしていた。
幼いころは屋根神さまじゃなくて「お天王さま」と呼んでいたような気がする。じいちゃんが「昔は素盞嗚尊様がござった」と言っていたが、じいちゃんの「昔」がどれくらい昔なのかは見当もつかない。大正か昭和のはじめぐらいだろうか。
芙美さんもご亭主もまだ若夫婦だったころ、月の祭礼の翌日はお供えのお菓子を「おさがり」と言ってもらいに行っていた。
よその町内の子も来ていたから、お供えの菓子だけじゃ足りなかったはずだ。きっと明道町の菓子問屋へ買い足しに行ってくれてたんだろう。
芙美さんのご亭主は庄司さんだったかな。三年ほど寝ついて亡くなった。癌だったと聞いた。
「じいさん」と呼んでたけど、考えてみりゃ庄司さんが亡くなったのは六〇を一年か二年過ぎたころだ。いまの俺と同じぐらいだ。俺も「じいじ」と呼ばれてるんだから、じいさんなんだよなぁ。
はぁーあ。
芙美さんが屋根神さまのお札を返したのは、庄司さんが亡くなってしばらくたってからだ。七回忌を終えてからだったんだろうか。
俺より二つ先輩の芙美さんの長男、淳史さんはシンガポールに永住するらしい。同級生の長女の郁美が、芙美さんと同居するためにこの家を建て替えるとか言ってたな。
ふと横を見ると、鎮梦が腰と膝を曲げて、芙美さんの目線にあわせていた。
小木曽は鎮梦の横顔をまじまじと見た。
まったく端正な顔をしてるぜ。四〇男のくせに腹は出とらんし、女がいるようでもないが、男がいるようでもない。
つい、「童貞?」と訊いたことがあった。鎮梦くんはにっこりと「そうですよ」と答えたものだ。あのときは心のなかで、ほんとうか?と疑い、うそだろと疑った。
どうにも中性的なんだよな。イケメンだが妙な奴だ。
「祠のなかに、たしかになにかいますね。悪いモノではないようですが、福をもたらすようなモノでもないようですよ、芙美さん。無害なモノのようですがですが、祓っておきましょうか?」
「そうねぇ……」
芙美は首を右に左にとかしげ、ふふ……っと笑った。
「害がないなら、まだ寒いから、追い出すのは気の毒ね。暖かくなってからまた考えることにするわ。千年神主さん、桜が咲いたらまた来てくれる?」
「いいですよ。約束しましょう」
芙美と鎮梦が指切りするのを見て、小木曽はつい「俺も」と言ってしまった。芙美と指切りし、鎮梦と指切りして小木曽は嬉しかったし、嬉しい自分が嬉しかった。
男二人で玄関までほんの数歩、芙美をエスコートする。小木曽が貴美恵のコートが落ちないように、芙美の肩に掛けなおした。
「おやすみなさい。暖かくして寝てくださいね」
「おやすみなさい」
「おやすみ。いい夢見てね」
玄関戸が閉まり、カチリ、カチカチカチッ、二つの鍵がかかる音がした。
鎮梦がやわらかい声で「おやすみなさい、芙美さん」とささやいた。
「じゃ、おやすみ、鎮梦くん。おつかれ」
「おつかれさまでした。おやすみなさい」
「自転車は引いて帰れな。スリップしてころぶぞ」
「私を甘くみないでください。小木曽さんこそ、すべってころばないように」
人通りが少なくなった夜の道を、遠慮がちな笑い声が通っていった。
祠のモノが付かず離れず鎮梦についてくる。
小木曽の姿が見えなくなったので、そろそろ自転車に乗ろうと考えていたときだ。しかたがないので自転車を引き、歩みを遅くした。
どうしたんですか? 屋根神さまの祠を出て、どこかへ行くのですか。
『祠があるあいだは、祠にいるつもりなのだが』
よければ世間話でも。うちの神社へいらっしゃいますか。
『いや、遠慮する。大御座神社には怖ろしくて結界から中へ入るつもりはない』
わかりますよ。私も毎日ご神体の磐座を怖ろしいと感じています。では、どうして私についてくるんですか。
『あなたはこのまま神社へ帰ってしまうのかと』
いけませんか?
