第5話 あの雨の日に起こった事(回想②)〜邂逅〜
「あ……雨真宮……かい…ちょう……?」
「〜〜————!!」
その瞬間、彼女——雨真宮会長は透き通った美声を上げた。だが、混乱する僕の脳内ではその言葉をうまく聞き取ることができなかった。降りしきる雨の中、抱きしめられた衝撃で遠くの方に飛んだビニール傘の内側に雨粒が溜まる。
そして、僕の肩に回された会長の華奢な両腕が、小刻みに震えていることに気付くのに僕はかなりの時間を要した。
「お嬢様! 何をなさっているのですっ!!」
僕の後方に止まる車の運転席のドアが勢いよく開け放たれ、そこから漆黒の燕尾服に身を包んだ老齢な男性が飛び出しこちらに向かい走ってきた。その言動と格好から察するに雨真宮家の執事だろうと容易に想像できるが、本物の執事というものを見たことがない僕にとっては衝撃そのものだった。
その彼が傘を携え僕らに近づいたその時、恐らく先ほどと同じ単語であろう叫びを会長は再び上げた。
「……ペス——!! あぁ……ペス——!!」
今度は僕にもはっきり聞こえた。でも、ペス……? ペスって一体……? 検討もつかない単語に混乱する僕だったが、会長の抱擁する力の加減に耐えられず思考がそこで止まる。
「くっ……苦しいです、会長……」
「——ハッ……!」
僕のつぶやきに我を取り戻した会長は、すぐさま自分の体から僕を離すと自分でも驚いたようなリアクションと茫然自失といったような顔を僕に向ける。そのまま彼女は言葉を発さず、僕の両肩に乗せた手のひらにギュッと力を込めた。
「……会長……?」
僕は驚いた。面と向かい凝視した会長の顔が、普段見慣れた凛々しく悠然としたものではなく、まるで大好きな人形を無くしてしまった幼子のような寂しさと悲しさを全面に出した
やがて、雨で濡れそぼった前髪がハラリと目にかかると同時に会長はその小さな口を開き始めた。
「……すまない。いきなりこんなことをされてひどく驚いただろう。私はなんて弱く、非力な人間なのだろう……。本当にイヤになる」
「え……? 非力? 弱い?」
おかしい。普段の会長ならおそらく滅多に口にしない単語がボロボロと出てくる。さっきの行動にもかなり度肝を抜かれたが、僕は、今地面にヘタリ込む会長の様子にもかなり驚かされていた。
「お嬢様……! 早くお立ち上がりください! いくら初夏の雨といえどこれ以上はお体に障ります」
そう急かす執事さんは、持ち手に細かな装飾が施された大きな黒い傘を会長の頭上に掲げた。その大きさは会長の隣にいた僕の足元にも影を落とすほどで、今アスファルトに寝そべっている僕のビニール傘が何故か可哀想に思えた。
「あぁ、すまない。心配をかけたな
差し出された会長の手に引かれながら立ち上がった僕は、今発せられた彼女の言葉の最後の単語に一気に意識が集中する。
「あっ、はい。僕はなんとも……え? 今僕の名前——」
「制服がひどく濡れてしまっているな。このまま君を返したのでは雨真宮の名が廃る。ぜひ、我が家にてクリーニングさせて欲しい」
僕の質問ともいえない小さなつぶやきは、会長の思わぬ提案によってかき消されてしまった。ていうか今なんて? ひょっとしてあの雨真宮財閥のトンデモ屋敷に招待されてる? マジ……?
「えっ……? いや、そんな……こんなの速攻家に帰って洗濯機にぶち込めばなんとか……」
「それでは私の気が済まない。お願いだ。ぜひ、我が屋敷に」
繋いだままの会長の手に力が込められる。そこで僕はようやく“手を離していなかった”という事実に気付き、顔面に熱が昇る。
「いや……でも……えぇ? というか、雨真宮会長……その……手を……」
僕のなんとも情けない童貞度120パーセントのつぶやきは、またしても第三者の言葉によってかき消された。今度は執事さんの言葉で。
「お嬢様のおっしゃる通りです。もし、小堺様のご都合がよろしければ雨真宮家の使用人を総動員させ、お召し物を新品同様にクリーニングいたします。もちろん、その間のおもてなしもお任せ下さい!」
立派に蓄えられた白ひげ顔をグイッと寄せ、丁寧にお辞儀をする執事さん。その際、コロンのような匂いが僕の鼻腔に届いた。やはり一流の執事ともなれば身だしなみにも気を配るんだなぁと驚く僕だったが、着目するべきなのはそこではなかった。
「……小堺様! ぜひ! ぜひ雨真宮家へ!
いや、押し強いなこの人! 何故そんなに!? さっきまでの流麗な仕草は何処に行ったの? などと考えていた僕はこの押しに負けて、口から肯定の意思を漏らしてしまった。
「すっ……少しだけなら……」
その言葉を聞いた瞬間、会長は繋いだ僕の手に再び力を込め、強くその手を引き始めた。
「よし! では善は急げだ。行こう小堺君!」
「あっ……ちょっと待ってください雨真宮会長!」
会長に手を引かれ車へと向かう僕たち二人を、僕のビニール傘を急いで回収した執事さんが猛スピードで走り抜いていき、車の後部座席を息を切らしながら、しかし悠然とした仕草でガチャリと開け放った。
「……執事さんってすごい……」
僕は今日、改めて“執事”という職業の凄さとプライドを知った……。
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