『いっしょに芙美さんを見送ってくれるのかと』
スクランブル交差点の歩行者用信号が赤になった。小木曽の注意に従ったわけではないが、芙美さんに断りなく祠を借り住まいしてきたモノといっしょに、自転車を引きながらだらだら歩いていた。
『芙美さんは明日の太陽を見るつもりはないようだ』
わかっています。私は社務所で見送るつもりです。芙美さんの旅立ちは未明四時ごろのようですね。
『そうだ。芙美さんはまだ暗いうちに逝ってしまうだろう。そのときに、いっしょにいてほしいんだが、だめだろうか』
いいですよ。
『ありがとう。お願いするよ。あの祠には屋根神さんたちの気配が残っていたせいなのだろうか。とても居心地がよくて、ずっと居つくいるつもりだった。終わりが来ることなど失念していた。望みが強いと、先を見る眼が曇るのだね。永遠の居場所を見つけたと思ってしまった』
そういうものですか。これまでは何処にいたのですか。
『これまでも人の近くに身を寄せてきたのだよ。だが同じ屋根を使うほど近くにはいなかった。人家近くの古木のうろや、家畜小屋や物置なんかにいた。さして長居をせずにあちらこちらと渡ってきたのだよ』
廃寺や産土神が去られた祠などにも居つかれたのですか。
『いや、そういうことはなかった。そういう場所は夏でも凍える。冷たく寒いんだ。時には悪や魔、穢れが残っていたり、そういうモノが居ついていたりしてね。見つけても近づかないでいた』
そうでしたか。ところで庄司さんはご存知ですか。
『いや。祠に居ついたのは、芙美さんのご主人が逝って、祠の神さんたちがそれぞれ神宮や神社へ帰っていかれて、祠が空っぽになってからだ』
信号が青になったが、鎮梦は祠のモノを遠出させないほうがいいと感じた。遠出といっても、大御座神社へは歩いて一〇分ほどなのだが。このモノが言うように、大御座神社にこのモノを近づけないほうがいいと思えた。
『私は死んでいく人のそばにいたことはない。死がどういうものかわからないから、近づかないできた。だけど芙美さんが死にゆくときはそばにいて見送りたい。だがもしかしたら、私も死に連れて行かれるかもしれない。誰も死からは戻ってこない。もし死に連れていかれたら、私は死から戻れず、永遠に死のなかにいなければいけない。あなたは死のなかにいったことがあるか?』
いいえ。私たちには死がない。消滅するだけなのです。消滅が死と同等なのかはわかりません。
『消滅……それも怖ろしい。わからないものは怖ろしい』
私たちは消滅を怖ろしいと思わないのです。
青信号を二度見送るほど、祠のモノは沈黙していた。
鎮梦は寒さを知らない。暑さも知らない。天土鎮梦として使っている死者の身体の皮膚を通して感覚を組み立てるだけだった。
祠のモノは夏を暑く冬を寒く感じるのだろうか。それとも廃寺や無神の祠を冷たく寒いと感じるのは、魔や穢れ、悪しきモノをそう感じとるのだろうか。
青信号が点滅して赤になった。
とうに深夜なのに人は歩いているし、車も通っていく。
『大御座神社の神主さん』
天土鎮梦です。しずむと呼んでください。私はあなたをなんと呼べばいいですか。
『名はない』
……では水澤はどうですか。
『芙美さんの水澤……。それがいいです。清らかな水はいいものです。澤のそばもいいものです。鎮梦』
はい。
『死が私も連れていこうとしたら、止めてください』
わかりました。
「死」という何ものかがいるのか、あるいは人の死によって開く門があるのだろうか。死は芙美さんの記憶をメモリーデータのように保存するものだろうか。
人が死んでゆくときにその場にいたことは何度もあった。二度と眼を覚まさず、身体は冷たくなっていき、腐敗していく。その経過はよく知っているが、それだけだった。
水澤は鎮梦を離れ、屋根神さまの祠に戻っていった。
午前四時。それなら三時半には起きなければならない。わたしに眠りは必要ないが、この身体の養生としてはどうなのだろう。睡眠はいつも足りていないのはわかっている。今夜は身体を眠らせておこう。
私はもとより身体を持たないモノだ。水澤のように空間にいるモノだから。
真っ暗にならないていどの常夜灯だけが灯してある部屋で、芙美は左側を下にして、身体を丸めて寝ていた。すのこの上に厚みのあるマットレス、暖かそうなベッドパット、ふわふわの羽毛かけ布団。
『還暦を過ぎた娘がよく訪ねてくる。芙美さんの身の回りを整えている。芙美さんはデイサービスに行ってるし、夕方にはヘルパーが食事をつくりにくる。今日もきていた』
水澤は芙美の枕元にいて、鎮梦はそのそばにいた。
オイルヒーターが部屋を暖めはじめるのは午前七時だ。
芙美がゆっくり寝返りをして、上を向く。
うっすら眼をあけ、微笑んだ。
大きく息を吸い、身体から抜けるように息がゆっくりでていった。芙美の呼吸がとまった。
うすく開かれた眼は穏やかにうつろになっていく。
そのまま何も起こらない。
死は姿を見せなかった。
天土鎮梦の睡眠はいつも狸寝入りだ。身体は眠り、意識は眠ることはない。だがいつの間にか意識を狸寝入りさせるようになってきた。
鎮梦の身体の持ち主は、女に殺された。
男のルックスに惑いつつ、男の心の弱さを優しさと勘違いして、この男を愛した女たちは両手の指を使って数えても余りある。
たいていの女はほどなく愛想をつかすが、男とおなじぐらいに弱い心の女は耐えられずに男を自分の範疇から消しさった。雨の夜、男の住む第三アマトビル十一階の非常階段から突き落としたのだ。
そのころ老女、天土朱鷺として暮らしていた鎮梦は、転落死した男の身体を養生して、大御座神社の神主、天土朱鷺の葬儀をした。男の死は誰に知られることもなく、男は行方知れずとなった。
近隣の人たちには、大御座神社の代々の神主は、天土一族から送られてくると言ってある。
天土一族は各地を点在して暮らしているが、一族が出会うのはそれぞれの祀りごとのときぐらいだ。たとえば大御座神社の千年大祭のような。
男を突き落とした女は、間もなく狂気に捕われ、精神を病んだ者の療養所で暮らしている。
鎮梦はときおり、地中深くに潜り磐座に添い寝する。
磐座は鎮めておかなければいけないものを保護し封印するものだ。
そのものはいつもゆっくり地中深く、外核に近いマントルを移動している。天土一族はそのものがどこにあるのか、常に把握している。
そのものはこの惑星のもので、惑星が星として成立し、太陽の重力に捕らえられ、軌道を回りはじめたころからあるのだと推測している。
そのものは激しく動くことがある。この惑星の時間で五〇〇年から二千年に一度ほどだ。
何度目かのそのときに、私たちはこの惑星に取りこまれ、惑星全体に散った。日本に降りたものたちは自らを「天土一族」と呼ぶようになった。
他の場所に降りたものは、その場所に似合う呼び名を自らにつけた。
人が「人」となりはじめたころだ。
地中は熱くもなく冷たくもない。空洞があり、硬い場所柔らかい場所があり、陽は射さず闇ばかりだ。
地中で鎮梦は穏やかであったり、閉塞感を感じたりする。感情の波ともいえる感覚を感じるのが不思議でならない。
私たちは空間をただ漂い、目的は持たず、感覚は平坦に保たれてきた。
感覚や感情はないはずなのだが、いま自身を「私」と呼ぶのだから、自覚がなかっただけで感覚や感情を持ち合わせていたのだろうか。それともこの惑星での長すぎる滞在がもたらしたものなのだろうか。それははたして恩恵なのか害悪なのか。
私たちはいつかこの惑星の重力を離れることがあるのだろうか。
地中の闇の中で、磐座はぼんやりその輪郭を見せている。触れると、とても冷たい。地上に出ている部分もおなじ冷たさだ。凍った水とおなじほどの冷たさだろう。
地表にちょこんと頭をだしている磐座の、一メートル四方ほどの篠竹の垣根は、高さが六〇センチほどで、竹と竹の間隔は十五センチほどだ。地面への打ち込みはしっかりしているが、簡単に跨げているし、手を差し入れることができる。
鎮梦は意図的に隙間をつくった。参拝にきた人が触ったり撫でたりするのを、磐座が望んでいるように思えるからだ。
だが囲いの中に入って磐座に抱きつく不届き者がいる。ときには願い事でもしているのか、五分、十分と触れている人もいる。
それでも凍傷になっただの、凍りついて皮膚が剥がれただの、手指の組織が凍ってしまって、解凍したらその部分を切断することになっただのの騒ぎは、ありがたいことに一度もなかった。
ただまれに感覚が鋭い者がいて、磐座を不気味だと感じるらしい。磐座の深い下にいるものを感覚でとらえているのかもしれない。
冬に磐座が冷たいのはわかるが、猛暑の夏もとても冷たい。
磐座は冷たくなければいけない。
磐座が熱を持ちはじめ、冷えもせず、徐々に高温になっていくとき、私は天土一族を招聘しなければならない。
他所でそのようなことがあれば、私もまた招聘される。磐座が封じているものを鎮めるために、天土のモノの何人(人ではないが)かは消滅していくだろう。
これまでそうであったように。
昼前に小木曽がやってきた。手水をつかい、拝殿へ向かう。賽銭箱に硬貨が落ちる音がして、鈴が鳴り拍手を打つ音がした。
小木曽が社務所の引き戸を開けると、鎮梦が「コーヒーでいいですか」と訊いた。社務所にはコーヒーの香りが満ちている。「いいですか」もないだろう。
「いいよ。わるいね」
小木曽は年季の入った椅子に腰かけた。
すぐにコーヒーとひと口サイズのバームクーヘンが盆に載ってきた。二人してバームクーヘンを食べコーヒーをすする。
「芙美さんが亡くなった。たしかに昨夜はそんな予感がしたよ。だけど昨日の今日だぜ。キツイな」
小木曽はショートモヒカンにした頭をこれでもかとかきあげ、「はあぁ」と息を吐いた。
「そうですか」
「今朝、芙美さんが郁美の夢枕に立って『ありがとう。達者でね』と言ったらしい。郁美がびっくりして飛び起きると、シンガポールの淳史さんから電話があって、やっぱり芙美さんが夢枕に立ったんだと」
「夢枕に立ったんですか。芙美さんの最後の意思でしょうか。それとも魂というものが自分の死を知らせたんでしょうか」
「どっちでも同じだよ。芙美さんは息子と娘に『彼岸に渡る』と知らせにいったんだ。彼岸だよ、芙美さんは彼岸へ渡ったんだ」
鎮梦はうなづきながらコーヒーを飲みほした。
「今夜七時から浄妙寺でお通夜だが、鎮梦くん、いくか?」
「もちろんです。あ……念珠は持っていますからお気遣いなく」
浄明寺には水澤も来ていた。
四月になったら芙美さんの家は取り壊される。
屋根神さまの祠は、私設の民間信仰博物館に展示されることになった。 了
参考文献
『屋根神さま』芥子川律治著(名古屋市教育委員会)
noteより転載
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